<訃報(bào)>立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)=多様性を擁護(hù)、弱者に寄り添う―海外での日本企業(yè)理解に盡力 

Record China    2022年4月18日(月) 11時(shí)50分

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立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)が逝去した。経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)なども歴任。OECDが99年に「ガバナンス原則」を策定した際、世界6人の起草委員の1人として參加した。

立石信雄オムロン元會(huì)長(zhǎng)が逝去した。オムロン創(chuàng)設(shè)者の立石一真氏の次男。1959年立石電機(jī)販売に入社。1965年立石電機(jī)(現(xiàn)オムロン株式會(huì)社)取締役。英語(yǔ)力を駆使して國(guó)際営業(yè)擔(dān)當(dāng)として同社の海外展開(kāi)に盡力した。代表取締役會(huì)長(zhǎng)。相談役などを歴任した。85歳。

財(cái)界活動(dòng)も長(zhǎng)く、経団連?國(guó)際労働委員長(zhǎng)、海外事業(yè)活動(dòng)関連協(xié)議會(huì)(CBCC)會(huì)長(zhǎng)などを歴任。CBCCの事業(yè)の一環(huán)として中國(guó)など世界の有力大學(xué)や経済団體で「企業(yè)経営」や「市場(chǎng)経済の発展」などについて講演。同志社大名譽(yù)文化博士。北京大、南開(kāi)大、上海交通大、復(fù)旦大などの顧問(wèn)教授や顧問(wèn)を務(wù)めた。

◆「コーポレートガバナンス」を推進(jìn)

東京証券取引所と金融庁が制定し、2015年6月から適用が始まった「コーポレートガバナンス?コード(企業(yè)統(tǒng)治指針)」にも関わった。英米の証券取引所が社外取締役を求めるコードが策定され、経済協(xié)力開(kāi)発機(jī)構(gòu)(OECD)は1999年に「ガバナンス原則」を策定。日本から、當(dāng)時(shí)オムロン會(huì)長(zhǎng)だった立石信雄氏が世界6人の起草委員の1人として參加した。

経営論や経営哲學(xué)にも精通し、「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』を受賞した。日本経営近代化協(xié)會(huì)(SAM)をリードし名譽(yù)會(huì)長(zhǎng)を務(wù)め、若い世代の経営論文コンテストを主催し助成した。

著書に『企業(yè)の作法 CSRが拓く企業(yè)の未來(lái)』(2006年)『市民と共存する経営 21世紀(jì)型企業(yè)への新視點(diǎn)』(1996年)がある。

青年時(shí)代にキリスト教會(huì)で賛美歌コーラス隊(duì)に參加したロマンチスト。蕓術(shù)にも造詣があり、日本の藤原歌劇団はじめオペラ界の振興にも心血を注いだ?!窤I(人工知能)では表せない人間の生の聲をもっと生かすべきだ」というのが口癖だった。

筆者は1980年代半ばから財(cái)界擔(dān)當(dāng)記者として接して以來(lái)40年近く。取材などでの思い出は多い。まず経済同友會(huì)の論客として登場(chǎng)し、「少壯の財(cái)界人」と紹介したこともある。

◆父?立石一真氏を尊敬

2016年12月27日から2022年3月6日まで合計(jì)253本の珠玉のエッセーをメディアのレコードチャイナに寄稿、多くのメディアにも配信された。実際の體験に基づき、人類多様性と弱者支援の精神にあふれたものばかりで毎回反響を呼んだ。

父のオムロン創(chuàng)業(yè)者?立石一真氏(松下幸之助氏と並ぶ立志伝中の人)を尊敬し、度々思い出を綴った。

「技術(shù)先行型企業(yè)を目指した立石電機(jī)を、オートメーション機(jī)器から情報(bào)システムメーカー『オムロン』へと飛躍させた父?立石一真は、創(chuàng)業(yè)50周年を迎えた1983年の年頭、『大企業(yè)の仲間入りをした立石電機(jī)は、大企業(yè)病にかかっている。意識(shí)革命に徹し、創(chuàng)業(yè)の精神に還り、徹底的分権により中小企業(yè)的な組織と簡(jiǎn)潔な制度で活性化を図ることこそ、五十周年にふさわしい大仕事である。全員でこれに挑戦してほしい』と指示した。これを受け立石電機(jī)では、全社あげて大企業(yè)病の一掃をテーマに、次なる半世紀(jì)への挑戦に向かった」

◆「大企業(yè)病を克服すべき」

「父は『大企業(yè)病』の名付け親となりこの語(yǔ)は日用語(yǔ)化した。大企業(yè)病克服のために『起業(yè)家精神の復(fù)活』の必要性を説いた。これはまさに現(xiàn)代に通じる経営名言だと思う。企業(yè)は自らの使命を再確認(rèn)し、今後の事業(yè)の中核となるコアコンピタンスを再確立するとともに、それに向けて分権化、分社化、M&A(企業(yè)の合併?買収)などあらゆる戦略?手法を駆使して自らの企業(yè)構(gòu)透の再構(gòu)築を推進(jìn)することである」

◆「最もよく人を幸福(しあわせ)にする人が最もよく幸福となる」

「一真はいつも『最もよく人を幸福(しあわせ)にする人が最もよく幸福となる』をモットーとして掲げ、実踐していた」

「人間は誰(shuí)でも幸福になる権利があるが、人を押しのけたり、足を引っ張ったりして自分だけ幸福になろうとしても、決して幸福にはなれない。人に幸せを與えることで、自分に幸せが戻ってくるものである?!浩髽I(yè)は社會(huì)の公器である』との精神にのっとり、日本初の身體障害者福祉工場(chǎng)、「オムロン太陽(yáng)」を1972年に設(shè)立した?!赫虾φ撙瑑Pきやすく、生活しやすく』をモットーに宿舎も設(shè)け、仕事エリアと生活エリア、すなわち職住を接近させたのが、この工場(chǎng)の特徴である」

◆障がい者の社會(huì)復(fù)帰に一生を捧げた中村裕醫(yī)師

「障がい者の社會(huì)復(fù)帰に生涯捧げ、1964年の東京パラリンピックを成功に導(dǎo)いたのが中村裕醫(yī)師である。健常者の競(jìng)技はアスリートの活躍が派手に伝えられ、アマ?プロを問(wèn)わずコロナ禍でも大會(huì)が行われる。ところが、障がい者スポーツが大きな腳光を浴びるのは、4年に一度開(kāi)かれるオリンピックの直後に開(kāi)催されるパラリンピックにほぼ限られる。地味な存在だったパラリンピックに関する話題が今回の東京大會(huì)を前に、テレビや新聞?雑誌などで取り上げられ、競(jìng)技種目やルールの理解も進(jìn)んでいる。スポーツを通じて障がい者への理解が進(jìn)むのはうれしいことである」

「1960年、整形外科醫(yī)の中村裕博士は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障がい者醫(yī)療を?qū)Wんだ。その時(shí)に出會(huì)った言葉が、その後の彼の人生の原動(dòng)力になる?!菏Г盲郡猡韦驍?shù)えるな。殘っているものを最大限に生かせ』。中村醫(yī)師は1964年の東京オリンピックと同時(shí)開(kāi)催されたパラリンピックの成功に向け奔走。社會(huì)の常識(shí)という壁が立ちはだかり、障がい者の家族からも反対の聲が上がったが、家族や仲間の支えで、次々と突破。東京パラリンピックを成功に導(dǎo)いた。その後、障がい者自立のための施設(shè)を設(shè)立するなど、障がい者の社會(huì)復(fù)帰に盡力した」

「『太陽(yáng)の家』は、大分県別府市、愛(ài)知県、京都府にある身體障害者が社會(huì)復(fù)帰するための訓(xùn)練施設(shè)である。オムロンでは太陽(yáng)の家の活動(dòng)趣旨に賛同し、資金を寄付するとともに、太陽(yáng)の家との合弁により、身體障がい者が働きやすい環(huán)境を整えた福祉工場(chǎng)、オムロン太陽(yáng)(大分県別府市)とオムロン京都太陽(yáng)を設(shè)立した」

◆京都をこよなく愛(ài)した

「京都で育った私は、京の町並みや風(fēng)情に溫かさを感じる。近代的な建物が増えたが、超高層ビルはほとんどない。山の緑や川面のせせらぎの中、広がる瓦屋根の民家の風(fēng)景に、やすらぎを憶える。京都はお寺が多い。そのためか四季を愛(ài)でることがたやすくできる」

「コロナ禍が収束し、激減した?jī)?nèi)外の観光客が戻ることを切望したい。四季折々におりなす文化をいつまでも抱擁する京都であってほしいものである」

◆弟?立石義雄氏のコロナ急逝にショック

「2020年4月21日未明、弟の立石義雄(京都商工會(huì)議所會(huì)頭)が新型コロナウイルス感染癥で亡くなった。私より3つ年下。これからも一緒に豊かな白秋期を歩もうと勵(lì)まし合った直後の急逝で、大きなショックを受けた。立石電機(jī)?オムロントップとして奮闘中に急逝した長(zhǎng)兄?孝雄、そして三男?義雄まで突然帰らぬ人となってしまったが、父?立石一真、そして生みの母と育ての母に、この會(huì)社の発展した姿を見(jiàn)せてあげたいと思う」

「弟の義雄が社長(zhǎng)に就任した時(shí)、「兄さんの弔辭は読みませんよ」と私に語(yǔ)り掛けたことがあった?!负韦皮长妊预Δ螭?、おまえは」と笑いながら返すと、「長(zhǎng)生きしてくださいね」と言った。義雄らしい憎まれ口だったが、優(yōu)しさの裏返し表現(xiàn)だった。私が殘されその通りになってしまった」

八牧浩行

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