【東西文明比較互鑑】戦國時(shí)代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎(chǔ)

潘 岳    2021年12月26日(日) 15時(shí)10分

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「一帯一路」建設(shè)は東西文明の相互參考を推し進(jìn)めている。寫真は中國の「剪紙」(切り絵)を見るイタリアの少女。(新華社)

「分」と「合」に分かれた政治観念

中國の古代にも多くの國が亂立し、一つの都市が一つの國になる局面がかつてあったが、最終的にはこれらの都市國家は長期にわたっては分立せず、地域的な王國を形成し、さらに一歩進(jìn)んで統(tǒng)一王朝に発展した。

どのように爭(zhēng)うかにかかわりなく、戦國七雄は一つの秩序しか持てず、分割した統(tǒng)治は長期的ではないはずだと考えていた。同時(shí)代のギリシャ都市國家の世界には宗主國は存在せず、異なる連盟による闘爭(zhēng)があるだけで、「共通の秩序」が存在するとは考えられていなかった。

國家間の関係から見ると、周代の禮式では、一國で疫病や兇作が起こったら、他國は食料を提供し、被災(zāi)者を救済しなければならないと定めていた。また、一國に冠婚葬祭があれば、各國は祝賀と哀悼に出向かなければならないとも定めていた。これらの責(zé)務(wù)は強(qiáng)制的なもので、天子によって擁護(hù)されていた。諸侯の覇者もこれらのしきたりを擁護(hù)することでようやく覇を唱えられた。これにより、國家間で「華夏〔中國の古稱〕世界」に共に屬しているという一體感が強(qiáng)化された。一方、ギリシャの都市國家間には責(zé)任関係が確立されなかった。母市からの植民でできた新しい都市國家であっても、母市に対して責(zé)務(wù)はなく、しばしば矛先を向けて攻撃さえした。ギリシャ?ペルシャ戦爭(zhēng)の際にも、ギリシャ人という共通の立場(chǎng)はわずかな効果しか発揮しなかった。

二つの文明の本質(zhì)的な性質(zhì)は二つの異なる道をつくった。

西洋は絶えず「分」に向かった。地域で分割され、民族で分割され、言語で分割された。ローマとキリスト教の努力のように、その中にも統(tǒng)一の努力はあったが、分割のすう勢(shì)が主流を占め、最終的に個(gè)人主義と自由主義に帰結(jié)した。

中國は絶えず「合」に向かった。地域で統(tǒng)一され、民族で統(tǒng)一され、言語で統(tǒng)一された。王朝交代や遊牧民族の衝撃のように、その中にも離散の時(shí)期はあったが、統(tǒng)一のすう勢(shì)が主流を占め、それによって中華文明の集団主義が育まれた。

決して中華文明に「分」の概念がないわけではない。しかし、それは決して「分割した統(tǒng)治」ではなく、「分擔(dān)」だった。人がひ弱なのに鳥獣を超えて生き延びられるのは、集団を組織できるからだと荀子は言った。集団をつくる鍵は異なる社會(huì)的役割を確定し、かつ相応の社會(huì)的責(zé)任を引き受けることにある。分擔(dān)が「禮儀?道義」に合致しさえすれば、社會(huì)を統(tǒng)合できる。このため「分」は「和」のためのものであり、「和」は統(tǒng)一のためのものだ。統(tǒng)一すれば強(qiáng)大になり、強(qiáng)大になれば自然を改造できる。

アリストテレスにも「合」の思想があった。彼は「絶対王政」の概念を打ち出した。つまり「君主1人が氏族全體や都市全體を代表し、家庭に対する家長の管理のように、全ての人々の事柄を全権的に支配する」ということだ。彼は「全體は常に一部を超越するが、このようにずば抜けて優(yōu)秀な人物はそれ自身が一つの全體であり、ほかの人々は彼の一部のようなものだ。唯一の可能なやり方は皆が彼の支配に服従し、他人と交代させずに無期限で支配権を握らせることだ」と考えた。アリストテレスを批判する人はこれに対し、アレクサンドロス大王のためにつくられた政治理論で、彼が真理よりも権力を愛していることを示していると述べた。

アレクサンドロス大王の死後、アリストテレスはすぐ反撃に遭い、アテネ公民大會(huì)の裁判に直面した。前回こうして裁判にかけられて毒を飲んだのは、彼の大師匠ソクラテスだった。アリストテレスは二の舞いを演じないようマケドニアのエヴィア島に隠れた。彼の逃亡はアテネ人にあざ笑われた。1年後、アリストテレスはわだかまりを抱えて死去し、アレクサンドロス大王の帝國もすぐに分裂した。

マケドニア王國の拡張方式は、到達(dá)地におけるギリシャ式自治都市の建設(shè)だ。こうした「自治」はその都市に居留するギリシャの植民者に対するものであって、征服された土著の社會(huì)を含まない。アレクサンドロス大王は新たに征服した一つ一つのアジアの都市に自らの側(cè)近を派遣し、総督を務(wù)めさせた。彼らは軍事と稅収だけを管理し、民政には構(gòu)わなかった。こうしたやり方は中央が強(qiáng)大な時(shí)には許されたが、いったん中央の権力が衰えると、逸脫した行動(dòng)が生まれ、都市は次々と支配から抜け出した。アレクサンドロス大王の帝國の瓦解は必然だった。

中國の戦國時(shí)代における末端政権の組織方式は完全に異なる。出土した秦代の竹簡(jiǎn)によると、秦國は併合のたびに県から郷までの末端政権組織を確立するようにしていた。県と郷の官吏は全ての民政を処理しなければならなかった。開墾を組織し、戸籍の統(tǒng)計(jì)を取り、稅金を徴収し、物産を記録し、それらの情報(bào)を都の咸陽に伝えて保存していた。秦の官吏は一つの土地に長くとどまらず、數(shù)年で交代していた。

自由と秩序の相互參考を

人類社會(huì)の歩みの中には、全てを説明できる理論は存在せず、普遍的な絶対的原則は存在しない。現(xiàn)今の東西文明の観念で最大のもつれは、「自由優(yōu)先」なのか「秩序優(yōu)先」なのかということだ。これはそれぞれギリシャ文明と中華文明の中心的な価値観だ。

「ギリシャ人」という言葉は自由に対するギリシャ人の強(qiáng)い愛情により、人種の名前から「知恵」の代名詞に変わった。中華文明は秩序に対する中國人の強(qiáng)い愛により、同源で一つの文字を使い、かつ國家の形態(tài)によって現(xiàn)在まで持続している唯一の文明になった。

秩序優(yōu)先のもたらす安定と自由優(yōu)先のもたらす革新では、どちらがより追求する価値を持つのか?これは哲學(xué)、政治學(xué)、宗教學(xué)、倫理學(xué)の限りない論爭(zhēng)を含んでおり、私たちは定説を必要としない。これら異なるものを殘すこと自體が、ちょうど將來の文明の相互參考と融合に可能性を殘す。多元と矛盾の併存は人類文明の遺伝子バンクにより多くの種を殘すだろう。自由優(yōu)先と秩序優(yōu)先という相違は東西文明の交流の障害になるべきではなく、むしろ東西文明の交流と対話の基礎(chǔ)になるべきだ。一方では、技術(shù)の発展が爆発的な革新の前夜に進(jìn)んだことで、私たちは自由のもたらす創(chuàng)造力を深く認(rèn)識(shí)した。もう一方では、非伝統(tǒng)的安全保障の危機(jī)が頻繁に勃発したことで、私たちはあらためて秩序の大切さも認(rèn)識(shí)した。自由についていえば、どのように秩序を強(qiáng)化し、それによって崩壊を防ぐかを検討しなければならない。秩序についていえば、どのように自由を強(qiáng)化し、それによって革新を呼び起こすかを検討しなければならない。問題は自由と秩序の二者択一ではなく、どの部分で自由を強(qiáng)化し、どの部分で秩序を強(qiáng)化するかということだ。

過去、一つの理念の検証には、數(shù)百年をかけて何代もの人々が繰り返し試行錯(cuò)誤することが必要だった。今日においては技術(shù)革新の下、數(shù)年間で原因と結(jié)果がはっきりと理解できる。省察、絶え間ない包容、調(diào)和と共生、相互參考と融合を理解できる文明だけが、真に持続的に発展できる文明なのだ。そのために東洋と西洋はしっかりと語り合うべきだ。(魏巍?田潔?四谷寛?jiān)U)

※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「戦國時(shí)代とギリシャ(4)東西の相違こそ対話の基礎(chǔ)」から転載したものです。

■筆者プロフィール:潘 岳

1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國共産黨第17、19回全國代表大會(huì)代表、中國共産黨第19期中央委員會(huì)候補(bǔ)委員。
著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編 購入はこちら

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