蔡倫は紙を「発明」したのか「改良」したのか、紙は世界をどう変えたのか―専門家が解説

中國(guó)新聞社    2022年7月23日(土) 10時(shí)10分

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かつて「製紙法を発明した」とされていた蔡倫は、今では「製紙法を改良」と言われる場(chǎng)合が多い。どちらの言い方が実情をより反映しているのか。寫真は蔡倫の出身地である湖南省衡陽市に作られた蔡倫記念園。

後漢の時(shí)代に製紙法を確立したとされる人物が蔡倫(63-121年)だ。かつては「製紙法を発明した」と評(píng)価されていたが、今では「製紙法を改良」とされる場(chǎng)合が多い。どちらの言い方が実情をより反映しているのか。また紙は中國(guó)に、そして世界に具體的に何をもたらしたのか。編集や出版の歴史に詳しく山東大學(xué)発行の人文社會(huì)學(xué)専門誌「文史哲」の編集主任などを務(wù)める劉光浩氏はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、蔡倫に対する評(píng)価や「紙の出現(xiàn)」が何をもたらしたかを解説した。以下は劉氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■蔡倫の功績(jī)をどのように評(píng)価すべきか

蔡倫は紙を「発明」したのではなく「改良」したという主張がある。20世紀(jì)半ばから、蔡倫以前に作られた紙が次々に発見されたからだ。しかし私は「改良」の言い方は違うと思う。蔡倫以前に紙が存在したことに疑いの余地はない。しかし「後漢書?蔡倫伝」などによれば、蔡倫以前の紙は高価である上に使いにくいという欠點(diǎn)があった。だから紙作りに成功したと言える狀態(tài)ではなかった。

もちろん蔡倫以前にも、名も知れぬ多くの人が紙作りに取り組んだ。彼らの成果を土臺(tái)に、実用性が高い紙を初めて作り出したのは蔡倫だ。つまり蔡倫は、紙作りに「最終的に成功した」と言わねばならない?!父牧肌工趣い盲垦匀~を安直に使ったのでは歴史の理解を誤まると考える。

■中國(guó)で紙が発明され普及した原因とは何だったのか

漢代(紀(jì)元前202年-紀(jì)元220年)には儒教が尊ばれた。そして國(guó)策として教育に力を入れた。そのため多くの人が書を読むようになり、文字を書くための「素材」への強(qiáng)い需要が発生した。このことが、紙の登場(chǎng)を促す大きな原因になった。新たに文字を書く素材には「安価で軽い」という明確な要求があった。要求が明確であったからこそ、紙の開発で大きな遠(yuǎn)回りをすることがなかった。また紙の原料に中國(guó)人がなじんでいた麻を使ったことも、成功までの道のりを縮めることに奏功した。

もう一つ重要なことがある。すでに成立していた中國(guó)の伝統(tǒng)文化だ。中でも國(guó)家を共同體とみなす概念と「民本政治」はとりわけ重要だ。中國(guó)の國(guó)家概念は殷や周の時(shí)代に芽生え、春秋戦國(guó)時(shí)代に成熟した。國(guó)家、つまり社會(huì)全體を個(gè)人よりも優(yōu)先する思想だ。後漢時(shí)代に製紙に従事していた人は、個(gè)人の利益よりもまず、世の中に貢獻(xiàn)することに努めた。彼らの國(guó)家概念によるものだった。國(guó)家に益すれば最終的に、自らや子孫に恩恵がもたらされるという考え方だ。

儒家が説いた「民本」とは、民の生活を重視し民を愛すことだ。後漢の章帝、和帝、政治上の権力を持っていたトウ太后(「トウ」は「登」におおざと)は、紙の開発を熱心に後押しした。蔡倫は皇帝に支持された工房で製紙法を完成させた。

仮に朝廷が紙作りを獨(dú)占すれば、暴利を得られたに違いない。しかし朝廷は民に利益を與えるために自ら進(jìn)んで製紙技術(shù)を無償で民間に伝授した。蔡倫の紙が登場(chǎng)してから數(shù)十年後に、左伯という人物がさらにすぐれた製紙法を編み出した。蔡倫は洛陽にある宮廷で働いていたが、左伯がいたのは遠(yuǎn)く離れた現(xiàn)在の山東省だ。朝廷が「蔡倫紙」を大いに広めたからこそ各地で技術(shù)が向上し、「左伯紙」が登場(chǎng)したと言える。

■「製紙法の伝來」がヨーロッパ社會(huì)の二大変革にとって決定的だった

中國(guó)の製紙技術(shù)は國(guó)外にも伝わった。まず、東アジア諸國(guó)への伝播だ。高麗人僧侶の覚訓(xùn)は、晉の武帝は384年に、僧侶を百済に渡らせて仏教を広めさせたと記述している。その際には大量の書籍を運(yùn)び、朝鮮半島に製紙技術(shù)を伝えたという。製紙法はベトナムにも伝わった。610年になると、高句麗人僧侶の曇徵が日本に製紙技術(shù)を伝えた。なお、曇徵が日本に伝えたのはより優(yōu)れた紙の作り方であり、日本には曇徵の渡來以前に製紙法が伝わっていたとの見方もある。

製紙技術(shù)の西方への伝播(でんぱ)には、アラブが介在した。751年に、現(xiàn)在のカザフスタン領(lǐng)內(nèi)で発生した唐軍とイスラム帝國(guó)アッバース朝軍によるタラス河畔の戦いでは、唐軍にいた紙職人が捕虜になった。その職人が製紙法を伝授したことで、アラブ地域には次々に製紙工房が設(shè)立された。サマルカンド(現(xiàn)ウズベキスタン領(lǐng)內(nèi))、バグダッド(現(xiàn)イラク領(lǐng)內(nèi))、ダマスカス(現(xiàn)シリア領(lǐng)內(nèi))は三大製紙センターになった。

當(dāng)時(shí)のアラブ人は北アフリカ、さらには現(xiàn)在のスペインにまで領(lǐng)土を拡大した。このルートを経由して、製紙法はヨーロッパに伝わった。フランスでは12世紀(jì)、イタリアでは13世紀(jì)、ドイツでは14世紀(jì)に紙作りが始まった。

製紙術(shù)が社會(huì)に及ぼした主な影響は2點(diǎn)ある。第1點(diǎn)は、國(guó)家の統(tǒng)一を強(qiáng)固にし、促進(jìn)したことだ。中國(guó)の漢字は、紙という経済的で便利な素材があったからこそ、時(shí)間と空間の制限を打破し、政治文化の面で國(guó)家統(tǒng)一の巨大な役割を十分に発揮することができた。紙および書物という媒體がなければ、どんなに素晴らしい文字體系があっても利用できる範(fàn)囲は極端に狹まる。

第2點(diǎn)は文化の繁栄を継続させたことだ。紙の本は著者の文章と読者の閲読を迅速かつ効果的に結(jié)びつけることができる。そのような狀況が存在してこそ、文化は絶えず繁栄していくことができる。

製紙術(shù)が西洋あるいは全世界の文明に與えた第1の影響とは、紙という存在があってこそ、印刷技術(shù)が開発される可能性が出てくることだ。ドイツ人のグーテンベルクが印刷機(jī)を発明したのは15世紀(jì)で、現(xiàn)地で製紙が始まってからしばらく後だった。

また、昔のヨーロッパ人が使っていた羊皮紙の書物は、華麗に裝丁されていたが、あまりにも高価だった。聖書を?qū)懁工韦摔涎颏纹?00枚が必要と言われる。その価格には貴族もおじけづくほどだった。

中國(guó)の製紙術(shù)とグーテンベルクの印刷機(jī)を組み合わせて生まれた紙の本は、経済性で大きな強(qiáng)みを持っており、ルターによる宗教改革とルネサンスというヨーロッパで発生した二大運(yùn)働に決定的に有利な條件を提供した。また、中國(guó)の製紙術(shù)とグーテンベルクの印刷機(jī)が組み合わさることで、西洋では近代的出版業(yè)が出現(xiàn)した。この出版事業(yè)は、世界文明の発展を大きく後押ししすることになった。(構(gòu)成 / 如月隼人

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