內(nèi)モンゴルの山に刻まれた大量の巖絵―専門(mén)家が「なぜ、それほど貴重なのか」を解説

中國(guó)新聞社    2022年1月16日(日) 9時(shí)0分

拡大

中國(guó)?內(nèi)モンゴル自治區(qū)の陰山山脈で大量の巖絵(寫(xiě)真)が発見(jiàn)されたのは1976年だった。當(dāng)時(shí)の人々は巖絵にどのような思いを託したのか、そして巖絵の研究を通じて何が分かってきたのだろうか。

(1 / 5 枚)

中國(guó)?內(nèi)モンゴル自治區(qū)の陰山山脈で巖に描かれた大量の絵、すなわち巖絵が発見(jiàn)されたのは1976年だった。當(dāng)時(shí)の人々は巖絵にどのような思いを託したのか、巖絵の研究を通じて何が分かってきたのか。內(nèi)モンゴル文物考古研究院の蓋之庸副院長(zhǎng)はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、陰山山脈の巖絵や研究狀況などについて解説した。以下は、蓋副院長(zhǎng)の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加して再構(gòu)成したものだ。

その他の寫(xiě)真

■巖絵とは、全人類にとって最大規(guī)模の文化遺産

巖絵とは古代人が巖を刻んだり彩色して作った絵だ。世界中に広く分布しており、その意味で世界最大規(guī)模の文化遺産と言える。中國(guó)の巖絵は多くが國(guó)境近くで見(jiàn)つかっている。北魏時(shí)代(西暦386-534年)に著された「水経注」には巖絵についての記述がある。つまり中國(guó)は巖絵を扱った最も古い文獻(xiàn)記録のある國(guó)だ。

近代になると多くの國(guó)で巖絵の研究が盛んになった。しかし當(dāng)時(shí)の中國(guó)は國(guó)力が衰えたこともあり、巖絵の研究はわずかに散発的に行われただけだった。

狀況が一変したきっかけは1976年に陰山の巖絵が発見(jiàn)されたことだった。巖絵はおおむね內(nèi)モンゴル自治區(qū)オラッド中旗やオラッド後旗、磴口県內(nèi)の東西約300キロ、南北約70キロの地域に集中している(「旗」は內(nèi)モンゴルなどで用いられる行政區(qū)畫(huà)?!副h」に相當(dāng)。モンゴル語(yǔ)では「ホショー」)。描かれ始めたのは新石器時(shí)代初期で、制作は近代まで続いた。現(xiàn)在までに5萬(wàn)點(diǎn)あまりが見(jiàn)つかっている。

絵の題材には狩猟や乗馬、放牧、舞踴、戦爭(zhēng)、呪術(shù)、さらに太陽(yáng)や月や星、記號(hào)などもあり、點(diǎn)數(shù)の多さや內(nèi)容の豊富さ、さらには描かれ続けた年月を考えれば、驚いてしまうばかりだ。

陰山巖絵

■そこは極めて多くの民族が存在した場(chǎng)所だった

人類は文字が発明されるまで、歌や唱え文句による口伝えで記録を殘した。中國(guó)ではその後、甲骨文字が出現(xiàn)し、さらには金文、すなわち青銅器に刻まれた文字が殘されることになった。しかしそれらは「記憶の斷片」とでも言えるもので、そこから歴史の全貌を探ることは困難だ。巖絵は情報(bào)を補(bǔ)充するために実に適した素材だ。

陰山巖絵が存在するのは河套地區(qū)と呼ばれる地域だが、この地域では農(nóng)耕文明と遊牧文明が入り交じって存在した。さらに、紀(jì)元前に存在した葷粥、土方、鬼方、林胡、樓煩、匈奴などに始まり、その後の鮮卑、突厥、ウイグル、タングート、契丹、モンゴルに至るまで、実に多くの民族が活動(dòng)した地でもある。巖絵はこれらの民族が生存し発展していったことの生き証人だ。現(xiàn)在までに歴史學(xué)、考古學(xué)、蕓術(shù)學(xué)、美學(xué)などさまざまな分野の専門(mén)家が陰山巖絵を研究してきた。出版された研究所は100點(diǎn)近く、論文は數(shù)千點(diǎn)に上る。

ただし、未解決の大きな問(wèn)題がある。それは、巖絵が制作された正確な時(shí)代が分かっていないことと、絵の作者がどの民族に屬するかが分からないことだ。この二大問(wèn)題が解決できなければ、巖絵の學(xué)術(shù)的価値は大幅に低くなる。これまでに、一部の巖絵については考古學(xué)で用いられる類型學(xué)の手法を用いて描かれた時(shí)期を判斷することができた。しかし時(shí)代的な特徴がはっきりとしない巖絵については、制作年代を知ることができない。一部の學(xué)者は先端科學(xué)の手法を用いて年代を特定しようとしているが、今も模索中の狀況だ。

■研究と保護(hù)、どちらを優(yōu)先するべきか

われわれがせねばならないのは、巖絵の研究と保護(hù)だ。そして、研究よりも保護(hù)する責(zé)任の方が大きい。巖絵を現(xiàn)狀のままで後の世代に伝えることは、われわれの絶対的使命だ。

考慮せねばならないのは、自然による破壊と人的破壊の2種だ。巖絵とは長(zhǎng)い人生を過(guò)ごしてきた老人のようなもので、少しでも傷つけてはならない。問(wèn)題は巖絵がいずれも露天の狀態(tài)であることで、風(fēng)雨による浸食や気候変動(dòng)はいずれも、巖絵の安全にとって大きな脅威だ。

陰山巖絵

喜ばしいことに、陰山巖絵は2006年に全國(guó)重點(diǎn)文物保護(hù)単位(文化財(cái)重點(diǎn)保護(hù)対象)に指定された。それ以來(lái)、保護(hù)の作業(yè)は大きな進(jìn)歩を遂げた。當(dāng)局は保護(hù)條例を制定し、法に基づきしっかりと管理できるようになった。巖絵が集中している場(chǎng)所には監(jiān)視カメラが設(shè)置され、破壊行為を防止している。また、巖絵のデジタル化も進(jìn)められている。人々の文化財(cái)保護(hù)の意識(shí)が強(qiáng)まるにつれ、陰山巖絵を最良の狀態(tài)で未來(lái)に伝えていけると、十分に信じることができる。(構(gòu)成 / 如月隼人

この記事のコメントを見(jiàn)る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問(wèn)い合わせ

Record China?記事へのご意見(jiàn)?お問(wèn)い合わせはこちら

お問(wèn)い合わせ

業(yè)務(wù)提攜

Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問(wèn)い合わせはこちら

業(yè)務(wù)提攜