潘 岳 2021年12月31日(金) 18時(shí)40分
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ローマ皇帝オクタヴィアヌスと漢の武帝?劉徹には共通點(diǎn)が多い。ローマ帝國(guó)初代皇帝アウグストゥス。(CNS Photo)
統(tǒng)治の上層と末端
ローマ皇帝オクタヴィアヌスと漢の武帝?劉徹には共通點(diǎn)が多い。
2人とも青年時(shí)代から卓越した才能に恵まれていた。劉徹は17歳で即位し、49歳になる前に漢王朝隆盛の時(shí)代を切り開(kāi)いた。一方、オクタヴィアヌスは19歳で挙兵、47歳になる前にローマ帝國(guó)の制度建設(shè)を終えていた(18)。
また、どちらも一面的には理解できない人物である。儒家でありながらその為業(yè)は法家に近く、法家といっても秦制に後退することはなく、道家を敬愛(ài)しながら儒家を登用して國(guó)を建てた人物、それが劉徹である。オクタヴィアヌスも矛盾に満ちている。時(shí)の有力者と手を組んで元老院を形骸化するかと思えば、元老院と協(xié)力して有力者を抹殺することもした。形式的には共和政を保ちながら実質(zhì)的には帝政をしいた。複數(shù)の文官職を兼任していたが、軍隊(duì)こそが彼の力の源泉だった。
2人がこれだけ複雑な人物だったのは、ローマと秦漢というあまりにもスケールの大きな政治體を統(tǒng)率しようとしたら、いかなる理論、制度、措置であってもどれか一つだけに依拠することはできなかったからである。
國(guó)家イデオロギーを重視したという點(diǎn)でも、両者はまさに「英雄は考えることが同じ」である。劉徹がちょうど「百家を罷黜し、獨(dú)り儒術(shù)のみを尊ぶ」の號(hào)令一下、民心の統(tǒng)一を図ったのと同じように、オクタヴィアヌスも全力で「ローマ民族」アイデンティティの構(gòu)築に取り組み、分裂主義を批判して國(guó)家への責(zé)務(wù)を果たすよう社會(huì)によびかけた。
しかし、國(guó)家統(tǒng)治という點(diǎn)で、両者の採(cǎi)用した道筋、到達(dá)點(diǎn)は大きく異なる。
オクタヴィアヌスは財(cái)閥が政治に與えるダメージを克服するために財(cái)閥を文官體制のなかに取り込んだ。つまり「貴族と財(cái)閥が天下を共にする」?fàn)顟B(tài)をつくったのである。他方、下層から人材を抜擢?育成し、「平民精神」をもった王朝をつくり出すことが漢朝の文官路線(xiàn)だった(19)。
ローマ帝國(guó)の文官は屬州の首都に集中しており、末端にまで屆いていなかった。屬州の下には自治権をもつ王國(guó)、都市、部落が存在した。ローマから派遣された総督と財(cái)務(wù)官は軍事、司法、徴稅に責(zé)任をもつのみで、公共サービスと文化教育にはノータッチだった。彼らは常に地方の有力者の意向に従って実務(wù)的決定を下していた。例えば、ユダヤ屬州総督ピラトはイエスの処刑を望んでいなかったにもかかわらず、ユダヤ人有力者たちがそれを強(qiáng)固に主張したため、泣く泣くイエスを十字架に磔にした。地方の都市建設(shè)や文化活動(dòng)もまた、現(xiàn)地の富豪が積極的にスポンサーにならないと始まらなかった。英國(guó)の學(xué)者ファイナーはローマ帝國(guó)を指して「無(wú)數(shù)の自治都市で構(gòu)成された巨大な持ち株會(huì)社」(20)といっている。
したがって、地中海をとりまく上層エリートの大連合だけがローマ帝國(guó)であって、下層大衆(zhòng)がそこに含まれたことはなかったのである。上下の融合や結(jié)びつきなどは論外である。西洋の學(xué)者がいうように、ローマ文明は豊かで複雑な上部構(gòu)造を有していながら、経済基盤(pán)は貧弱な「ラティフンディア」だったのである(21)。文化基盤(pán)もそうだ。ローマでラテン語(yǔ)ができるのは貴族と官僚のみで、下層大衆(zhòng)はラテン語(yǔ)文章を読んでもまずわからなかった。ローマが下層の教育に消極的だったからだ。それ故、オクタヴィアヌスが望んだ「ローマ民族アイデンティテ?!工弦欢趣馊嗣瘠吻倬€(xiàn)に觸れることがなかった。上部構(gòu)造がひとたび崩壊すると、下層大衆(zhòng)は各々獨(dú)自の道を突き進(jìn)み、ローマをはるか彼方に投げ捨てた。他方、秦漢は上層と末端を直接結(jié)びつけ、中央から県郷までを貫通する文官體制をつくりあげた。官衙の責(zé)任で末端から集められた人材は、厳格な考査をパスしてから地方に派遣され、徴稅、民政、司法、教育を全面的に管轄した。漢朝は地方に學(xué)校をつくり、経學(xué)者に典籍〔経書(shū)〕を教えさせた。こうすることで別々の地方の人々を同じ一つの文化共同體にまとめあげたのである。中央政権が崩壊しても人々はどこでも同じ文字を書(shū)き、同じモラルに従い、共通の文化をもつ。このような社會(huì)的基盤(pán)のおかげで大一統(tǒng)の王朝が長(zhǎng)く続いたのである。
政治権力と軍事権力の関係
ローマと秦漢のもう一つの違いは軍隊(duì)と政府の関係である。
両者の関係を処理するためにオクタヴィアヌスがとった方法は軍閥方式だった。當(dāng)時(shí)もっとも潤(rùn)沢だったエジプトの財(cái)政をまず「フィスクス〔帝室財(cái)庫(kù)〕」に回収し、それを軍隊(duì)に払う給料の財(cái)源にした。結(jié)果的にこれはある種のインタラクティブなルールをもたらすことになった。たしかに軍隊(duì)は給料を一番たくさん出せる人物の配下に収まることになった。しかし裏を返せば、皇帝が給料を出せなくなったらすぐに別の給料を出せる皇帝に変えなければならないということでもある。こういうルールのもとでの平和は、オクタヴィアヌス以降たった50年しか続かなかった。オクタヴィアヌスからコンスタンティヌスまでの364年間で、帝位の交代は平均6年に1回生じている。そのうち軍隊(duì)に暗殺された皇帝は39人、全體の7割を占めた。
ローマ帝國(guó)末期の経済の崩壊は、十分な給料を軍隊(duì)に出せない事態(tài)を招いた。したがって、ローマ人は誰(shuí)も軍人になりたがらず、ゲルマン蠻族を護(hù)衛(wèi)に雇うしかなかった。最終的にローマを陥落させたのはこうした傭兵の軍隊(duì)である。タキトゥスは「皇帝の運(yùn)命が事実上、軍隊(duì)の手に握られていたところにローマ帝國(guó)の秘密がある」といった。まさにその通りである。
ローマが軍の政治介入を制御できなかったのはなぜか。一つの重要な要因は末端行政機(jī)構(gòu)を持たなかったからである。総督は治安維持と徴稅を軍隊(duì)に頼らざるを得ず、徴収した稅も軍隊(duì)への手當(dāng)に変わった。こうして、本來(lái)は中央を代表すべき総督が地方の軍閥を代表する存在になってしまった。一方、秦漢の軍隊(duì)は徴稅もできないし、民政に関わることもできなかった。文官制度下にあって、戦時(shí)は兵となる軍隊(duì)も戦後は農(nóng)民となり、ローマ軍のように利益集団に変わることはなかった。
もう一つの重要な要因は、ローマ軍人の「國(guó)家意識(shí)〔國(guó)家の一員としての帰屬意識(shí)〕」に問(wèn)題があったことだ。モンテスキューは、ローマからはるか遠(yuǎn)く離れてしまったため軍団は故國(guó)を忘れてしまったというが、事はそれほど単純ではない。漢朝と西域は、遙か彼方といってもいいぐらい隔たっていた。しかし漢の將軍?班超は、頼れる兵とてわずか1000名余り、自らの傑出した外交手腕と軍事的知略を頼みにしつつ、西域諸國(guó)の軍隊(duì)數(shù)十萬(wàn)に囲まれながら漢朝の西域支配を再建し、シルクロードを切り開(kāi)いた。モンテスキューの考えに従えば、班超は獨(dú)立して一國(guó)一城の主になることもできた。しかし、彼は漢朝のために30年にわたって西域経営に心をくだき、死んだら故郷に埋葬してほしいということだけを望んだ。班超のような將軍は漢朝に數(shù)多くいる。
ローマの軍人が政治に干渉することができたのは、ローマ皇帝の権力が「相対的専制」だったからであり、漢朝の皇帝権力は「絶対的専制」だったので軍人は逆らうことができなかったという人がいる。しかし、事実はそうではない。天下がおおいに亂れた後漢末期、名將?皇甫嵩が軍を率いて亂を平定、戦功をたてた?;实郅蠠o(wú)能軟弱で奸臣が権力を牛耳っていた當(dāng)時(shí)、不測(cè)の事態(tài)に備えてこのまま兵を維持し自衛(wèi)すべきだと皇甫嵩に勧める者がいた。しかし、皇甫嵩は躊躇なく軍の指揮権を返上した。
皇帝にそれを強(qiáng)制する力がなかったときでも、皇甫嵩ら軍人が規(guī)則を守ることができたのはなぜか。自ら進(jìn)んで國(guó)家の秩序に服従する責(zé)任感があったからである。藩鎮(zhèn)の割拠や軍閥の混戦は中國(guó)にもあるにはあったが、それが主流になったことはない。中華文明の大一統(tǒng)精神は「儒將」の伝統(tǒng)を生んだ。法家の體制と儒家のイデオロギー、両者の相乗効果で古代中國(guó)は文民統(tǒng)制を完成させ、これが中華文明のいま一つの重要な特徴になった?!傅秳嚒曹婈?duì)〕は長(zhǎng)袍〔文官〕の命に従う」というキケロの理想は、ローマではなく中國(guó)で実現(xiàn)したのである。
(18)Nic Fields『The Roman Army:the Civil Wars 88-31 BC』P53。
(19)銭穆『國(guó)史大綱』商務(wù)印書(shū)館、1991年、P128。
(20)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統(tǒng)治史』(巻一)華東師範(fàn)大學(xué)出版社、2010年、P362。
(21)ペリー?アンダーソン著、郭方?劉健訳『従古代到封建主義的過(guò)渡』上海人民出版社、2001年、P137。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「秦漢とローマ(5)ローマ帝國(guó)と秦漢王朝、その共通點(diǎn)と相違點(diǎn)」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳
1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國(guó)務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國(guó)共産黨第17、19回全國(guó)代表大會(huì)代表、中國(guó)共産黨第19期中央委員會(huì)候補(bǔ)委員。 著書(shū):東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編 購(gòu)入はこちら
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