中國(guó)新聞社 2022年1月1日(土) 12時(shí)0分
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よく「中國(guó)5000年の歴史」などと言う。どうして「5000年」と言えるのか。浙江大學(xué)蕓術(shù)及び考古學(xué)院の劉斌教授はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、この問(wèn)題に回答した。
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よく「中國(guó)5000年の歴史」などと言う。どうして「5000年」と言えるのか。中國(guó)最古の都市遺跡とされる「良渚古城」を発見(jiàn)した浙江大學(xué)蕓術(shù)および考古學(xué)院の劉斌教授はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて同遺跡や中國(guó)における「國(guó)の成り立ち」について解説した。以下の文章は、劉教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加して再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫(xiě)真】
■社會(huì)組織と権力構(gòu)造が確立した國(guó)が5000年前に存在した
浙江省杭州市內(nèi)の良渚を中心とした地域に、古い文化が存在したことは1930年代から判明していた。劉斌教授が率いるチームは2007年の調(diào)査で、三重の城壁などが存在する都市を持つ國(guó)家が存在したことを確認(rèn)した。
都市遺跡の王宮は面積が300萬(wàn)平方メートル以上ある。外殻城が囲む面積は631萬(wàn)平方メートルで、北京にある故宮の8倍だ。また良渚古城の周?chē)欷摔鲜澜缱罟扭瓤激à皮瑜ぞ薮笏┰O(shè)が存在し、水利の恩恵を受ける地域は100平方キロに達(dá)したと考えられる。
さらに良渚古城は、長(zhǎng)期間にわたる成り行きで大きくなったのではなく、計(jì)畫(huà)に基づいて短期間に建設(shè)されたことも分かった。つまり、當(dāng)時(shí)の現(xiàn)地社會(huì)には都市計(jì)畫(huà)を練る能力や大量の人員の動(dòng)員力、必要とする資材や機(jī)器の調(diào)達(dá)能力、労働者の衣食住を確保維持する能力、さらには建造物の品質(zhì)を維持し確認(rèn)する能力などがあった。
また、ごく少數(shù)の墓だけから玉(ぎょく)製の副葬品が発見(jiàn)された。玉原石の産地は特定されていないが、採(cǎi)掘や加工について分業(yè)が成立しており、完成品は最高権力者だけが手にすることができた。つまり階級(jí)社會(huì)が成立し、権力者だけが貴重品を手にすることができた。これらから、5000年前に「國(guó)」としての組織がすでに成立していたと考えられる。
■何をもって「古代文明が成立した」と見(jiàn)なせばよいのか
中國(guó)において、考古學(xué)により実在が確認(rèn)された最も古い國(guó)は、河南省などを勢(shì)力圏とした殷だった。そのため長(zhǎng)年にわたって、約3500年前の殷の登場(chǎng)をもって中國(guó)文明が成立したと見(jiàn)なされていた。
中國(guó)文明の発生を約3500年前と見(jiàn)なすのには、別の理由もあった。西洋の學(xué)界では長(zhǎng)く、文字?都市?冶金技術(shù)の「3點(diǎn)セット」をもって、文明成立の條件とする考え方があった。エジプト文明やメソポタミア文明はたしかに、この條件を満たしている。
一方の「良渚遺跡」では、青銅器など金屬器が使われたことは確認(rèn)されていない。遺跡から「簡(jiǎn)単な記號(hào)」は発見(jiàn)されたが、文字と認(rèn)定するには無(wú)理がある。そのため、文明の成立と見(jiàn)なせるかどうかについては議論があった。
しかし英國(guó)人で考古學(xué)の権威的存在であるコリン?レンフルー氏は、「文明の評(píng)価基準(zhǔn)は場(chǎng)所によって違う。必ずしも、青銅器?文字?都市の3要素が必要とは決めつけられない。國(guó)の存在こそが、文明の成立を判斷する主要部分だ」と論じていた。だとすれば、「良渚遺跡」の存在は、中國(guó)で5000年前に文明が成立していた証拠と考えてよい。レンフルー氏はその後、「良渚遺跡」を訪(fǎng)問(wèn)して「すでに文明の段階に入っていた」と斷言した。
5000年前の中國(guó)では「良渚文明」だけでなく、それこそ「満天の星」のように各地に文明が存在していたと考えられる。ただし、「良渚文明」のように総合的な遺跡は見(jiàn)つかっていない。従って中國(guó)で確認(rèn)された最古の文明は良渚文明と考えるのが、現(xiàn)狀では妥當(dāng)だ。
■「良渚文明」では稲作栽培も盛ん、日本という國(guó)の成り立ちにも深く関係
中國(guó)では地方により主食が異なっていた。北部では小麥が主食になっていった。南部では米が主食だった?!噶间尽工趣い?guó)で生きた當(dāng)時(shí)の人は米を主食にしていた。まず、「良渚古城」では米の貯蔵庫(kù)跡が見(jiàn)つかっている。大量の炭化米があったので、この貯蔵庫(kù)は火災(zāi)で焼失したと考えられるが、使用當(dāng)時(shí)は200トンのコメを貯蔵できたと見(jiàn)積もられている。このような倉(cāng)庫(kù)は、國(guó)としての食糧備蓄施設(shè)の「氷山の一角」と考えるのが自然だ。
また、浙江省寧波余姚市では良渚文明期に使われていた5000平方メートル以上の規(guī)模の水田が見(jiàn)つかっている。これらから、「良渚古城」における食糧事情は良好だったと考えられる。
なお最近の研究によると、日本では縄文時(shí)代後期(4400~3200年前)には稲作が始まっていた可能性が高い。そして日本の稲作技術(shù)は「良渚文明」などが存在した長(zhǎng)江下流域から伝えられたとされている。日本でその後、稲作が産業(yè)の中心となり米文化が日本を特徴づけるようになったことを考えれば、「良渚文明」を考えることは、日本という國(guó)の成り立ちを考えることにもつながってくる。(構(gòu)成/如月隼人)
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