中國新聞社 2022年4月21日(木) 16時50分
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西洋における近代的な中國研究の先駆けとなった、ビチュ―リンという人物がいた。當(dāng)時の西洋人によくあった「アジアは劣る」どの先入観とは無縁の研究姿勢を貫いた。寫真は研究対象の一つとした「資治通鑑」?!?
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いわゆる「大航海時代」の到來とともに西洋人は、世界各地の研究に力を入れるようになった。中國はとりわけ重視された研究対象の一つだった。しかし西洋人の研究には「アジアは劣っている」とする先入観が付きまといがちだった。そんな中で、ロシアのニキータ?ヤコビレッチ?ビチェーリンは、客観的かつ公平な姿勢を貫いて膨大な量の質(zhì)の高い中國研究を殘した。吉林師範(fàn)大學(xué)東北研究所所長の梅春才教授はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、ビチェーリンの中國研究を紹介した。以下は梅教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
■「機(jī)上の研究」だけでなく、実情理解のために中國人に多く接する
ビチェーリンは1777年に、現(xiàn)在のロシア連邦沿ボルガ連邦管區(qū)の一部であるチュバシ共和國內(nèi)で生まれた。父親は聖職者だった。ビチェーリンは神學(xué)校で學(xué)んだ。卒業(yè)後の一時期はフランス語教師になったがやがて聖職者となり、修道院長なども務(wù)めた。1807年にはロシア正教第9次北京宣教師団の団長となり、1821年に帰國するまで中國に13年間あまり滯在した。なお、ビチュ―リンは修道名であるイアキンフの名で呼ばれることも多い。
中國に赴任したビチュ―リンは、中國語、満洲語、モンゴル語の勉強に力を入れた。また、「機(jī)上の研究」だけでなく、中國服を著て街を歩き、多くの中國人に接して中國の実情を理解することに努めた。
ビチュ―リンは中國語およびその他のアジア地域の言語の辭書を編纂(へんさん)し、中國語の文法書も著した。さらに大量の中國語文獻(xiàn)を翻訳し、中國及び周辺地域の社會や歴史を研究した。
■「中國文明は模倣で成立」と強弁する従來型研究を批判
ビチュ―リンは1816年、100年間以上も北京に駐在する宣教団が、科學(xué)研究や國益のために何の貢獻(xiàn)もしていないと批判する書簡をロシア正教會事務(wù)総局に送った。ビチュ―リンはその書簡で、中國語やモンゴル語から翻訳された書籍は質(zhì)が悪く、信頼できない資料もあると指摘した。
ビチュ―リンが生涯に執(zhí)筆?翻訳した書籍は100點を超え、それ以外にも多くの文章を発表した。1853年にサンクトペテルブルグ市內(nèi)の修道院で死去するまで研究を続け、その墓には「無時勤労垂光史冊(常に勤勉であり、その栄光は歴史に殘る)」の漢字8文字が刻まれた。
ビチュ―リンはロシアにおける中國學(xué)の先駆けであり、一貫して中國の史料/資料を基本とする原則を堅持した。そのことで、ロシアの中國學(xué)は獨自の科學(xué)性を確立した。當(dāng)時の歐州では、中國文明のエジプト起源説やバビロニア起源説が受け入れられていたが、ビチュ―リンはそれらに反対し、「中國文明本土発生説」を主張した。
ビチュ―リンは、中國の神話と聖書の物語に強引に類似點を探す宣教師の方法や、中央アジアの一部民族がドイツ人の子孫とするドイツ人科學(xué)者の主張を批判し、反論した。ビチュ―リンは著作の中で、當(dāng)時の歐州學(xué)界で広く使われていた中國関連の翻訳資料に誤りがあったと指摘している。
ビチュ―リンは中國語の歴史書に基づき、中華民族とその長い歴史を紹介した。そして中國文化は黃河中流域で獨自に誕生したと指摘した。ビチュ―リンは黃河流域の氏族社會を詳細(xì)に描寫し、中國の早い時代の國家社會の様子と文化の特徴を明確に示し、「中國文明西方起源説」を改めて論破した。
■研究には瑕疵(かし)もあるが今も失われない権威性
研究の「守備範(fàn)囲」は中國の言語、歴史、地理、民族、政治、経済、軍事および風(fēng)俗習(xí)慣など多方面にわたった?!钢袊瑜婴饯巫∶?、風(fēng)俗、習(xí)慣、教育」という著作では、中國の國家行政の構(gòu)造、教育狀況、伝統(tǒng)的な習(xí)俗や日常生活の狀況を扱った。さらに中國の商品と貨幣の流通について深く言及した。また、「中華帝國政治概論」は、政治関連だけでなく経済についての內(nèi)容も非常に重要だ。
ビチュ―リンの研究には鮮明な特徴がある。まず、宗教や民族的な差別感や偏見がなく、中國人の生活や古くて輝かしい文化を客観的に紹介しようとしたことだ。ビチュ―リンは、カトリックの宣教師や西洋の學(xué)者や作家が中國を「野蠻國」と決めつけたことを、「中國に対する略奪や植民地政策(を擁護(hù)するため)の詭弁(きべん)だ」と一蹴した。
もう一つの特徴は、中國語の原典の引用が非常に多い事だ。しかも翻訳の精度が極めて高い。中國の通史である「資治通鑑」を扱った著作を見ても、ビチュ―リンの研究レベルは同時代の歐州の他の學(xué)者をはるかにしのいでいたことが分かる。
ビチュ―リンは、統(tǒng)計データなどを扱うこともできた。そして、當(dāng)時の中國中央政府、中國辺境の少數(shù)民族、中央アジア地域の狀況を研究し、中國と他國との歴史的関係にも注目した。そのことで、研究はさらに體系的で全體的なものになった。
もちろん、ビチュ―リンの中國研究にも不備はある。當(dāng)時の研究レベルの全般的な低さに起因する問題もあれば、彼自身の見解に問題がある場合もある。また、彼の周辺環(huán)境が研究內(nèi)容に影響を及ぼした面もある。
しかし総じて言えば、ビチュ―リンの研究は権威性を失っていない。その著作はフランス語、日本語、モンゴル語、スペイン語など多くの言語に翻訳され、ロシアの東洋學(xué)、ひいては世界の東洋學(xué)の発展を大いに促した。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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