潘 岳 2022年1月3日(月) 14時(shí)20分
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ローマのコンスタンティーヌの凱旋門。
部族単位のローカル王國
蠻族は突然ローマにやって來たのではない。漢族が遠(yuǎn)方エスニック集団を「夷狄」と呼んだのと同じく、ライン?ドナウ両河川を隔てた異族集団をローマ人は「蠻族」、後に「ゲルマン人」と呼んでいた。漢王朝と同じくローマ帝國はこの両河川に沿って「ゲルマンの長(zhǎng)城」を築き、ゲルマン諸部族との「平和共存」をなんとか保っていた。しかし、北匈奴が東方の地を追われると、草原各部族はフン族首領(lǐng)の「鞭」に追い立てられるようにして繰り返しこの脆弱な長(zhǎng)城を突破するようになる。ゲルマン人はローマ帝國の懐深くまで侵入し、略奪、殺戮をはたらき、北アフリカやヒスパニアなどの穀倉地帯、銀鉱地帯を占領(lǐng)した。こうしてローマ帝國の人口、稅基盤、軍事力は衰退の一途をたどった。420年になると、西ローマ心臓部で防衛(wèi)軍といえるものはわずか9萬の野戦軍だけになった(22)。各蠻族は占領(lǐng)地に次々と國を建てた。スエビ人はヒスパニア北西部を(409年)、ヴァンダル人は北アフリカを(439年)、ブルグンド人はフランス北東部を(457年)、アングロ=サクソン人はブリテン島を(449年)、それぞれ占領(lǐng)した。
これらはすべて部族単位のローカル小王國だったが、文字通り「大王國」をうちたてたのがゴート人とフランク人である。東西ゴート王國は南歐全域(ヒスパニア、イタリア、フランス南部)を占領(lǐng)し(23)、フランク人は西歐の大部分を征服した。
歴史家の統(tǒng)計(jì)をみると、476年の西ローマ帝國滅亡に関與した蠻族はわずか12萬人である(24)。後に北アフリカに侵入、占領(lǐng)したヴァンダル人が8萬、ガリアに侵入したフランク人、アレマン人、ブルグンド人がそれぞれ10萬、テオドリックがイタリアにひきつれてきた東ゴート人が30萬いる。ここから、ローマ帝國に侵入した蠻族の総人口は75萬人から100萬人の間と類推される(25)。
他方、西晉?東晉に南下したエスニック集団の人口は數(shù)百萬を數(shù)える。ローマ帝國と西晉の人口規(guī)模がほぼ同じだと考えれば、ローマに侵入したゲルマン諸族は數(shù)のうえでローマ人にはるかにおよばず、五胡に比べていっそう「ローマ化」しやすかったはずだし、漢文明同様ローマ文明も西歐の地で生き延びたはずである。ところが事実は逆である。これらゲルマン王國は暫時(shí)「部分的にローマ化」した個(gè)別事例を除いて、ほとんどすべてが「ローマ化」をきれいさっぱり拒絶した。
例えばゴート人は、建國後ただちに被征服者=ローマ人と居住區(qū)を別にしており、都城外に建てた城塞のほうに居住するのが普通だった。まるで孤島のように農(nóng)村にポツンと聳える城塞は、今日の歐州農(nóng)村の原風(fēng)景である。血統(tǒng)の純血を保つためにローマ人に同化せず、勇猛な武人精神を保つためにローマ文化に染まらない―ゴート人は「二元政治」(26)を確立した。統(tǒng)治上は「エスニック集団分治〔エスニック集団を分割して統(tǒng)治する〕」を?qū)g施し、ローマ人とゴート人の通婚を禁じた。法律上もゴート人は自分たちの慣習(xí)法を、ローマ人はローマ法を用いた。行政制度上では、ゴート人は軍事を擔(dān)い、ローマ人は政事を擔(dān)當(dāng)した。文化教育では、ゴート人はラテン語やローマ古典文化の習(xí)得に消極的だった。宗教では、ローマ人はキリスト教、ゴート人はキリスト教の中では「異端」とされるアリウス派を信仰した。こうした分割統(tǒng)治の習(xí)わしは長(zhǎng)年にわたって維持された。イギリスの歴史學(xué)者ベリー?アンダーソンが言うように、蠻族の建國は「融合というよりはむしろ分?jǐn)啶摔瑜敕饯啶盲俊梗?7)
挫折した融合
ゲルマン諸王國のなかで「部分的ローマ化」を推進(jìn)した唯一の例外が東ゴート王テオドリックである。テオドリックも「二元政治」を?qū)g施したが、異なるのはローマ文明の価値に理解があったことだ。
東ゴートの王子だったテオドリックは劉淵同様、人質(zhì)として過ごした東ローマ宮廷で教育を受け、ローマ貴族社會(huì)を熟知していた。しかし、劉淵が『春秋左氏伝』『尚書』に通じていたのと違い、意思疎通に支障なかったとはいえギリシャ語やラテン語を嫌い、署名せずに公文書を発行するため「記號(hào)」を彫った印を使っていたほどである(28)。
西ローマを配下に治め自らイタリア王となったテオドリックは、ゴート人とローマ人の混住こそ認(rèn)めなかったものの、西ローマ帝國の文官制度を殘し、執(zhí)政官、財(cái)務(wù)官、國務(wù)大臣らにそのままローマの管理をゆだねた。そしてローマ人には役人になるよう、ゴート人には軍人になるよう命じた。ゴート軍人が手にした唯一の利得は、ローマ人地主に供出を強(qiáng)要した「3分の1」の耕地である。蠻族占領(lǐng)軍が手にした土地としては最も少ない。
寛容なテオドリックの治世下で、ローマ人は服裝、言語、法律、習(xí)俗をまったく変えずにすんだ。なかでも寛容だったのは宗教である。テオドリックはアリウス派信者だったにもかかわらず自らサン?ピエトロの墓地に赴き、供祭している。キリスト教徒は誰1人としてアリウス派への改宗を迫られなかった。
テオドリックはローマ遺臣の権力をことさらに保護(hù)した。一番重用された大貴族ボエティウスはアウグスティヌス以降最も偉大な教會(huì)哲學(xué)者である。彼は、ユークリッドの幾何學(xué)、ピタゴラスの音楽理論、ニコマコスの數(shù)學(xué)、アルキメデスの機(jī)械學(xué)、プトレマイオスの天文學(xué)、プラトンの哲學(xué)、アリストテレスの論理學(xué)を翻訳?注釈し、後世の歴史家からは「最後のローマ人」といわれている。
テオドリックはボエティウスに國政を託し、まだ年若いボエティウスの2人の息子をローマ執(zhí)政官に任じた。爭(zhēng)いの絶えなかったローマ遺臣とゴート新貴族だが、テオドリックの実の甥がローマ人の産業(yè)を私物化しているとローマ貴族が告発すると、テオドリックは少しの躊躇もなく甥にそれを手放すよう命じた。こうしたテオドリックのローマ遺臣に対する「依怙贔屓」はゴート人の恨みを醸成し、イタリアの2萬のゴート兵は「憤懣やるかたない気持ちを抱きつつ平和と秩序を維持していた」(29)。33年のテオドリック治世でイタリアとヒスパニアはローマの昔日の面影を保ち、壯大な都市も、優(yōu)雅な元老も、盛大な祝日も、敬虔な信仰もそのまま生き殘ることになった。
ローマ人と東ゴート人のエスニックグループ融合はまったく可能だったとイギリスの歴史家ギボンはいう?!弗穿`ト人とローマ人が結(jié)束すればイタリアの幸福は子々孫々まで続いたはずだ。自由な臣民と教養(yǎng)ある軍人からなる新國民が、その気高い人徳で互いに競(jìng)爭(zhēng)し、次第に成長(zhǎng)していくことも完全に可能だった」(30)。しかし言うは易しである。ゴート人とローマ人の間で根深いこととなる亀裂は、まず宗教から始まった。テオドリックはローマ教會(huì)に寛容だったが、ローマ教會(huì)はユダヤ教を決して許容せず、ユダヤ人教會(huì)を焼き払い、その財(cái)産を簒奪した。公平を期すため、テオドリックは首謀者のキリスト教徒を厳重に処罰した。これに恨みを抱いたキリスト教徒は次々にテオドリックに背き、東ローマ?ビザンツ教會(huì)と頻繁に結(jié)託するようになった。
523年、ローマ元老院貴族アルビヌスの裏切りが摘発された。彼は、ローマ人が再び「自由」になれるようゴート王國を滅ぼしてほしいと東ローマ皇帝に親書を送ろうとしたのである。この親書がおさえられるとテオドリックは激怒し、元老院貴族の「裏切り者狩り」をはじめた。このときボエティウスは自ら盾となってローマ人を守ろうとした。「彼らが有罪ならばわたしも有罪だ。わたしには罪がないというなら彼らにも罪はない」。ボエティウスはゴート人にかなり近かったとはいえ、いざというときにはやはりローマ貴族の側(cè)に立ったのである(31)。
要するに―ギボンは言う―ゴート人がどんなに寛容であっても、ローマ人の信任はついぞ得られなかった?!袱长欷坤狈g便なやり方をとったゴード王國であっても、ローマ人の『自由な精神』が我慢の限界を超えることは必定だった」?!袱长味髦椁氦食济瘠?、征服者ゴートの出自、宗教、あるいはその品位さえ、ついに衷心から受け入れることができなかった」(32)
このときすでに晩年にさしかかっていたテオドリックは、「生涯かけてローマ人のために粉骨砕身してきたのに得たものは恨みだけだった」ことに、「こうした報(bào)いなき愛ゆえに自分が怒りを感じている」(33)と気づいた。結(jié)局、彼はボエティウスを処刑した。その際、死を前にしていかなる弁明の機(jī)會(huì)も與えないという「最もローマらしからぬ」方法を意図的に用いた。処刑まで塔に幽閉されたボエティウスはそこで『哲學(xué)の慰め』を書いた。この書物は中世學(xué)徒の必読書になった。ボエティウス処刑後はテオドリックのほうも精神的ダメージが大きく、ほどなくして病死、三日三晩苦しみぬいての死だったという。
テオドリックの死から10年後、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、異端撲滅の情熱と故土奪還の熱望から東ゴートに「聖戦」を発動(dòng)した。ビザンツ教會(huì)がアリウス派撲滅の勅令を同時(shí)に出す一方で、ユスティニアヌス1世は5250kgの金塊を積んで自らペルシャに講和を求め、東の安寧を確保し、空いた手をすべて西征にふりむけた。535年、名將ベリサリウスを派遣し20年にわたる戦爭(zhēng)を敢行、東ゴート王國を滅ぼした。
ローマを捨てたローマ
再び?xùn)|ローマの懐に帰ることになった西ローマ人、その本願(yuàn)がかなったと思うのが普通だろう。しかし意外にも答えは否である。
ベリサリウスが東ゴートを攻撃すると、西ローマの貴族?庶民は內(nèi)からそれに呼応した。ローマ貴族シルウェリウス司教の密かな內(nèi)応があったからこそベリサリウスはローマに無血入城することができた。
しかし、「帝國の軍隊(duì)」に対する西ローマ人の歓迎熱は長(zhǎng)続きしなかった。長(zhǎng)きにわたる攻防戦に辟易した西ローマ人は、最初はろくに入浴もできない、睡眠もとれないといい、後には食糧の不足から東ローマ軍を痛罵した(34)。ベリサリウスはユスティニアヌス1世あての手紙にこう書いている?!袱い蓼韦趣长恁愆`マ人はわれわれに友好的だが、もしこれ以上苦境が長(zhǎng)引けば、彼らはなんのためらいもなく自分たちの利益によりかなった道を選ぶだろう」(35)
西ローマ人の怨恨はシルウェリウス司教を動(dòng)かした。かつて東ローマ軍の入城を助けた司教がなんと今度はゴート人の潛入を手引きするために夜陰に紛れて城門を解き、彼らにベリサリウスを襲撃させて東ローマ軍の占領(lǐng)を終わらせようとしたのだ。しかし、この陰謀は暴かれ、シルウェリウスは即流刑に処された。ベリサリウスは以降2度とローマ人を信用せず、ローマの城壁にある15の城門の鍵を月に2度交換し、城門守備にあたるローマ人部隊(duì)を始終入れ替えた。
こうした「歓迎」から「拒絶」への反転はわずか4カ月の間に起こった。
ビザンツ〔東ローマ〕を捨てたのは貴族ばかりではない。平民もそうだった。多くの西ローマ農(nóng)民と奴隷はかつての主であるゴートの部隊(duì)に戻り、金をもらえなくなったゲルマン人もまた、ほとんどがゴート軍に加わり、一斉に「解放者」に攻撃をしかけた。
西ローマ人は東ゴートにも東ローマにも忠義心がなかった。自分の利益しか重視しない彼らにとっては、だれにも支配されないのが一番だった。ヘルムート?ライミッツが「西部屬州のローマ人大多數(shù)にとって『ローマ帝國の滅亡』は決して災(zāi)難ではなかった。実際、地方エリートは蠻族?ローマの軍閥?クライアントキングそれぞれと、より小さな権力単位で協(xié)力関係を形成していた」(36)と言ったとおりである。
西ローマ人にも東ローマ人に反抗した理由がある。ビザンツは當(dāng)?shù)丐蚊裆蛞活櫎坤摔护?、徴稅のことしか考えていなかったのだ。戦後のイタリア北部はすでに廃墟と化しており、経済は衰退、人口も激減していた。にもかかわらずベリサリウスの後を継いたナルセス將軍は軍政を敷き、15年にわたって略奪的な稅を課した。ビザンツの稅吏は徴稅のたびにその12分の1を合法的に自身の懐に収めることができた。これが際限なく稅をむしりとる狂信的原動(dòng)力になったのである。ビザンツの稅吏が「金切り鋏アレクサンダー」の悪名で知られる所以である(37)。個(gè)人が國家の稅収からマージンを抜く「徴稅請(qǐng)負(fù)」は、マケドニア帝國以來続く悪制だったが、ビザンツはこれを國家ぐるみの行為に変えた。また、ビザンツでローマの統(tǒng)治システムが蘇ることはなく、千年続いた元老院制度もこのとき同時(shí)に終焉を迎えることになった。
蠻族のテオドリックが苦労してローマの體制を維持しようとしたのに、そもそもローマ人の國であるビザンツがそれを一掃した。もしゴート戦爭(zhēng)がなかったら、古代ローマ文明がこれほど早く消滅して中世に突入することはなかった、というのが歐州歴史學(xué)者の認(rèn)識(shí)である。どれほどローマに寛容であってもそれが「蠻族」の皇帝である限り、心の內(nèi)奧では決して受け入れることがなかったローマ貴族の驕りこそ、その責(zé)めを負(fù)うべきであろう。
東ゴート後の蠻族が、以降苦心して「ローマ化」することは二度となかった。彼らはあっさりとローマの政治制度を投げ捨て、己の道に徹した。ローマの生活と習(xí)俗はその後1世紀(jì)あまり、歐州の片隅でただ惰性的に続いていただけである。
中華を選んだ中華
テオドリックとボエティウスの君臣関係に似た例が中國にもある。一つは前秦の苻堅(jiān)と王猛、もう一つは北魏の拓跋燾と崔浩である。
ますは苻堅(jiān)と王猛。苻堅(jiān)は五胡のなかで最も仁徳のある君主だが、一方王猛も「華北被占領(lǐng)區(qū)」隨一の漢族士大夫である。當(dāng)時(shí)、東晉も一時(shí)は北伐を試み、大將軍?桓溫が関中に進(jìn)軍すると天下の士大夫たちの期待は頂點(diǎn)に達(dá)した。王猛は桓溫に會(huì)い、互いに相手を値踏みした。そして、桓溫は破格の好待遇を用意し、全力で王猛に南下をすすめたが、王猛はこれを拒否した。一番の理由は、桓溫が本気で「大一統(tǒng)」をやろうとしていなかったからである。あなたは長(zhǎng)安の目と鼻の先にいながら灞水を渡ろうとしない。天下統(tǒng)一の志に噓があることはみんなお見通しだ―王猛は桓溫にそう言ったという(38)。
王猛は苻堅(jiān)を選んだ。苻堅(jiān)には「大一統(tǒng)」の志があったからである。氐族の苻堅(jiān)は生涯ぶれることなく「混六合以一家、同有形于赤子〔六合を混ぜて一家となすべきだ。そうすれば、夷狄もまた赤子のようであろう〕」を心に刻み続けた。長(zhǎng)安の鮮卑貴族がまだ十分に帰順していない段階で、危険を冒してでも南征―東晉を討伐する決意をあらわにし、「惟東南一隅未賓王化。吾毎思天下不一、未嘗不臨食輟餔〔東南の一隅(東晉)だけが未だに王化に賓しておらず、我は天下が一つではないことをいつも思い、夕飯も満足に食べる事が出來ていない〕」と言ったという?!附y(tǒng)一」なくして「天命」なし(39)―苻堅(jiān)は百戦錬磨の豪傑だったが決して無謀だったわけではない。ただ「大一統(tǒng)」の最終目的と個(gè)人の成否を天秤にかけなかっただけである。これは諸葛亮の「王業(yè)は偏安せず」と同じ考え方である。東晉は明らかにその力があるのに全身全霊をかけて北伐をしたことがない。淝水の戦いで大敗を喫し、後世の歴史家に笑いものにされる苻堅(jiān)だが、初志?使命感という點(diǎn)では南北どちらに軍配が上がるか、火をみるより明らかであろう。
王猛が桓溫の誘いを斷ったもう一つの理由は、東晉の「為政の道」が王猛の理想と合わなかったからである。東晉は門閥政治をきわめていたが、王猛の理想は儒?法併用の「漢制」だった。一方で法家の「明法峻刑、禁勒強(qiáng)豪〔法を明らかに、厳しい刑罰を定め、地方豪族を取り締まる〕」を求め、同時(shí)に儒家の「抜幽滯,顕賢才,勧課農(nóng)桑,教以廉恥〔くすぶる人材を見出し、有能な人材を重用する。民には耕作や機(jī)織りに勵(lì)むよう促し、己の非を率直に認(rèn)めて改める勇気をもった人を育てる〕」を求めた。
東晉の官僚は家柄で決まったが、苻堅(jiān)は下位階層から有能な人材を抜擢し、これを「多士」(40)と稱した。東晉は「天下の戸籍の半數(shù)は門閥に入る〔朝廷が直接掌握できない〕」だったが、苻堅(jiān)の統(tǒng)治は末端に及び、自ら〔あるいは使者を使って〕漢族庶民と胡族諸部族を巡察した(41)。また、東晉は玄學(xué)を好み、為政者は清談を重んじたが、苻堅(jiān)は老荘思想、神秘主義を禁じ、かわりに「學(xué)為通儒、才堪干事〔儒學(xué)に精通し、非常に有能〕」を求めた。
漢族の東晉より氐族の前秦のほうが王猛の「漢制」理解に合致していた。王猛のような真の漢人名族の考えでは、「漢」は人種や血統(tǒng)ではなく理想的な制度である。中華世界のエスニック集団は胡漢問わず、ローマ世界のように「血統(tǒng)」や「宗教」でエスニック集団を區(qū)別しない。テオドリックがもし中國に生まれていたなら、あまたの胡漢豪傑が正統(tǒng)をめざす彼を補(bǔ)佐したであろう。
次に拓跋燾と崔浩である。拓跋燾は鮮卑屈指の君主である。一方、崔浩は華北漢人名族の子弟で、3代にわたって北魏皇帝に仕え、経書、史書全般に明るく、天文陰陽の學(xué)に通じ、そればかりか自ら張良を気取るほど策略にも長(zhǎng)けていた。崔浩は拓跋燾のために建策し、柔然國を放逐、大夏を平定、北燕を滅ぼし、中國北部の大統(tǒng)一を成し遂げた(42)。また、崔浩は拓跋燾の「文治」改革の実施を後押しした。軍人貴族の六部大人官制〔主要「省庁」トップを軍人が獨(dú)占する體制〕を廃止し、文官制度すなわち尚書省を復(fù)活し、秘書省を併設(shè)した。また、末端行政機(jī)構(gòu)を整備し、地方官の考課を?qū)g施した。律令を3度にわたって改訂、中原の律令條文を大量に取り入れた。さらに崔浩は、鮮卑エリートと漢族エリートの大融合を力説し、素直に聞き入れた拓跋燾は漢人名族數(shù)百人を大々的に中央?地方政府に徴召〔出仕を命じる〕した。
拓跋燾は崔浩をこのうえなく寵愛し、自ら崔浩の邸宅に足を運(yùn)んでは軍事、國事にかかわる重要事について意見を求め、崔浩を稱揚(yáng)する歌曲を楽師に作らせた。崔浩の意見にしか耳を貸さない太武帝〔拓跋燾〕に対する鮮卑貴族の不満は相當(dāng)なもので、匈奴貴族と鮮卑貴族が共謀してクーデター未遂を起こしたこともあった。
ボエティウス同様、崔浩もエスニシティに足を引っ張られて晩節(jié)を全うすることができなかった。彼は北魏國史編纂の責(zé)任者だったとき、「逆縁婚」など鮮卑部族時(shí)代の舊習(xí)をとりあげ、これを石刻して首都の要路わきに立てた。當(dāng)時(shí)すでに中原の倫理観を受け入れ、自らを炎帝?黃帝の末裔と稱してはばからなかった鮮卑族はこうした「暴露」に激しく憤った。おりしも南朝宋の文帝が北伐を?qū)g行しているときで、鮮卑貴族は祖先を辱めたとして続けざまに崔浩を告発、崔浩は宋と密かに通じて陰謀を企んでいるとの噂まで流した。崔氏は大きな一族だったので、本家筋やその親族の支流が南朝にいたからである。拓跋燾は激怒し、清河の崔氏一門を皆殺しにした。このときすでに齢70を超えていた崔浩は誅殺の辱めを受けた(43)。
漢族と鮮卑の融合はこの「國史の獄」で頓挫しただろうか。漢族と鮮卑の物語は、ゴートとローマのそれとは大きく異なる。
ローマ貴族がしばしばゴートを裏切ったのと違い、「國史の獄」の後も傍系一族は北魏に留まった。孝文帝即位後、清河崔氏は官位4等級(jí)のトップに返り咲き、崔光、崔亮らは再び北魏朝廷に仕え、北魏國史の編纂を再開している。なかでも崔鴻は殘った資料をすべて網(wǎng)羅し、五胡諸政権の史実を記録した『十六國春秋』100巻を完成させた。
ローマ人の裏切りでゴートが急速に脫ローマ化したのと違い、「崔浩事件」を経ても拓跋燾は「人を以て事を棄てず」、以前と変わらず鮮卑貴族子弟に儒學(xué)を?qū)Wばせた。崔浩は死んでもその政治は殘ったのである。後を継いだ孝文帝はさらに漢化改革を進(jìn)め、それを頂點(diǎn)にまで高めた。漢族と鮮卑は個(gè)人の名譽(yù)と屈辱を政治に持ち込まなかった。歴史に対する深い洞察があったのである。
(22)東ローマ軍の4割超(東西ローマ軍全體の5分の1から4分の1)は常に対ペルシャ防衛(wèi)に割かれており、殘りも大部分は駐屯地部隊(duì)として、國境地帯の安全にとってそれほど脅威ではない突発事件の処理を主任務(wù)にしていた。
(23)西ゴートはフランス南部とヒスパニアを占領(lǐng)(419年)、東ゴートはイタリアを占領(lǐng)した(493年)
(24)ピーター?ヘザー著、向俊訳『羅馬帝國的隕落』中信出版社、2016年、P532。
(25)Tim O’Neillによると、アラリック1世時(shí)代の西ゴートは2萬人の兵士を含めて総人口はおそらく20萬人以下、ローマを略奪したガイセリック配下のヴァンダル人の數(shù)もこれに近く、フランク人、アレマン人、ブルグンド人もそれぞれ10萬人以下、総數(shù)でいえば75萬人から100萬人だろうという。
(26)建國當(dāng)初の蠻族はいずれも二元體制をある程度保っていた。つまり、ローマの遺制と蠻族の伝統(tǒng)的習(xí)慣が混在していた。そのなかで最もローマ化の程度が高かったのが東ゴート、その次が西ゴートである。ローマ化の消滅にはそれなりのプロセスがあり、西ゴートの二元體制が消滅するのはようやく7世紀(jì)の半ばになってからである。ピーター?ヘザー著、向俊訳『羅馬帝國的隕落』中信出版社、2016年、P503。
(27)ペリー?アンダーソン著、郭方?劉健訳『従古代到封建主義的過渡』上海人民出版社、2016年、P81。
(28)「彼は頻繁に學(xué)校に通い、有能な教師の指導(dǎo)を受けていた。しかし、ギリシャの蕓術(shù)を重視せず、最後まで科學(xué)の初歩課程に留まり、自らの無知をさらけだしていた。その結(jié)果、署名代わりに低俗な記號(hào)を用い、文盲のイタリア王と人々に思われていた」。エドワード?ギボン著、席代岳訳『全訳羅馬帝國衰亡史』浙江大學(xué)出版社、2018年。
(29)エドワード?ギボン著、黃宜思他訳『羅馬帝國衰亡史』商務(wù)印書館、1996年、P165。
(30)エドワード?ギボン著、黃宜思他訳『羅馬帝國衰亡史』商務(wù)印書館、1996年、P158。
(31)次のような異論を唱える學(xué)者もいる。ボエティウスの死は、東ゴート支配者とローマ元老院貴族との対立または正統(tǒng)キリスト教と「異端」とされたアリウス派との宗教的対立が原因ではなく、ローマ元老院および?xùn)|ゴート宮廷內(nèi)の政敵に陥れられたことに端を発する??祫P「羅馬帝國的殉道者? ―波愛修斯之死事件探析」『世界歴史』2017年第1期。
(32)エドワード?ギボン著、黃宜思他訳『羅馬帝國衰亡史』商務(wù)印書館、1996年、P166。
(33)これを機(jī)にテオドリックの人格は様変わりした。それまで人を信じて疑わなかった彼が、ローマ市民が所有する武器を沒収する命令を出した。持つことが許されたのは家庭用の小刀のみである。それまで公明正大、虛心坦懐だった彼が密告をそそのかすようになり、元老院を摘発し、ボエティウスは投獄?処刑された。宗教に寛容だった彼がキリスト教の布教禁止を準(zhǔn)備するのもこの頃である。
(34)ビザンツ帝國の歴史家プロコピオスは次のように記している?!弗愆`マの民衆(zhòng)は戦爭(zhēng)と都市包囲がもたらす苦難にまったく免疫がなかった。そのため、食糧不足や入浴できないことに苦痛を感じ始め、気づいてみれば都市防衛(wèi)のために睡眠さえ諦めなければならない狀態(tài)だった?!摔椁喜粶氦扰辘颏膜韦椁弧浃仆近hを組んでベリサリウスをあからさまに罵倒するようになった」。プロコピオス著、王以鋳?崔妙因訳『普洛科皮烏斯戦爭(zhēng)史』商務(wù)印書館、2010年、P486。
(35)プロコピオス著、王以鋳?崔妙因訳『普洛科皮烏斯戦爭(zhēng)史』商務(wù)印書館、2010年、P500。
(36)ヘルムート?ライミッツ著、劉寅訳「羅馬帝國與加洛林帝國之間的歴史與歴史書寫」王晴佳、李隆國主編『斷裂與転型:帝國之后的歐亜歴史與史學(xué)』上海古籍出版社、2017年、P276。
(37)「皇帝の悪名高き徴稅官は任期內(nèi)に大儲(chǔ)けすることができた。……彼が徴稅できる範(fàn)囲には民衆(zhòng)の負(fù)擔(dān)能力以外の限度がなかった。軍人の俸給でさえ、彼にとっては収奪の対象だった」。ジェームズ?トンプソン著、耿淡如訳『中世紀(jì)経済社會(huì)史』商務(wù)印書館、1961年、P185?!菠长长扦いΑ副恕工疚膜嗣挨纬訾骏ⅴ欹单螗扩`。アレクサンダーはユスティニアヌス治世の財(cái)務(wù)官で、金切り鋏で金貨を小さくした逸話がある?!浮航鹎肖赇e』アレクサンダー」は徴稅で蓄財(cái)した悪名高い稅吏の代名詞〕
(38)「長(zhǎng)安咫尺而不渡灞水、百姓未見公心故也」。『晉書?王猛伝』
(39)「中州之人、還之桑梓。然后回駕岱宗、告成封禪、起白雲(yún)于中壇、受萬歳于中岳、爾則終古一時(shí)、書契未有」?!簳x書?苻堅(jiān)載記』
(40)『晉書?苻堅(jiān)載記』
(41)『晉書?苻堅(jiān)載記』
(42)「掃統(tǒng)萬、平秦隴、翦遼海、蕩河源」。『魏書?世祖紀(jì)下』
(43)「自宰司之被戮辱、未有如浩者」?!何簳?崔浩伝』
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「中國の五胡侵入と歐州の蠻族侵入(2)蠻族侵入」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳
1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國共産黨第17、19回全國代表大會(huì)代表、中國共産黨第19期中央委員會(huì)候補(bǔ)委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編 購入はこちら
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