<北京パラリンピック>障がい者の社會復帰に生涯捧げた中村醫(yī)師を想起―「保護より機會を!」

立石信雄    2022年3月6日(日) 5時40分

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中村醫(yī)師が障がい者スポーツを広めパラリンピックの礎(chǔ)を築いたことに改めて敬意を抱いた。寫真は北京冬季パラリンピックの開幕式。

北京パラリンピックの競技がたけなわである。幾多の困難を乗り越えて躍動するパラアスリートは皆美しい。46カ國?地域から約560人が參加し、10日間、6競技78種目でメダルを爭う。

健常者の競技はアスリートの活躍が派手に伝えられ、アマ?プロを問わずコロナ禍でも大會が行われる。ところが、障がい者スポーツが大きな腳光を浴びるのは、4年に一度開かれるオリンピックの直後に開催されるパラリンピックにほぼ限られる。地味な存在だったパラリンピックに関する話題が昨年の東京大會と今年の北京大會などで、テレビや新聞?雑誌などで取り上げられ、競技種目やルールの理解も進んでいる。スポーツを通じて障がい者への理解が進むのはうれしいことである。

◆障がい者の社會復帰に一生を捧げた中村醫(yī)師

こうした中、「太陽を愛したひと ~1964 あの日のパラリンピック~」というNHKノンフィクションドラマを改めて鑑賞した。1964年の東京パラリンピックを主導して成功に導き、障がい者の社會復帰に一生を捧げた中村裕?醫(yī)師の人生を描いた感動の物語である。

1960年、整形外科醫(yī)の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障がい者醫(yī)療を?qū)Wんだ。その時に出會った言葉が、その後の彼の人生の原動力になる。

「失ったものを數(shù)えるな。殘っているものを最大限に生かせ」。

帰國した中村醫(yī)師は、障がい者スポーツを何とか広めようとするが、日本ではリハビリという言葉すらなかった時代。「見世物ものにしないでほしい」と抵抗にあうが、下半身が不自由な少年との出會いをきっかけに、車椅子バスケットボールを少しずつ普及させていった。

中村醫(yī)師は1964年の東京オリンピックと同時開催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社會の常識という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも反対の聲が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導いた。その後、障がい者自立のための施設(shè)を設(shè)立するなど、障がい者の社會復帰に盡力した。

ドラマの後半部分に人気俳優(yōu)の向井理さん演じる中村醫(yī)師が立石電機(現(xiàn)オムロン)本社を訪ね、田山?jīng)龀嗓丹蟀绀工肓⑹徽嫔玳L(オムロン創(chuàng)業(yè)者)に懇願するシーンがある?!袱长欷蓼嵌啶纹髽I(yè)に要請したが、斷られました。障害者自立のための施設(shè)の設(shè)立に協(xié)力してほしい」。父の一真は「共同出資という形でやりましょう」と応諾。その後社會福祉法人「太陽の家」とオムロンとの協(xié)力による身體障がい者のための福祉工場が設(shè)立され、工場で身障者が生き生きと働く様子がドラマで再現(xiàn)された―。

◆身體障がい者の福祉工場「オムロン太陽」

太陽の家は、大分県別府市、愛知県、京都府にある身體障害者が社會復帰するための訓練施設(shè)である。オムロンでは「太陽の家」の活動趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、「太陽の家」との合弁により、身體障がい者が働きやすい環(huán)境を整えた福祉工場「オムロン太陽(大分県別府市)」と「オムロン京都太陽」を設(shè)立した。

設(shè)立するに至ったもともとの経緯は、前述のドラマで描かれた創(chuàng)業(yè)者?立石一真と故?中村裕醫(yī)學博士との出會いにある。1971年9月、中村博士と評論家の秋山ちえ子氏が重度身體障害者の社會復帰のことで、京都?御室の本社まで依頼に來られた。中村博士は整形外科の名醫(yī)で、以前から別府に私費を投じて重度障がい者の職業(yè)訓練のため、その施設(shè)として社會福祉法人「太陽の家」をつくり、自ら理事長になっていた。中村博士のお話では、「訓練には丸々2年かかるが、すでに400人の重度身障者を社會に送り出した。ところが、そのうち1割しか就職していない。身障者の訓練には特別に骨が折れるのに、それが無駄になっている」ということだった。

この就職率の低さは、企業(yè)側(cè)の受け入れマインドの不足もさることながら、受け入れ施設(shè)の不備もわざわいしていた。重度身障者が働きやすく、居住にも便利な受け入れ體制を持った専門の工場をつくるより方法がないという結(jié)論になり、この工場の建設(shè)に協(xié)力してほしいと言ってこられたのである。

當時、私は入社していたから経緯を覚えている。當社では経営的に引き受けるのは難しい狀況であったが、『企業(yè)は社會の公器である』との社憲の精神にのっとり、太陽の家との合弁で日本初の身體障がい者福祉工場、「オムロン太陽」を1972年に設(shè)立した。そして、1986年には京都にも「オムロン京都太陽」を設(shè)立した。これらの工場ではセンサーやソケット、プログラマブルーコントローラといった電気機器の製造?販売を行なっている。このふたつの工場では、障害をもっている人が約300人おり、そのうち半數(shù)が重度障害者である。

◆障がい者が自ら「働きやすい環(huán)境」つくる

工場構(gòu)內(nèi)の配置は「障がい者が働きやすく、生活しやすく」をベースに、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住が接近しているのが特徴だ。また、彼らが働きやすいように、隨所に工夫が凝らされている。たとえば生産ラインは、車いすで自由に動けるように広くとった通路設(shè)定や、ハンディを補うさまざまな工夫を施した多品種少量生産に対応する生産ラインとなっている。また、作業(yè)をする上で不自山な部分は社員が自分たちで工夫し、獨自の補助器具や治工具を製作するなどして、生産性の向上を図っている。たとえば、車いすに乗ったままでも無理なく使用できるATMは、オムロン京都太陽の社員が開発に參加し、操作パネルの高さなどを調(diào)整して、完成させた。

中村醫(yī)師が障がい者スポーツを広めパラリンピックの礎(chǔ)を築いたことに改めて敬意を抱いた。障がい者福祉工場は全國に拡大したが、當社創(chuàng)業(yè)者の父?立石一真の決斷がその先鞭をつけたことを誇らしく思う。

障がい者の生活や就労を支える社會福祉施設(shè)「太陽の家」(大分県別府市)は、今年開所から57年になる。障がい者の社會復帰と自立に一生をかけた創(chuàng)設(shè)者、中村裕醫(yī)師(1927~1984年)の足跡を振り返る新たな歴史資料館「太陽ミュージアム~No Charity、but a Chance!~」が、20207月にこの施設(shè)內(nèi)にオープンした。

中村醫(yī)師が訴え続けた「保護より機會を」の理念が英文で資料館の銘文に刻まれている―。

今回の北京パラリンピックが、中村醫(yī)師が注いだ「障がい者ファースト」の精神を引き継いで成功するよう心から願いたい。

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現(xiàn)オムロン株式會社)取締役。1995年代表取締役會長。2003年相談役。 日本経団連?國際労働委員長、海外事業(yè)活動関連協(xié)議會(CBCC)會長など歴任?!弗蕙庭弗幞螗趣?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=ノーベル賞'>ノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名譽文化博士。中國?北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務(wù)めている。SAM(日本経営近代化協(xié)會)名譽會長。エッセイスト。

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