潘 岳 2022年1月5日(水) 14時(shí)40分
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歴史観は文明に由來し、文明が異なれば歴史観も異なる。中國五胡は中華文明の「合の論理」を発展させ、歐州蠻族はローマ文明の「分の論理」を増幅させた。寫真は山西省大同市にある雲(yún)崗石窟。(中國新聞社)
自治と郡県
歴史観は文明に由來し、文明が異なれば歴史観も異なる。中國五胡は中華文明の「合の論理」を発展させ、歐州蠻族はローマ文明の「分の論理」を増幅させた。
ローマ帝國は統(tǒng)治機(jī)構(gòu)の上層に文官システムを有していたとはいえ、その本質(zhì)はやはり下層すなわち末端の自治である。以降の歐州は政治體制の如何にかかわらず、その國家統(tǒng)治の枠組みに都市、エスニック集団、領(lǐng)主それぞれの自治形態(tài)を自然にはらんでいた。古代ギリシャ都市國家の民主政治、ローマ帝國の自治都市、城塞が林立していた中世初期の封建王國、中世後期のイタリア都市共和國(ベニス、ジェノバ)、さらには「小共和國」構(gòu)想に基づく北米の各州共和國や「一民族一國家」モデルに基づいた歐州の民族國家に至るまですべてそうである。
時(shí)代を問わず、自治は歐州人の制度史観と歐州人が共有する価値観を解明する重要なカギである。タキトゥスが見出した「蠻族の自由」、モンテスキューが盛んに稱賛した蠻族の孤立分散的性格(71)、ギゾーが解明した、アングロ=サクソンの地方自治の伝統(tǒng)に由來する代議制精神(72)、さらにはトクヴィルが考察した、米國デモクラシーを支える地域自治(73)… すべてに銭穆の次の言葉があてはまる?!笟W州史を見渡してみると、ギリシャ以來ずっと分裂と崩壊の連続で、それぞれが國をつくり互いに協(xié)力しなかったことがわかる。大きな敵や危機(jī)を前にしても相変わらず融和、団結(jié)することができなかった?!餮螭螝s史は複雑なようにみえて実は単純である。複雑なのは表面だけで內(nèi)実はそうではない?!餮笫筏扦いΔ趣长恧违ぅ辚谷恕ⅴ榨楗螗谷摔?、化學(xué)でいえば純物質(zhì)に相當(dāng)する。一方、中國史における中國人は、化學(xué)でいえばある種の混合物である」(74)
対照的に、中國は上層の構(gòu)造がどのようなものであれ、國家統(tǒng)治の基盤は常に県?郷二層の末端行政権力だった(75)。ファイナーが言ったとおり中國は近代的な官僚機(jī)構(gòu)の「発明者」である(76)。
秦漢帝國が最初に「大一統(tǒng)」中央集権郡県制國家を築いて以降、末端行政権力の構(gòu)築は、中央が派遣し中央が管理する文官の體系に組み入れられていた。歴史上きわめて短期間の封建割拠時(shí)代があったとはいえ、「大一統(tǒng)」中央集権郡県制が主流をはずれたことはない。行政的支配権のない食邑制〔食邑は臣下に與えられた領(lǐng)地。紀(jì)元前2世紀(jì)以降、領(lǐng)主の支配権は形骸化〕や地方の官紳合作制〔郷紳(地方の実力者)と官僚が協(xié)力して地域を支配するありかた〕など、封建制度の亜種が殘っていたにもかかわらず、これらの自治権は限定的で、早くから國家権力が社會の隅々にまで浸透し、歐州式の自治は中國に存在しなかった。
自治と中央集権はそのまま二つの文明ロジックである。
ローマの視點(diǎn)で秦漢帝國をみると、中央集権の弱點(diǎn)は挙足軽重、一地方の反亂が全國レベルの大動亂に拡大転化しやすい點(diǎn)にあると考えられる。それに比べてローマ帝國は、生じた反亂のすべてが局所的で(バガウダエの蜂起を除く)、これは自治の長所である。「漢帝國の存立を脅かした中國式の農(nóng)民蜂起がローマで生じたことはない」〔ファイナー〕(77)
一方、秦漢帝國の視點(diǎn)でローマをみると、ローマ後の歐州がなぜ人種?宗教をめぐる対立を千年にもわたって延々と続けてこられたのか不思議に思える。4世紀(jì)から6世紀(jì)にかけての6度にわたるビザンツとペルシャの戦爭、7世紀(jì)から11世紀(jì)にかけて400年続いたアラブとビザンツの戦爭、8世紀(jì)から15世紀(jì)の800年間絶えることがなかったヒスパニアのキリスト教徒とムスリムの戦爭、10世紀(jì)から13世紀(jì)にかけての9度の十字軍遠(yuǎn)征、13世紀(jì)から15世紀(jì)のビザンツによるオスマン侵攻やスコットランドの対イングランド戦爭、そして全歐州を巻き込んだ30年戦爭〔1455年~1485年〕。民族と宗教が真の和解を見出した時(shí)期はわずか1世紀(jì)もない?!肝闹握巍工扦?、中國が前近代の世界全體をリードしていたといっても過言ではない?!弗愆`マの自治」の方が優(yōu)れているというファイナーでも次のように認(rèn)めざるを得なかった?!笣h帝國は他の國や帝國(とくにローマ)と違い、軍事的栄光を軽蔑していた。軍國主義に衷心から反対していたのである。その特徴は『教化』である。中國人流にいえば『文』である。こうした宗教上の寛容と文明教化の唱導(dǎo)が帝國の理想と栄光を形づくっていた」(78)
「小共同體」を好む西洋社會は、都市國家から封建自治へ、そこからさらに小共和國、米國の地域自治へと至り、最終的に個(gè)人の権利が何にも勝る自由主義へと変化していった。中國社會にも血縁集団、三老〔県や郷に置かれた住民教化擔(dān)當(dāng)の官吏〕や郷紳を中心にしたコミュニティー、各種民間結(jié)社など様々な「小共同體」があった。しかし、それらはいつでも「より大きな共同體」を目指していた。すなわち「修身?斉家?治國?平天下〔個(gè)人の修養(yǎng)、家族の秩序、國家統(tǒng)治、天下の安寧を連続的にとらえる〕」である。
ブライアン?ダウニング、チャールズ?ティリー、ウィリアム?マクニール、マイケル?マンなど多くの西洋の學(xué)者には、中世の分裂と反亂がかえって進(jìn)歩をもたらしたという自負(fù)がある。近代以前に歐州で生じた一連の戦爭が歐州の常備軍を、歐州の理性的官僚制度を、そして歐州近代民族國家と工業(yè)資本主義を生み出したとみるからだ(79)。曰く、この種の數(shù)百年続いた「低強(qiáng)度」で、一度で相手を壊滅するのが難しいような局地的紛爭は、そのことが絶えず経験を総括し、技術(shù)の蓄積型発展を進(jìn)める余地を敗れた側(cè)に與えた。封建社會の分裂的階級的性格は商業(yè)資本を生み出すのに有利で、獨(dú)立した商業(yè)都市の出現(xiàn)をもたらした。その結(jié)果、資本主義への道がよりいっそう開かれた。こうした封建制度、弱小國家、多國間競爭の體系は、歐州近代があらゆる「老いた文明」を乗り越える要因になったと。
これは暗に次の意味を含んでいる。極度に統(tǒng)一された中國には千年も続くような局地紛爭や多元的競爭システムがない。極度に集権的な中國には世襲貴族や商人が支配する自治都市がない。だから工業(yè)資本が生まれる余地がなかった。したがって「大一統(tǒng)」はかえって歴史の進(jìn)歩の妨げになったと。しかし、プリミティブな資本主義の誕生と引き換えに千年にもわたる「戦亂地獄」と「民族宗教対立」に耐えることを望むかどうか、中國人に問えば大半の答えはNOだろう。春秋時(shí)代の中國は多くの國が相爭う分封制の時(shí)代だった。秦がその流れに逆らって六國を統(tǒng)一したのは、また、「秦=暴政」という概念が世に蔓延するなかでそれでも漢が「秦制の継承」にこだわったのは、戦國300年間の大規(guī)模な戦爭で「天下共に戦闘に苦しみ休まざるは侯王有るを以てするなり」が世の中の共通認(rèn)識になっていたからに他ならない。中國はこの段階―封建制、分裂、戦亂の段階を経験していないのではなく、経験したうえでこれを放棄したのである。いわゆる「常備軍」も「理性的官僚制度」もすでに秦漢時(shí)代にはあった。歐州より1800年早い。中華文明の近代的転換に突き付けられた真の難題は、「大一統(tǒng)」の維持を土臺にしつつ、いかにして自由と秩序を同時(shí)に実現(xiàn)するか、いかにして「大共同體」と「小共同體」それぞれの利點(diǎn)を兼ね備えるか、ということである。これは西洋の多元的自由主義より高い次元の目標(biāo)である。
華夏と內(nèi)陸アジア
西洋中心主義者は常にローマとフランクをモデルにして他の文明を理解する。例えばフランクの「複合型王権」である。これは、カール大帝は「フランク王兼ランゴバルド王」という部族の長がメインでローマ皇帝という身分は二の次に過ぎなかった、カールの帝國は多民族の連合體で皇帝の命令一つでイタリア、フランス、ドイツに分かれることが可能だった、というものである。そして、この種のモデルをそのまま中國にあてはめる學(xué)者がいる。清朝皇帝もまた複合型王権だったという米國の「新清史」學(xué)者がその例である。曰く、清朝皇帝は満州族の族長、漢族の皇帝、モンゴルの可汗〔ハーン〕、チベット仏教文殊菩薩の化身といった複數(shù)の身分?地位が一つになったものである?;实郅韦长巍付嘀匾惑w性」を唯一の頼みにして中原、東北、モンゴル、チベットの統(tǒng)一が保たれていたので、ひとたび朝廷が瓦解すると各々が自由勝手にふるまえるようになったと。これは満州?モンゴル?チベットと中原の統(tǒng)治システムを完全に無視している。清朝は東北でも柔軟なやり方で郡県制を施行し、中原でもいち早く満漢隔離政策を廃止した。部族政治も一時(shí)は存在したが、モンゴルの盟旗制度〔モンゴル諸部の伝統(tǒng)的支配関係を解體して盟と旗に再編〕や南方の改土帰流〔部族長的性格をもった土官?土司を廃止して統(tǒng)一的な地方行政に再編〕のように最終的には郡県制に移行していった。中國胡族の君主は自らを部族の長ではなく、なによりもまず中國皇帝と認(rèn)識しており、胡漢の別なく中國人全體を統(tǒng)治する合法性を體現(xiàn)していたのである。
幾人かの西洋の學(xué)者は「文化的シンボル」と「自己同一性〔self identity〕」を用いて中國史を読み解こうとする。新疆、チベット、モンゴルおよび?xùn)|北三省を「內(nèi)陸アジア(inner Asia)」として他と區(qū)別し、北方エスニック集団が建てた北魏から遼?金?元?清にいたる王朝のなかに「內(nèi)陸アジア」由來の文化的同一性を探し求め、しかも各王朝を「浸透王朝」と「征服王朝」に區(qū)分する。また彼らは、北方エスニック集団特有のいくつかの習(xí)俗、儀禮を根拠に、これらの王朝には內(nèi)陸アジア的性格があると決めつける。例に挙げられるのは、北魏?高歓がおこなった代都舊制〔黒い獣毛で織った敷物を被った七人が帝を擔(dān)ぎ、上天を拝んだのち群臣の拝賀を受ける、洛陽遷都以前の鮮卑式皇帝即位儀式〕、モンゴルが殘したオルド〔行宮、モンゴル式の宮殿および宮殿習(xí)俗〕、清朝で盛んだった薩満祭祀〔「立桿大祭」といわれる大祭をはじめとする満族の宮廷祭祀〕などである。これは「儀禮」と「政道」の區(qū)別を曖昧にするものだ。中華文明の核心は儀禮、習(xí)俗、蕓術(shù)、生活習(xí)慣ではなく、どのような制度を基本に政治がおこなわれているかにある。北方エスニック集団出身の天子が黒い獣毛のうえで即位しようが郊祭〔典禮化された皇帝祭祀〕で即位しようが関係ない。冠冕をつけようが辮髪を殘そうが、薩満信仰だろうが仏教信仰だろうがどちらでもかまわない。分割支配ではなく儒?法「大一統(tǒng)」を?qū)g踐してさえいれば、部族神権政治ではなく郡県文官制を運(yùn)用してさえいれば、そして、エスニック集団毎に差異を設(shè)けるのではなくすべてを同じ民とみなしているならば、それはすなわち中國の天子である。
高歓は鮮卑の舊禮で新皇帝を即位させたとはいえ、官僚體制と法體制の「漢化」を継続した。北斉の律令は隋唐に受け継がれ、官僚選抜試験の実施規(guī)模は南朝をはるかに凌駕していた。
中央アジア?西域〔今の新疆〕に逃れた遼の耶律大石はカラキタイ〔喀喇契丹、西遼〕を建て、自らを「グル?ハン」と稱した。當(dāng)時(shí)の中央アジアでは「イクター」とよばれる分封制がおこなわれていたが(80)、耶律大石はこれを廃止し、中原王朝の制度を?qū)毪筏?。行政は中央集権、直轄地では文官制(シャフナ制)?1)を?qū)g施し、軍の指揮権を中央に集中(82)、漢字を公用文字にした(83)。稅は各戸別に1ディナール〔5ルーブル相當(dāng)の金貨1枚〕を徴収するのみで、バルトリドによればこれは中國版「十分の一稅」である。このカラキタイという名稱から、ロシアと中央アジア地域では中國のことをいまでも「キタイ〔契丹、Китай〕」という。
元朝は中央集権制で、政務(wù)全般を統(tǒng)括する中書省を中央に置き、地方には「行中書省」を設(shè)置した。文化的には各宗教がパラレルに存在したが、政治的にはやはり儒?法を統(tǒng)治理念にした國だった。他の3大ハン國〔フレグ、ジョチ、チャガタイ〕はすべて分封制だったが、1271年にフビライが『易経』の「大哉乾元」からとって國號を「大元」と改めて以降は中原王朝に変化した。元朝の歴代皇帝は例外なく儒教を?qū)Wび、孔子を尊んだ。そうなれば漢式の官僚制度は自ずと整備されていく。尊稱、廟號〔皇帝死後の廟室の稱號〕、諡號〔おくりな〕といった漢式の名稱を用い、都城、宮殿、朝儀、印璽〔天子と國家の印章〕、避諱といった漢式の儀式?制度で周囲を固めた(84)。
清代の政治制度構(gòu)築については言うまでもないだろう。理論的資源、制度設(shè)計(jì)のすべてが中華文明に由來している(85)。
草原エスニック集団が建てた王朝の習(xí)俗や儀式は何の説明にもならない。國家の性格は主にその統(tǒng)治體系によって変わる。カール大帝が「神聖ローマ」の帝冠を受けたからといってカロリング朝が「ローマ」になったわけではない。フランクの統(tǒng)治體系がローマとは別物だからである。逆に、剃髪易服〔髪を剃り服を変える〕を強(qiáng)要したとしても清朝は當(dāng)然ながら中國である。なぜならその統(tǒng)治體系が中國だからだ。
「華夏」と「內(nèi)陸アジア」は一貫して一方が他方を包含する関係にあった。遡れば夏?商〔殷〕?周三代のなかにも「內(nèi)陸アジア」はあった。陝西省の石峁遺跡からはどうみてもユーラシア草原風(fēng)の石像や石の城壁が出土している。殷墟の墳?zāi)工椁喜菰ē攻衰氓瘒猊攻骏ぅ毪斡绊懁蚴埭堡壳嚆~器が大量に発掘されている(86)。甘粛省禮県の秦公墓は「秦人」のなかに數(shù)多くの羌族、氐族が混じっていたことをはっきりと物語っている。時(shí)代を下って、「最後の漢族王朝」といわれる明朝だが、実際にはモンゴルの名殘を數(shù)多く內(nèi)に含んでいた。朱元璋の詔書は擬蒙漢語〔蒙文直訳體〕風(fēng)の文體で書かれている。明代皇帝もまた、草原の可汗、チベットの文殊菩薩と転輪聖王〔の化身〕、イスラムの庇護(hù)者といったいくつもの身分?地位を兼ねていた(87)。「明代漢服」さえも元風(fēng)である(88)。
2015年、前漢時(shí)代の復(fù)旦大學(xué)出版社、2008年、P240。
(73)トクヴィルの指摘は以下の通り。民主國家が自由を保てるのは法制度ととくに習(xí)俗〔m?urs〕のおかげである。イングランドの子孫である米國人の法制度と習(xí)俗は、彼らが絶大な力をもつに至った特殊要因であり決定的要素である。そして、米國人の習(xí)俗で最も大切なものが地域自治である?!傅赜蜃灾沃贫趣隙啶螌熤皮蛞种皮工毪韧瑫r(shí)に、人々に自由を好む習(xí)慣を育み、自由を行使する術(shù)を教える」。トクヴィル著、董果良訳『論美國的民主』商務(wù)印書館、2004年、P356、P332。
(74)銭穆『中國歴史研究法』九州出版社、2012年、P113。
(75)漢代の地方行政機(jī)構(gòu)は郡と県の2層のみだったとはいえ、県以下の末端支配機(jī)構(gòu)が非常に整っていた。郡の長官〔太守〕と県の長官〔県令〕はともに中央から派遣された。県管轄地域はさらに複數(shù)の郷と里に分かれ、「三老」が統(tǒng)轄していたが、民の教化を司るのみで社會行政を擔(dān)っていたわけではない。実際の行政実務(wù)はすべて嗇夫、有秩、游徼がおこなっていた。嗇夫と有秩は徴稅、労役差配、訴訟の擔(dān)當(dāng)、游徼は事実上の派出所所長〔公安擔(dān)當(dāng)〕である。郷のもとには亭長が管轄する亭が置かれ、亭長は法律と秩序の維持や宿駅の管理にあたり、警察権ももっていた。亭のもとには里が置かれ里正が管理していた。ファイナー著、馬百亮、王震訳『統(tǒng)治史(巻一):古代的王権和帝國』華東師範(fàn)大學(xué)出版社、2010年、P332。
(76)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統(tǒng)治史(巻一):古代的王権和帝國』華東師範(fàn)大學(xué)出版社、2010年、P71~P72。
(77)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統(tǒng)治史(巻一):古代的王権和帝國』華東師範(fàn)大學(xué)出版社、2010年、P348。
(78)ファイナー著、馬百亮、王震訳『統(tǒng)治史(巻一):古代的王権和帝國』華東師範(fàn)大學(xué)出版社、2010年、P350。
(79)例えば、英仏両國は百年戦爭(1337年~1453年)遂行下で國王直屬の常備軍と直接稅の仕組みを同時(shí)に生み出した。しかし、貴族、ローマ教皇庁、都市中産階級からの圧力が重なり、それが制約となって歐州諸國は中國式発展を可能にする國力をついに得ることができなかった。趙鼎新「中國大一統(tǒng)的歴史根源」『文化縦橫』2009年第6期。
(80)バルトリド著、張麗訳『中亜歴史:上冊』蘭州大學(xué)出版社、2013年、P138。
(81)カラキタイの直轄領(lǐng)地にはハーン権力を代行するシャフナが派遣された。これは、地方の安定を維持する社會管理制度である。シャフナは地方長官だが、一定の軍事力を有する地方行政組織そのものを指すこともあり、地方政務(wù)と租稅徴収にあたっていた。こうした官僚制度の構(gòu)築経緯は『遼史?西遼始末』に明確な記述があり、北庭都護(hù)府に7州?18部族の王を集めた大會の後に耶律大石が自らの官僚システムをつくったという。「六院司」「招討使」「樞密使」などの大臣の職名から、カラキタイの官僚制度は遼の北面官?南面官制度を踏襲したものであり、中央集権と屬國制度を引き継いだものであることがわかる。
(82)バルトリド著、張麗訳『中亜歴史:上冊』蘭州大學(xué)出版社、2013年、P49。
(83)近年、キルギス共和國でカラキタイの銅銭が4枚発掘されているが、形狀は唐銭に酷似しており、「続興元寶」と漢字が刻印されている。
(84)張帆「論蒙元王朝的〝家天下?政治特征」『北大史學(xué)』2001年第1期、P50~P57。
(85)「三代の治」復(fù)興をかかげ、曲阜孔子廟行幸で三跪九叩頭の禮をおこない(康熙帝)、儒教経典を積極的に學(xué)習(xí)、経書解釈の権威を手中に収めた。華夷の別の再構(gòu)築という點(diǎn)では、徳を有する者が天下の主君になること、「人種」ではなく「禮儀」による弁別を強(qiáng)調(diào)した。南巡の回?cái)?shù)も多く(康熙帝、乾隆帝)、明の太祖を供養(yǎng)するため明孝陵で三跪九叩頭の大禮をおこない(康熙帝)、江南士大夫を懐柔した。中央では孝道を唱導(dǎo)し、地方では郷約〔郷村秩序維持のための規(guī)約と組織〕や宗族組織の制度化にむけた再編を進(jìn)めた。楊念群『何処是〝江南?』三聯(lián)書店、2010年。
(86)典型的な北方草原青銅器としては、環(huán)首刀、獣首刀、鈴首刀、鈴首剣、有銎斧、弓形器、車馬器などがある。何毓霊「殷墟〝外來文化因素?研究」『中原文物』2020年第2期。
(87)鐘焓「簡析明帝國的內(nèi)亜性:以與清朝的類比為中心」『中國史研究動態(tài)』2016年第5期。
(88)羅瑋「明代的蒙元服飾遺存初探」『首都師範(fàn)大學(xué)學(xué)報(bào)(社會科學(xué)版)』2010年第2期。
(89)馬用の裝飾品である「當(dāng)盧〔馬の頭に裝著する面〕」に、身をよじって遠(yuǎn)くをみつめる獨(dú)角羊が描かれている。これは典型的なユーラシアステップ風(fēng)デザインで、匈奴の墓から出土した馬用の裝飾品に酷似している。
(90)Francis Fukuyama「Against Identity Politics: The New Tribalism and the Crisis of Democracy」『Foreign Affairs』2018年Vol?97、No?5。
(91)『春秋公羊伝?僖公四年』
(92)979年、宋の太宗は北伐の際に「若北朝不援、和約如舊、不然則戦」と言った?!哼|史?景宗紀(jì)下』
(93)程頤に「聖人恐人之入夷狄也,故《春秋》之法極謹(jǐn)厳」という言葉がある。また、陸遊、辛棄疾を代表とする南宋の詩詞には「胡虜」「腥羶」の表現(xiàn)で北方を忌み嫌うものが多い。邱濬『大學(xué)衍義補(bǔ)』巻75。
(94)「放火、殺人、略奪……ゴート人はいたる所で狼藉を働いた。人と見れば老若男女の別なく殺し、乳飲み子さえ容赦しなかった。女たちは目の前で夫を殺されたあと拉致された。少年と成年男子はなすすべなく両親の死體から引き離され、無理やり連行された。老人の多くは両手を縛られて異郷に流された?;覡aに帰した故郷をみるその目からは泉の如く涙があふれた。彼らは命こそとりとめたものの財(cái)産と女を失ったわが身を嘆いた」。ピーター?ヘザー著、向俊訳『羅馬帝國的隕落』中信出版社、2016年、P200。
(95)ピーター?ヘザー著、馬百亮訳『羅馬的復(fù)辟』中信出版社、2020年、P5。
※本記事は、「東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編」の「中國の五胡侵入と歐州の蠻族侵入(3)中西比較」から転載したものです。
■筆者プロフィール:潘 岳
1960年4月、江蘇省南京生まれ。歴史學(xué)博士。國務(wù)院僑務(wù)弁公室主任(大臣クラス)。中國共産黨第17、19回全國代表大會代表、中國共産黨第19期中央委員會候補(bǔ)委員。 著書:東西文明比較互鑑 秦―南北時(shí)代編 購入はこちら
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