奧田萬(wàn)里 2022年5月8日(日) 6時(shí)30分
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翻って省みると、わが國(guó)の民主主義は1945年の敗戦後、新憲法の制定によって初めてもたらされたものだと思う。資料寫(xiě)真。
ロシアのウクライナ侵略が2カ月を超え、各地の目を覆うばかりの慘狀に、日々心を痛めている。プーチンによる獨(dú)裁體制がさらに強(qiáng)化されている現(xiàn)狀を見(jiàn)るにつけ、ソ連崩壊後のロシアは、資本主義経済に急激に転換し、選挙制度を取り入れたものの、それだけでは民主主義國(guó)家にはならなかったのだとつくづく思わされる。
◆新憲法制定に関わった女性
翻って省みると、わが國(guó)の民主主義は1945年の敗戦後、新憲法の制定によって初めてもたらされたものだと思う。とくに主権在民、基本的人権の尊重、戦爭(zhēng)放棄(平和主義)の基本3原則は、二度と戦爭(zhēng)の慘禍を繰り返さないために、これからも不変のものと私は考えている。
なかでも両性の平等を盛り込んだ基本的人権の規(guī)定は、日本の女性にとって畫(huà)期的なことだった。新憲法制定に関わったある女性のことを、書(shū)いてみたい。
敗戦後、連合國(guó)軍総司令部(GHQ)が東京に置かれ、日本の民主化推進(jìn)の中樞を擔(dān)うことになる。占領(lǐng)下の日本政府には新しい憲法の制定が急務(wù)とされていた。しかし當(dāng)時(shí)日本側(cè)の考えた憲法草案は、あくまでも明治憲法をベースにしていたため、GHQのマッカーサー元帥はこれを拒否、急遽GHQ民政局に草案作成を命じた。
◆自伝『1945年のクリスマス』に記された數(shù)奇な運(yùn)命
その民政局に配屬されていたのが、ベアテ?シロタさん。ウィーン生まれだが、アメリカ國(guó)籍のまだうら若き22歳の女性だった。実は、彼女は5歳から15歳までの10年間を両親と共に日本で暮らしている。彼女の自伝『1945年のクリスマス』には、日本の憲法制定に関わるまでの數(shù)奇な運(yùn)命が記されている。
ベアテの父レオ?シロタは革命前のロシア?キエフ(キーフ)生まれ、幼い頃から優(yōu)れたピアニストとして才能を発揮し、ウィーンに出て絶賛を浴びる。ところが第一次世界大戦が勃発、さらに故國(guó)ロシアでは革命の嵐が吹き荒れる。そのころ、彼は同じロシア出身のユダヤ人オーギュスティーヌと出會(huì)い、二人は結(jié)婚、1923年にベアテが生まれた。ウィーンでの蕓術(shù)サロンのような暮らしも、やがてヒトラーの臺(tái)頭で暗雲(yún)が立ちこめる。
そのころ作曲家山田耕筰は、レオ?シロタに接觸、東京音楽學(xué)校教授就任を委囑する。1929年シロタ一家はシベリヤ鉄道経由で橫浜港に著く。ベアテは5歳になっていた。
初めの契約半年間が過(guò)ぎても、ヨーロッパの狀況はますます悪化するばかり。一家は東京に腰を據(jù)えて音楽教育や演奏活動(dòng)に取り組むことにする。ベアテははじめドイツ學(xué)校に入學(xué)するが、やがてユダヤ人への弾圧が表面化するドイツ學(xué)校を嫌って、アメリカンスクールに転校。15歳のとき留學(xué)のため単身渡米した。
ところが、まもなく日本が真珠灣を攻撃してアメリカに宣戦布告。日本に住む両親からの音信や送金も途絶えたベアテは、アメリカ國(guó)籍を取得し、語(yǔ)學(xué)力を生かして戦時(shí)外國(guó)語(yǔ)放送の仕事を見(jiàn)つけ、自活する。
◆GHQ民政局で憲法草案「人権」條項(xiàng)作成に攜わる
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。敗戦が決まり、連合國(guó)軍の占領(lǐng)下に置かれる。
ニューヨークに移っていたベアテのもとに、この年10月、ようやく両親の消息が屆く。彼女は軽井沢に強(qiáng)制移住させられた両親に會(huì)うため、GHQの職を得て日本に再び足を踏み入れる。再會(huì)はその年の12月24日クリスマスイヴの日のことだった。
ベアテは日本語(yǔ)のできる職員として、GHQ民政局に配屬され、極秘裏に憲法草案の作成に攜わる。彼女は人権に関する部門(mén)を擔(dān)當(dāng)した。
彼女はアメリカ、イギリス、ソビエト、ワイマールなど各國(guó)の憲法を調(diào)べ上げ、日本社會(huì)の変革を目指して人権に関するかなり細(xì)かな條項(xiàng)を書(shū)き上げていった。念頭にあったのは、戦前日本で生活するなかで目にした忍従を強(qiáng)いられた日本女性の権利回復(fù)だったという。
その後日本側(cè)と擦り合わせのための共同作業(yè)があったとはいえ、GHQ主導(dǎo)で最終案が作成され、5月制定に至る過(guò)程については、のちにGHQの押しつけとの根拠を與え、憲法改正論議の標(biāo)的にされるのである。
役割を終えたベアテは、両親とともにアメリカに戻り、元GHQの通訳だったジョセフ?ゴードン氏と結(jié)婚。ニューヨークでジャパン?ソサエティ(日本文化紹介の仕事)、のちにアジアの文化紹介にも攜わる。市川房枝や棟方志功らが渡米した際の通訳を務(wù)め、貧しかった日本人留學(xué)生の生活支援など、長(zhǎng)きにわたってアメリカと日本の蕓術(shù)文化交流のキーマンとして大きな役割を果たしたのだった。
実は、私の夫奧田恵二も、ニューヨークでベアテ?シロタ?ゴードンさんのお世話に與っている。1964年日本領(lǐng)事館の現(xiàn)地職員の仕事を紹介してくれたのは、ほかでもないベアテさんだった。夫によれば、そのころの彼女は、「ごく普通の世話好きのおばさん」という印象だったそうだ。
ともあれ、若き日のベアテさんが格闘して創(chuàng)出した人権條項(xiàng)のうち、実際に憲法に盛り込まれたのはほんの一部に過(guò)ぎない。それは現(xiàn)行憲法の次の二つの條文に集約されている。
第14條【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】
第24條【家族生活における個(gè)人の尊厳と両性の平等】
憲法の條文自體は理念を記したものでしかないが、もしこの男女平等の條項(xiàng)が憲法に欠けていたとしたら、戦後の日本社會(huì)はどんなだったのだろうか、想像するだけでも背筋が寒くなる。それどころか、戦後70年を過(guò)ぎても、女性の社會(huì)進(jìn)出を拒む風(fēng)潮は、政界、企業(yè)風(fēng)土などに根強(qiáng)く殘り、真の平等実現(xiàn)にはまだほど遠(yuǎn)い。
憲法第12條にあるように、この憲法が國(guó)民に保障する自由及び権利は、私たち國(guó)民が不斷の努力をすることによって、初めて保持できるものであると思う。ましてやときの政府が恣意的に憲法を歪めて解釈することなど、許されることではない。このことを肝に銘じて、ベアテ?シロタ?ゴードンさんの業(yè)績(jī)に改めて感謝したい。
■筆者プロフィール:奧田萬(wàn)里
靜岡市出身。元高校教諭。退職後、夫の祖父の足跡を調(diào)査し始める。中間報(bào)告として書(shū)いた『祖父駒蔵と「メイゾン鴻之巣」』で2006年度靜岡県蕓術(shù)祭文學(xué)部門(mén)(隨筆)蕓術(shù)祭賞受賞。2008年かまくら春秋社から同名のエッセイ集を出版。調(diào)査の集大成として2015年『大正文士のサロンを作った男 奧田駒蔵とメイゾン鴻乃巣』(幻戯書(shū)房刊)出版。
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