中國新聞社 2022年4月25日(月) 16時(shí)50分
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有名なシルクロードが形成する前からユーラシア大陸の東西の交流は存在していた。交流は各地の文化文明の発達(dá)を促進(jìn)したという。寫真は四川博物院で2022年に開催された長江流域青銅文明特別展。
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古代におけるユーラシア東西の交流と言えば、シルクロード交易を連想しがちだ。しかし、東西の交流はそれよりずっと古い時(shí)代に始まっており、その実態(tài)は商取引ではなかったという。中國人民大學(xué)歴史學(xué)院の韓建業(yè)教授はこのほど、中國メディアである中國新聞社の取材に応じて、極めて早い時(shí)期の東西交流について説明した。以下は韓教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
■人類初の文明、中東にやって來た東洋人が興した可能性
古代文明は、初期東方文明、初期西方文明、そして米大陸の中米文明の三つに大別できる。西方で「文明の火」を最初に燈したのはシュメール人だった。シュメール人が使ったくさび文字を解読すると、彼らは自らを「東から來た黒頭人」と稱していた?!更\頭」とは黒い髪の毛のことと理解できる。
シュメール文明が発生したのは現(xiàn)在のイラクだ。今、現(xiàn)地で主に使われているアラビア語は、アフロ?アジア語族に分類される。隣國のイランで使われるペルシャ語はインド?ヨーロッパ語族に分類される。しかし言語學(xué)者によればシュメール語はどちらの語族にも屬さず、東洋の漢チベット語族やアルタイ語族と密接な関係がある。最初の西方文明が東方からもたらされたかどうかは非常に興味深い話題であり、研究を進(jìn)める価値がある。
人類の発祥の地はアフリカ大陸であり、そこから全世界に広がったわけだが、この大移動(dòng)が一段落した後の新石器時(shí)代にユーラシアなどの東西交流が存在したかどうか、現(xiàn)時(shí)點(diǎn)で十分な証拠はない。
中國と西アジアでは新石器時(shí)代の紀(jì)元前6000年には彩陶が出現(xiàn)していた。両地域の彩陶は紀(jì)元前4000年ごろまでは驚くほど似ていた。しかし、遠(yuǎn)く離れた両地域に交流があった証拠は見つかっていない。
ユーラシア東西の交流は、紀(jì)元前3500年ごろの青銅と石器の併用時(shí)代には始まっていたことが明らかになっている。
現(xiàn)在から1萬1700年ごろから紀(jì)元前2世紀(jì)にかけてのユーラシアでは大きく三つの文化圏が成立していた。中國の黃河と長江を中心とする初期東方文化圏と、チグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミアを中心とする初期西方文化圏、そしてユーラシアの東西にまたがる草原地帯を主たる領(lǐng)域とする初期北方文化圏だ。
なお、文明が成立する要件には一定以上の規(guī)模の社會(huì)を運(yùn)営する能力などが含まれる。文化とはその社會(huì)や集団に屬する人々に共通する行動(dòng)様式や発想の様式だ。つまり文化は文明に先行して登場(chǎng)することになる。
■初期北方文化圏は特異な存在、後に東西交流の主たるルートに
初期東方文化圏と初期西方文化圏はいずれも中緯度地帯にあり、降水量が比較的多かったなどで、穀物栽培を基礎(chǔ)とする文明が発達(dá)した。両者が東西に分かれたことには、ヒマラヤ山脈が障害になったことが大きく影響した。
初期北方文化圏は高緯度で気溫が低く、草原や森林が広がるために狩猟採集や牧畜に適していた。東西の移動(dòng)に大きな障害はないので時(shí)代が下ると、東西交流の主要な通路になった。
中國まで到達(dá)するシルクロードの利用が本格化したきっかけは、漢武帝の命を受けて張騫(生年不明、紀(jì)元前114年沒)が西域の戦略的探査を行ったことだった。しかし紀(jì)元前3500年ごろには、東西の文化交流は始まっていた。ルートは草原を通る北道、オアシスをつたって砂漠を進(jìn)む中道、高原地帯を進(jìn)む南道だった。
北道を通って東歐や南ロシアの草原文化が中國の新疆の北西部まで到達(dá)したが、中國の內(nèi)部にそれ以上浸透することはなかった。中央アジアの南部の彩陶は中道を通って散発的に甘粛省や青海省にまで至った。中道を通って赤牛や綿羊も中國北西部にもたらされた。
人類が青銅器を主に使うようになると、東西交流はさらに盛んになった。これが東西交流の第2段階だ。まずは西から東に青銅の冶金技術(shù)が伝わり、次に東で工夫された技術(shù)が西にもたらされた。また中國で発生した「青銅器革命」は、成熟した王國の出現(xiàn)を促す一定の作用があった。
人類が鉄器を使うようになると東西交流も一つの成熟期を迎えた。ユーラシア草原の蕓術(shù)や宗教概念が黃河流域、さらには長江流域にも浸透した。逆に中國の典型的な文化要素が南シベリアなどにも伝わった。このような交流が、秦が戦國時(shí)代を終結(jié)させ全國を統(tǒng)一する大帝國に成長したことに影響したかもしれない。
最も早い時(shí)期の東西文化交流は、人々が生活空間を徐々に広げ、移動(dòng)することでもたらされた?!附灰灼筏\(yùn)ばれる」のではなく、人の移動(dòng)に伴って技術(shù)や思想が伝わった。そして各地の文化は、他地域からの文化がもたらされることで発達(dá)が促された。
■定住と農(nóng)耕により形成された東アジア人の性格
文明の進(jìn)化と文化交流は互いに補(bǔ)完しあう。早い時(shí)期の東西文化交流によって各地に根付いていた文化の基礎(chǔ)が根底から覆ることはなかったが、東西それぞれの文明の形成と発展を促す作用があった。
初期東方文化圏の中心は中國の黃河や長江の流域だ。そして南東部分は東南アジアや太平洋諸島を含み、東は朝鮮半島と日本列島に及び、北はユーラシア草原、西は中央アジアに達(dá)した。
中國の長江流域南縁では1萬5000年前に稲が栽培されていた。華北地方のキビの栽培は1萬年以上の歴史がある。また、中國では少なくとも9000年前には豚が飼育されていた。東方文化圏の共通點(diǎn)であり基盤でもある要素は定住と農(nóng)業(yè)だ。中國の黃河、長江、遼河流域の大部分は、紀(jì)元前4000年には農(nóng)業(yè)主體の社會(huì)が形成されていた。色とりどりの彩陶はさらに早い時(shí)代から作られていた。漆器や絹も出現(xiàn)した。人々の日常生活は豊かになった。多く存在した集落の中で、広い社會(huì)の中核となる集落が出現(xiàn)した。社會(huì)の階層も分化し続けた。
中國で発生した大規(guī)模で階層のある社會(huì)、定住、農(nóng)業(yè)経済は東アジアの人々の考え方に影響を與えた。発想が安定しており內(nèi)省的であることや、天や祖先を敬う概念などだ。紀(jì)元前3000年ごろには人々の衝突がかつてなかったほど激烈になり、社會(huì)が急速に複雑化した。これが初期中國文明を完成させた。
中國文明は、外來のものを含めて、數(shù)千年をかけて蓄積した文化の遺伝子と豊富な歴史記憶がある。その點(diǎn)は、現(xiàn)在の世界の他の文明と異なっている。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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