中國新聞社 2022年3月17日(木) 23時(shí)20分
拡大
乾杯するニクソン大統(tǒng)領(lǐng)と周恩來首相。このニクソン訪中時(shí)の晩餐會(huì)が、米國における中華料理の狀況を大きく変えた。二人が酌み交わしているのは「中國酒の最高峰」とされるマオタイ酒だ。
日本には「日本化」した中華料理も多い。その一方で、「本格中華」などと稱される店も珍しくない。では、米國における中華料理の狀況はどうなのか。中國からの移民3世のデイビット?R.チャン氏は米國內(nèi)の中華料店7850軒で食事をして記録を殘すなどで、米國における中華料理の研究を長年にわたり続けている。チャン氏はこのたび、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、米國內(nèi)の中華料理の変遷を説明した。以下は、チャン氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
■華人の親はわが子を米國社會(huì)に馴染ませるため、中華料理を食べさせなかった
私は1948年の生まれだが、子どものころに中華料理を食べたことはほとんどない。箸も使えなかった。當(dāng)時(shí)の米國には、華人に対する深刻な人種差別があった。そこで私のような米國生まれの華人は家庭において完全に米國化するようしつけられた。私の場合には両親が、とにかく流ちょうな英語を話せるようにと、中國語の勉強(qiáng)もさせてもらえなかった。
しかし私は次第に、在米華人の在り方に興味を持つようになった。カリフォルニア大學(xué)ロサンゼルス分校在學(xué)中の1960年代には、同校がアジア系研究コースを開設(shè)したので、そこに所屬して中國系米國人を深く研究することにした。その後、研究と執(zhí)筆活動(dòng)は一時(shí)中斷したが、できるだけ多くの中華料理店で食事をし、米國の華人コミュニティーを訪問し、その文化を探求しつづけてきた。私は1980年代から米國內(nèi)の中華料理店7850軒で食事をして、その記録を殘している。
■広東省の臺(tái)山料理が原點(diǎn)だった米國の中華料理、臺(tái)灣系移民の到來で大変化
19世紀(jì)半ばには、多くの中國人が米國に渡った。私の家も含めて、その大部分が広東省臺(tái)山地區(qū)からの人だった。しかし、中國からの移民は低賃金で仕事をしたので、「米國人が職を奪われている」とする反発が発生した。そして1882年には「中國人排斥法」が成立して、米國は中國からの移民労働者を受け入れなくなった。
そのため米國では當(dāng)初、純粋な広東料理、特に臺(tái)山料理が保存されることになった。しかし20世紀(jì)になって、中華系以外の米國人が中華料理店に訪れるようになると、中華料理は客の好みに合わせて変化した。米國人が好む炒め物、焼きそば、チャーハン、卵料理が登場した。
一方で、米國人も中華料理の味になじむようになった。鶏肉、牛肉、アヒル肉の中華式調(diào)理法による味が受け入れられた。1920年代になると、この米中折衷式の「プーセド?カントニーズ?フード」、すなわち「ニセ広東食」が米國各地で流行するようになった。この「ニセ広東食」が、米國式中華料理の原型だ。
米國は1960年代半ばに、中國人の移民を再び受け入れるようになった。まずは主に香港と臺(tái)灣から移民がやってきた。中には、飲食店を経営するようになった人もいた。香港からの移民が開いた飲食店は、やはり広東料理が主なメニューだったが、それまでの臺(tái)山料理に新たな活力を注ぐことになった。
臺(tái)灣からの移民は、米國における中華料理を大きく変化させた。彼らは中國からの初めての、非広東系の移民だった。また彼らが、先祖代々の臺(tái)灣住人だったとは限らない。國民黨に従って臺(tái)灣に渡り、次に米國に移った人もいたからだ。そのため米國では、例えば酸辣湯(スワンラータン、辛みと酸味のあるスープ)や宮保鶏?。ē触螗啸?ジーディン、鶏やナッツの辛み炒め)など、四川系の料理も登場することになった。
■米國の中華料理に「ニクソン?ショック」、その後の留學(xué)生急増で再び大変化
米國における中華料理の運(yùn)命を決定づけたのが、1972年2月のニクソン大統(tǒng)領(lǐng)の訪中だった。中國の周恩來首相らと共に臨んだ晩餐會(huì)の畫像や映像で、米國人はそれまで知らなかった中華料理を目にした。北京ダックやその他の、まさに中國を代表する正統(tǒng)的な料理だった。
米國人は、本場の中華料理を求めるようになった。ニクソン訪中から3カ月後、ニューヨークのマンハッタンに「湖南レストラン」がオープンして、テレビのトップニュースにもなった。
ニクソン?周恩來の晩餐會(huì)が重要だったことには、もう一つの事情が関係している。米國では1940年代末ごろに、「赤狩り」とも言われた極端な反共運(yùn)動(dòng)であるマッカーシズムが発生した。赤狩りは1955年までには終わったが、反中の雰囲気は殘った。ベトナム戦爭がエスカレートして、米中が直接に交戦する可能性もあり、反中感情は根強(qiáng)かった。
米國二大政黨の共和黨も民主黨も、中國に対しては強(qiáng)硬姿勢だった。ところが、中國に対して特に厳しい姿勢だった共和黨のニクソン大統(tǒng)領(lǐng)が方針を大転換させ、両國関係正?;丐蔚坤蚯肖觊_いた。
そのことで、それまで中華料理をあざ笑っていた米國人も開放的で寛容な気持ちになって、中國の食文化を受け入れるようになった。
近年における中國の中産階級(jí)の拡大と大陸からの渡來者の増大が米國の中華料理に與えた影響は、1960年代の中國からの移民再開に匹敵するほど大きかった。多くの中國人が米國に留學(xué)するようになったことで、中國人留學(xué)生が多い米國の大學(xué)の近くには中華料理店がひしめき合うようになった。
そのため、本格的な中華料理に觸れたことのない多くの米國人が、中國の食文化を體験するすることになった。中國人コミュニティーの飲食店で食事をする非中國系の客がますます多くなった。彼らが賞味しているのは「米國式中華料理」ではなく、本格的な中華料理だ。(構(gòu)成 / 如月隼人)
この記事のコメントを見る
Record China
2022/2/22
人民網(wǎng)日本語版
2021/7/18
2021/7/14
2021/2/2
2019/5/19
2019/3/16
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る