考古學(xué)が物語(yǔ)る日中の文化交流史―日本との學(xué)術(shù)交流も進(jìn)めた中國(guó)の専門(mén)家が紹介

中國(guó)新聞社    2022年4月16日(土) 14時(shí)30分

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考古學(xué)の成果は古い時(shí)代の文化のつながりを雄弁に物語(yǔ)ってくれる。寫(xiě)真は多くの見(jiàn)學(xué)客が足を運(yùn)んだ、新疆博物館で2018年に開(kāi)催された「ニヤ·考古·物語(yǔ)——中日ニヤ考古30周年成果展」の様子。

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日本と中國(guó)の間では長(zhǎng)い歴史を通じて人や物が行き交ってきた。それに伴い文化も伝わった。もちろん、少なくとも近代以前には、ほぼ中國(guó)から日本への“一方通行”の狀態(tài)ではあったが??脊艑W(xué)の成果は古い時(shí)代の日中の文化のつながりを雄弁に物語(yǔ)ってくれる。中國(guó)社會(huì)科學(xué)院考古學(xué)研究所の副所長(zhǎng)を務(wù)めた経験もある白雲(yún)翔氏は日本の研究者との交流も積極的に行ってきた。白氏はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、考古學(xué)を通して見(jiàn)えて來(lái)る日中間の文化の伝播を紹介した。以下は白氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

その他の寫(xiě)真

■日本の初期の文化は、中國(guó)文化の直接の影響で形成された

日本と中國(guó)の真の意味での交流は今から2500年ほど前、中國(guó)では戦國(guó)時(shí)代から漢代に至る時(shí)代に始まった。當(dāng)時(shí)の日本は彌生時(shí)代だった。まず紀(jì)元前5世紀(jì)から紀(jì)元前4世紀(jì)にかけて、稲作技術(shù)が日本列島に伝わった。紀(jì)元前4世紀(jì)末から紀(jì)元前221年までの時(shí)期には青銅器や鉄器が日本に伝わった。さらに紀(jì)元前105年ごろまでには、中國(guó)から銅剣や銅銭、銅鑑、鉄製品を攜えた人が日本に渡った。

紀(jì)元前108年ごろから西暦0年ごろの日本はまだ統(tǒng)一されていなかったが、一部の國(guó)が漢王朝に使いを出すようになった。西暦1世紀(jì)から3世紀(jì)前半にかけては、漢王朝と日本の関係がさらに密接になった。日本各地に存在した國(guó)の一部は、漢王朝の冊(cè)封體系に組み込まれた可能性がある。漢の文化は日本列島の中央部にまで到達(dá)した。

中國(guó)と日本を結(jié)ぶルートは多數(shù)あったが、特に重要なのは「黃海を巡る道」だった。中國(guó)の長(zhǎng)江下流地域から出発して、中國(guó)沿岸を伝って山東半島、遼東半島、朝鮮半島に達(dá)し、そこから九州北部を目指して海峽を渡る。日本の彌生文化の中でも特に九州の文化は當(dāng)時(shí)の中國(guó)の影響を強(qiáng)く受けている。

日本に青銅や鉄の冶金技術(shù)が伝わったのは紀(jì)元前2世紀(jì)の彌生中期だ。日本は徐々に金屬時(shí)代に入っていった。また、日本で多く作られた堀をめぐらした集落、墓室に石で作った墓、堀がある墓、墳丘墓なども中國(guó)の影響を受けている。

稲作が伝わったことで日本は農(nóng)耕社會(huì)になった。社會(huì)の構(gòu)造そのものが変革した。そして金屬文化、文字、都市文化、葬祭文化など、日本の文化はいずれも中國(guó)文化の強(qiáng)い影響を受けた。

■漢の時(shí)代に日本に渡った技術(shù)者が銅鏡を制作

日本の彌生時(shí)代の遺跡からは、漢から伝わったものが多く見(jiàn)つかっている。大まかに言えば、80カ所以上の遺跡から出土している。それらの遺跡は九州、四國(guó)、本州西部に分布するが、九州北部に特に集中している。

例えば、朝鮮半島と日本の九州島の間にある長(zhǎng)崎県の壱岐島にある「原の辻遺跡」は三重の堀に囲まれた臺(tái)地遺跡で、銅鏡、青銅製の馬や車(chē)の像、剣、矢じり、分銅、中國(guó)の銅銭、さらに鉄の斧も出土した。この「原の辻遺跡」は、「三國(guó)志?魏志』に記載がある「一支國(guó)」の都だったと考えられている。

日本人は銅鏡、鉄剣、玉器を?qū)殼瓤激à?。この「三種の寶」はいずれも、中國(guó)から伝わったものだ。中でも福岡県の平原(ひらばる)遺跡1號(hào)墓から出土した大型銅鏡5點(diǎn)は後漢(25-220年)時(shí)代の雲(yún)雷紋地連弧紋銅鏡と極めてよく似ている。中國(guó)と日本の研究者はいずれも、中國(guó)から渡った銅鏡づくりの技術(shù)者が日本で制作したと推測(cè)している。

唐(618-907年)の文化が日本に大きな影響を與えたことはよく知られている。例えば奈良時(shí)代の平城京の構(gòu)造は、隋唐時(shí)代の長(zhǎng)安と洛陽(yáng)の影響を、直接に受けた。日本の寺院建築も唐の寺院の影響を受けた。7世紀(jì)末から8世紀(jì)初頭にかけて作られた奈良県の高松塚古墳の墓室壁畫(huà)は、唐の墓の壁畫(huà)の影響がみられる。高松塚古墳からは、唐の様式である海獣葡萄鏡も出土している。

■大きな成果を上げた日中の考古學(xué)交流、今後の一層の進(jìn)展に期待

今年(2022年)は中國(guó)と日本の國(guó)交が正常化して50周年だ。過(guò)去50年間で、両國(guó)の考古學(xué)界の交流は大きく発展してきた。実は両國(guó)の考古學(xué)界の交流は、國(guó)交正?;瑜辘氦盲惹挨耸激蓼盲皮い?。例えば、1957年に日本の考古學(xué)代表団が訪中したことだ。そのような基礎(chǔ)があったからこそ、國(guó)交正?;幛蝸I國(guó)の考古學(xué)界交流は急速に発展したと言える。

両國(guó)の考古學(xué)交流は3種類(lèi)に分類(lèi)できる。まず雙方の研究者の交流だ。中國(guó)社會(huì)科學(xué)院考古研究所は、日本の國(guó)立奈良文化財(cái)研究所や千葉県佐倉(cāng)市の國(guó)立歴史民俗博物館と協(xié)力と交流の協(xié)定を締結(jié)している。また、山東省と山口県、陝西省と奈良県、西安市と奈良市のように、姉妹県?都市になった地域の交流や協(xié)力の範(fàn)囲に、考古學(xué)分野が含まれることもある。

次のタイプは、両國(guó)が協(xié)力しての考古學(xué)調(diào)査だ。例えば、漢代の長(zhǎng)安桂宮遺跡を共同で発掘調(diào)査したなどがある。このタイプの共同調(diào)査は、件數(shù)は少ないがいずれも重要なものだ。もう一つのタイプは、雙方が連攜して進(jìn)める特定の対象に的を絞った研究だ。例えば2004年から05年にかけて実施した炭素14年代測(cè)定共同プロジェクトなどがある。これらの共同プロジェクトはいずれも順調(diào)に進(jìn)み、大きな成果をあげた。

両國(guó)の人員や機(jī)関は平等な立場(chǎng)で共同研究プロジェクトに臨んでいる。雙方が協(xié)定を順守し、もし何かあった場(chǎng)合でも友好的に協(xié)議して解決してきた。中國(guó)側(cè)関係者は日本人研究者の真剣さや細(xì)かさ、仕事を第一に考え苦労をいとわない精神、深く理解しようとする探究精神、真実を求める科學(xué)精神に敬服し、「見(jiàn)習(xí)う価値あり」と感じている。

これからの新たな時(shí)代にあっても、両國(guó)の考古學(xué)界の交流と協(xié)力が発展し、深まり、絶えず新分野を開(kāi)拓して新たな進(jìn)展を遂げることを期待する。(構(gòu)成/如月隼人

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