中國(guó)新聞社 2022年3月27日(日) 23時(shí)20分
拡大
清朝宮廷は西洋の科學(xué)や技術(shù)などをかなり大膽に受け入れていた。清朝を全盛期に導(dǎo)いた康熙帝は西洋からきた宣教師から西洋式の數(shù)學(xué)などを?qū)Wんでいたという。寫真は清朝宮廷の紫禁城(現(xiàn)?故宮博物院)。
(1 / 4 枚)
中國(guó)最後の王朝である清朝宮廷は西洋の科學(xué)や技術(shù)、さらに美術(shù)などをかなり大膽に受け入れていたという。國(guó)家繁栄の基礎(chǔ)を固めたとされる康熙帝は西洋からきた宣教師を?qū)m殿に招いて、西洋式の數(shù)學(xué)その他の學(xué)問を?qū)Wんでいた。國(guó)家清史編集委員會(huì)副主任や北京大學(xué)教授などを務(wù)めた経験のある朱誠如氏は、このほど中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、清朝宮廷における西洋文化の「受容」を説明した。以下は朱氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
■康熙?雍正?乾隆の三代に渡り中國(guó)は世界で最も栄えた國(guó)だった
清朝が特に栄えたのは4代皇帝の康熙帝(在位1662-1722年)、5代皇帝の雍正帝(同1722-1735年)、6代皇帝の乾隆帝(同1735-1796年)の時(shí)期だった??滴醯郅瑖?guó)家繁栄の基礎(chǔ)を固め、雍正帝が改革を大膽に斷行し、乾隆帝の時(shí)代に絶頂期を迎えたとも言える。
この時(shí)期には、辺境の各民族の有効な統(tǒng)治方法が確立され、帝國(guó)版図の基礎(chǔ)が確定した。政治が安定したことは、社會(huì)の発展につながった。耕地面積は中國(guó)史上初めて10億ムー(約6667萬ヘクタール)を突破し、乾隆55年(1790年)には全國(guó)の人口が3億人を突破した。わずか50年間での人口倍増だった。政府が常備する銀の量は、年間財(cái)政収入の1.5倍に達(dá)した。
當(dāng)時(shí)の中國(guó)は世界最大の輸出國(guó)だった。大量の陶器や絹、茶葉が歐州や東南アジアに輸出された。當(dāng)時(shí)の中國(guó)の製造業(yè)の規(guī)模は、歐州諸國(guó)の合計(jì)より大きかった。
そして、清の中國(guó)統(tǒng)治當(dāng)初から乾隆期にかけてフランス、ポルトガル、イタリア、オランダ、スペイン、英國(guó)、ロシアなど多くの國(guó)から中國(guó)に宣教師やその他の使節(jié)が派遣された。紫禁城、つまり中國(guó)宮廷と歐州諸國(guó)は、比較的開放的に交流していた。
■キリスト教宣教師は植民地化の先遣隊(duì)だったが、西洋文化を伝える貢獻(xiàn)をした
西洋から世界各地に派遣された宣教師は、植民地化するための先遣隊(duì)という役割りを果たした場(chǎng)合も珍しくなかった。しかし宣教師が西洋から中國(guó)もたらした地理や天文、數(shù)學(xué)が中國(guó)人の「知識(shí)の穴」を埋めたことも事実だ。西洋で著された書籍の中國(guó)訳も実施された。北京市內(nèi)の東?西?南?北の4カ所にカトリック教會(huì)が建設(shè)された。
康熙帝は中國(guó)の古典に大変詳しく、そこから気象、地理、歴史、音楽、経済、騎射、醫(yī)薬の知識(shí)を?qū)Wんでいた。その康熙帝は西洋の科學(xué)を極めて重視し、宣教師を?qū)m廷に招いて西洋の學(xué)問の授業(yè)を毎日受けた。
康熙帝は巡幸する際に、西洋の學(xué)者を隨行させて天體観測(cè)や地理上の測(cè)量をした。中國(guó)では極めて早い時(shí)代から地図が作られたが、経線や緯線はなかった。街道の距離などが書き込まれる場(chǎng)合はあったが、間違いが多かった。康熙帝は中國(guó)人と西洋人の學(xué)者を派遣して測(cè)量をさせ、30年の年月をかけて従來の地図の精度をはるかに超える「皇輿全覽図」を作らせた。
フランドル出身の宣教師だったフェルビーストは康熙帝の意向を受けて、天體の位置を観測(cè)する機(jī)器を設(shè)計(jì)?制作した。フェルビーストが作った機(jī)器は北京市內(nèi)に設(shè)置された。中國(guó)の近代的天文學(xué)は、ここに始まった。
康熙帝はイエズス會(huì)の宣教師から西洋の數(shù)學(xué)も學(xué)んだ??滴醯郅髟驻筏茣护俊笖?shù)理精蘊(yùn)」は中國(guó)の伝統(tǒng)數(shù)學(xué)と西洋の數(shù)學(xué)を両方取り上げ、両者を比較している。乾隆帝の時(shí)代の中國(guó)では、西洋の機(jī)械式時(shí)計(jì)を模倣して作り始めた。中國(guó)獨(dú)自の工夫も加わり?機(jī)械式時(shí)計(jì)は中國(guó)の機(jī)械製造に影響を與えた。
科學(xué)技術(shù)だけでなく、西洋の蕓術(shù)、特に絵畫蕓術(shù)が中國(guó)にもたらされた。イタリア人のカスティリオーネは乾隆帝の晩年に中國(guó)にやって來て、宮廷のお抱え畫家になった。カスティリオーネは50年に渡り、清朝宮廷のために絵を制作し続けた。取り上げた題材は皇后の肖像や珍しい動(dòng)物や花などだった。カスティリオーネは洋畫を制作する際に、中國(guó)の水墨畫の技法も取り入れた。それ以外にも、多くの西洋人畫家が清朝のために作畫を続けた。
■文化交流と相互學(xué)習(xí)は人類文明史の必然であり、現(xiàn)代ではより強(qiáng)く求められる
清朝皇帝が西洋の科學(xué)技術(shù)や蕓術(shù)を取り入れたのは賢明だったが、限界もあった。表面上の受け入れに留まったことだ。そのため、西洋伝來の科學(xué)技術(shù)や蕓術(shù)は、中國(guó)の土壌に根を張るに至らなかった。紫禁城の本殿の前に置かれているのは機(jī)械式時(shí)計(jì)ではなく、依然として日時(shí)計(jì)だった。西洋式の絵畫は、中國(guó)伝統(tǒng)の水墨畫よりも「下流」とみなされた。歴史の呪縛から抜け出すことは容易でなかった。
それでは西洋は、中國(guó)からどのような影響を受けたのだろうか。歐州に大きな影響を與えた中國(guó)の品としては陶磁器や絹織物がある。まずは中國(guó)からの輸入品が西洋の貴族のぜいたく品となり、18世紀(jì)の歐州では「中國(guó)ブーム」が出現(xiàn)した。そして歐州でも中國(guó)の影響を受けて陶磁器などの製造技術(shù)が向上した。
歴史を振り返れば、東西の文化交流と相互學(xué)習(xí)は人類文明史の必然だ。交流が停滯することはあったが、一時(shí)的な現(xiàn)象だった。まして現(xiàn)在は「グローバル化」が進(jìn)行している時(shí)代だ??茖W(xué)技術(shù)や文化の國(guó)際交流を、さらに力強(qiáng)く進(jìn)められねばならない。(構(gòu)成 / 如月隼人)
この記事のコメントを見る
中國(guó)新聞社
2022/3/21
人民網(wǎng)日本語版
2022/3/20
Record Korea
2022/3/17
Record China
2022/2/28
2022/2/22
2022/2/15
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る