中國新聞社 2022年4月21日(木) 0時20分
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山西省大同にあり1500年の歴史を持つ雲(yún)岡石窟(寫真)には、かつての中國內(nèi)外の文化交流がどのように反映されているのか。また、現(xiàn)代にあってはどのように文化の懸け橋になっているのか。
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山西省大同にあり1500年の歴史を持つ雲(yún)岡石窟には、かつての中國內(nèi)外の文化交流がどのように反映されているのか。また、現(xiàn)代にあってはどのように文化交流の懸け橋になっているのか。仏教考古學(xué)などを?qū)煿イ工腚?yún)崗研究院の杭侃院長はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて過去から現(xiàn)在に至る雲(yún)崗石窟と文化交流の関連を解説した。以下は杭院長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
■団結(jié)を維持するために仏教を重視した鮮卑?拓跋氏の支配層
紀(jì)元前3世紀(jì)ごろから中國北部の広い地域を支配した北方民族の鮮卑の一派だった拓跋氏は、398年に平城(現(xiàn)?山西省大同)に遷都した。當(dāng)時の中國は五胡十六國と呼ばれる時代で、南部では東晉が命脈を保っていたが北部は分裂狀態(tài)で、さまざまな民族が入れ替わり勃興し、各地で建國しては短期間で滅びることを繰り返していた。この混亂局面を収束させたのが、拓跋氏が建てた北魏だった。
中國北部を統(tǒng)一した北魏は、南部の東晉に戦いを挑んだが、大きな問題があった。北魏軍は中國北部に存在したさまざまな民族の部隊の集合體だったからだ。戦爭ではどうしても、敵と直接に激突する部隊と、「念のための陣固め」を擔(dān)う部隊が出て來る。それぞれの部隊の危険度は違う。いずれの民族の部隊の消耗が大きくなっても、「不公平だ」といった不平不満が出かねない。そうなれば、北魏としての統(tǒng)一に悪影響が発生する。
北魏の支配者が、國を安定させるための共通の価値観の源泉として見出したのが仏教だった。拓跋氏が屬する鮮卑が民族として成立した地は、現(xiàn)在の黒竜江省最北部の大興安嶺だった。拓跋氏は南下の過程で仏教に出會った。
仏教では最終的な悟りを開いた者を如來と呼ぶが、北魏では「皇帝とはすなわち如來。如來たる皇帝が弟子である民を?qū)Г工瓤激à椁欷毪瑜Δ摔胜盲俊?/p>
■拓跋氏が南下して造営した都に、シルクロード文化が大量に入る
拓跋氏は早い時期には、東西交流のシルクロードから離れた地で勢力を伸ばしたが、南下して平城に都をおいたことで、シルクロードと直接かかわることになった。平城の跡地である山西省大同では外國由來の品が多く出土している。文獻(xiàn)にも外國人が多く平城にいたことが記されている。例えば、中央アジアに分布した大月氏と呼ばれた民族に屬する人が、平城で「五色のガラス」を製造していたなどだ。大月氏の系統(tǒng)については諸説あるが、イラン系とする説が有力だ。
1930年代から40年代にかけて、北京を拠點に中國各地の伝統(tǒng)建築を研究する中國営造學(xué)社という學(xué)術(shù)団體が活動していた。その中の何人かが1933年9月に雲(yún)崗石窟を調(diào)査して、後に「雲(yún)崗石窟で表現(xiàn)された北魏建築」と題する文章を発表した。同文書は、雲(yún)崗の彫刻には「非中國」の要素が多く、ギリシャ古典美術(shù)の要素を受け継いでいると指摘した。また、インドの仏教蕓術(shù)の影響が強(qiáng)いことも判明した。
文章は「雲(yún)崗石窟は西域やインドの仏教建築が中國に大規(guī)模に入ってきたことの実証だ」と論じた、そして中國建築の基本構(gòu)造は揺らぐことがなかったが、「裝飾模様では中國に大量の新素材と変化、新たな彫刻法がもたらされた。それらは広まり、現(xiàn)在に至っている」と結(jié)論づけた。
■多くの外國要人を迎え入れた雲(yún)崗石窟、今後もさらに文化交流に貢獻(xiàn)
中華人民共和國成立後、多くの外國政府要人が雲(yún)崗石窟を見學(xué)した。特筆すべきは、1973年9月にフランスのポンピドゥー大統(tǒng)領(lǐng)が周恩來首相に付き添われて雲(yún)崗に足を運んだことだ。
ポンピドゥー大統(tǒng)領(lǐng)は、西側(cè)諸國の指導(dǎo)者の中で初めて訪中した人物だっただけに、雲(yún)崗を訪れたことの意義は大きい。周首相はポンピドゥー大統(tǒng)領(lǐng)に、文化財や舊跡をしっかり保護(hù)せねばならないと、繰り返し強(qiáng)調(diào)した。周首相はこの雲(yún)崗訪問時に、「雲(yún)崗石窟を3年間で補修する」と述べた。
中國は1974年から巨額を投じて「緊急補強(qiáng)」「危険除去」「現(xiàn)狀保持」「文化財保護(hù)」を原則とする主要石窟に対する大規(guī)模な応急補強(qiáng)を3年間で完成させた。これが、雲(yún)崗関係者が今も口にする「3年補修計畫」だ。
2017年にはポンピドゥー大統(tǒng)領(lǐng)の子息であるアラン?ポンピドゥー氏が夫人と共に雲(yún)崗石窟を見學(xué)した。アラン?ポンピドゥー氏は現(xiàn)地にある周首相記念室も訪れ、壁に掲げられている父親の寫真を見て、隨行員の一人一人も確認(rèn)した。
1977年5月にはオランダのベアトリクス女王とクラウス?フォン?アムスベルク王配(女王の配偶者)が雲(yún)崗石窟を見學(xué)した。2015年10月には、ベアトリクス女王の子息であるオランダのウィレム=アレクサンダー王とマクシマ?ソレギエタ王妃が3人の王女を従えて雲(yún)崗石窟を観光した。
雲(yún)崗石窟はそれ以外にも英國、メキシコ、ブータン、タイ、ウルグアイなど多くの國の要人を迎え入れた。多くの外國人が「雲(yún)崗石窟は間違いなく、世界最高峰の蕓術(shù)の一つだ」と稱賛し、中國が雲(yún)崗石窟を保護(hù)していることは、文化面における中國の世界に対する貢獻(xiàn)と認(rèn)めている。雲(yún)崗はこれからの新たな歴史的時期において、中國と外國の文化交流にさらに大きな役割を果たすに違いない。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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