臺灣にドイツっぽい建物、日本統(tǒng)治時代の名殘―獨メディア

Record China    2021年12月29日(水) 8時20分

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26日、獨國際放送局ドイチェ?ヴェレの中國語版サイトは、臺灣には「日本経由のドイツ建築」が多く存在することを紹介する記事を掲載した。寫真は臺灣総統(tǒng)府。

2021年12月26日、獨國際放送局ドイチェ?ヴェレの中國語版サイトは、臺灣には「日本経由のドイツ建築」が多く存在することを紹介する記事を掲載した。以下はその概要。

臺北の街を歩くと、西洋の古典風建築の數(shù)々が目に飛び込んでくる。そして、これらの中からはドイツ建築の面影も見ることができるのだ。その最たる例が、かつて日本の臺灣総督府として建てられた臺灣の総統(tǒng)府である。その外観を、ドイツ?ベルリンの「赤の市庁舎」とそっくりだという人もいる。

日本は明治維新期に多くの人がドイツに留學し、ドイツ風の建築や構造が日本に持ち込まれた。経済や政治、あるいはその他の要因により、あらゆるドイツ式の設計が日本で再現(xiàn)されたわけではないが、1895年の日清戦爭勝利で清國から割譲を受けた臺灣で多くの設計が実現(xiàn)された。當時の日本政府內(nèi)部にはいわゆる「英國派」と「ドイツ派」が存在し、そのうち臺灣に派遣された人物の多くは「ドイツ派」だったため、プロイセン仕込みの考え方、計畫、経験の多くが臺灣で実現(xiàn)するに至った。

臺灣総督府の元の設計者は長野宇平治という人物で、実際に建造を擔當したのは森山松之助だった。2人はドイツに留學した経験を持たず、ベルリンの「赤の市庁舎」を參考にした、あるいは模したことを示す文獻や資料も存在しないものの、臺灣総督府の建物は「赤の市庁舎」と非常によく似ている。それ故、この建物は、當時の日本にあった「プロイセンに學ぶ」という時代の雰囲気から生み出されたものだと言えるかもしれない。

臺北の官庁街には、れんがを用いた建築群があり、これらのれんがの使い方もドイツ式建築にさかのぼることができる。かつて日本がドイツのれんが製造技術を取り入れてれんがを生産するとともに、れんが建築スタイルも導入して日本の多くの建築に応用した。それが日本を通じて直接的、あるいは間接的に臺灣に伝わったのである。臺灣でもれんがが生産されており、日本やドイツの影響を受けることで、臺灣ではより多様で広範囲にれんがが用いられるようになった。

臺灣大學歴史學部の呂紹理(ルー?シャオリー)教授は「臺灣は日本による植民統(tǒng)治期間中に、日本を通じて多くのドイツ文化を受け入れた。それは建築分野だけでなく、他の分野にもわたっており、例えば新しい語彙(ごい)やその背後にある新しい概念、考え方、衛(wèi)生、教育、農(nóng)業(yè)、林業(yè)など新しい制度や、農(nóng)薬などの物質(zhì)だ」と語っている。(翻訳?編集/川尻

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