中國の不動産市場に日本式「バブル崩壊」は起こるか―中國紙

Record China    2014年6月18日(水) 5時40分

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17日、ここ數(shù)年、中國の不動産市場が失速するたびに、不動産市場の「バブル論」や「崩壊論」が叫ばれるようになっている。今年はその聲が特に大きい。寫真は四川省成都市。

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2014年6月17日、ここ數(shù)年、中國の不動産市場が失速するたびに、不動産市場の「バブル論」や「崩壊論」が叫ばれるようになっている。今年はその聲が特に大きい。多くの論客が海外のバブルやその崩壊を例として、中國の不動産バブルの大きさを強調(diào)し、將來の崩壊によって引き起こされる慘狀を語る。だが中國の経済社會の発展度と不動産市場の発展段階は、海外の狀況とは大きく違い、簡単な比較はできない。中國証券報が伝えた。

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▼地価高騰の3度目の波で起きた日本のバブル

第2次大戦後、日本経済は廃墟から急速な勢いで立ち直った。経済発展に伴い、日本の地価と不動産価格は急速な上昇を維持した。日本不動産研究所のデータによると、1960年から1990年までの30年で日本の6大都市の地価は57.1倍に跳ね上がった。地価の高騰は不動産価格の上昇を引っ張り、そして地価の増幅は不動産を上回った(中國でも2003年以降、同様の現(xiàn)象が見られる)。30年で地価の急上昇は3回起こっている。最初の2回の急上昇は、その後の下落を伴ってはいなかった。だが3回目はバブルとなった。

1985年から地価は急速上昇期に入り、これが3回目の地価高騰の波となった。年間上昇幅はそれまで2回の最高値を上回らなかったものの、上昇期間はより長かった。1986年から1989年まで、地価上昇率は年間20%以上を維持した。1991年と1985年を比べると、6大都市の地価指數(shù)は2倍以上に高まった。1990年の日本の土地資産総額は同年の日本のGDPの3.69倍で、國家の資産総額の約70%を占め、米國の土地資産総額の4倍に達した。一方、同時期の米國では、土地資産総額が國家の資産総額に占める割合は25%にすぎなかった。

日本で地価の高騰がピークに達したのは1961年と1973年、1990年の3回である。最初の2回は、経済面と需要面での支えがあったため、バブルが形成されることはなかったが、3回目は違った。経済成長から見ると、最初の2回は、成長率8%以上の高度成長期にあたっていた。1974年から、日本経済は高度成長に別れを告げ、中低度の成長の段階に入り、成長率は5%程度に落ち著いた。都市化プロセスから見ると、1974年に都市化率が74.9%に達した時、日本の住宅建設數(shù)が最初のピークに達した(この數(shù)は1987年に更新された)。最初の2回の地価高騰時には、都市化率がそれほど高くなく、1961年にはまだ70%にも達していなかった。住宅市場の飽和度から見ると、1968年に日本1戸當たりの住宅保有數(shù)が初めて「1」を超え、住宅不足の時代が終わった。最初の2回の地価高騰は住宅需要の旺盛な時期にあたっていたが、3回目は、自宅用需要という有効な支えを失い、大きなバブルが形成された。

▼バブルを生んだ4つの要素

第一に、日本円の大幅な上昇。1985年、米國を初めとする西側國家の圧力に迫られ、日本はプラザ合意を締結し、円高が大幅に進んだ。1ドル240円から翌1986年には160円にまで高まり、その後上昇が緩和したが、1988年には130円まで上げ、3年で5割の上昇を記録した。(人民元は2005年の為替制度改革以降、上昇を続けているが、ドル換算の上昇率は3割前後にすぎない)。本國通貨の上昇で外資が大量に入り込み、日本國內(nèi)の資本は異常に活発化し、株式市場と不動産市場はこれに伴って急激な高まりを見せた。

第二に、流動性の過剰。1986年、日本銀行は連続4回にわたって公定歩合(基準金利)を引き下げ、5%から1987年には2.5%の超低金利に引き下がり、戦後最低水準に達し、1989年5月までそれは続いた。さらにプラザ合意で日本円が対ドルで大幅な上昇を続けたため、日本政府は円高を抑制するため、為替市場にたびたび介入し、日本銀行は大量のドルを買い、日本円を売った。その結果、日本円の供給量が膨張し、流動性の過剰が激化した。

第三に、過度の自信。1980年代、日本の経済力と財力は絶好調(diào)で、政府も民衆(zhòng)も有頂天となり、地価は永遠に上がり続けると信じていた。日本の総理府が1987年に行った調(diào)査によると、半數(shù)以上の回答者が「土地だけが安心できる有利な資産」と答えた。1980年代後半には、日本企業(yè)が世界中に資本を輸出した。米國でも大量にビルを買うなどしたが、バブル崩壊後、米國企業(yè)への転売を余儀なくされた。

第四に、大財団や大企業(yè)の勝手な振る舞い。日本の金融制度は不健全で、銀行と大企業(yè)の間は共通の利害を持っていた。さらに政府も両者を強力に支持し、貸付の監(jiān)督管理も甘かった。商業(yè)銀行などの金融機関だけではなく、日本の大蔵省の支援を受けた住宅金融専門會社も、土地投機で大量の信用資金を開発業(yè)者に貸し付け、融資コスト引き下げをはかった。1985年から1989年まで日本の実體経済は不振で、多くの大企業(yè)が、土地資産と金融資産への投機から巨額の利潤を上げるのに熱心となり、企業(yè)のこうした投機活動は地価上昇の大きな原因となった。

▼史上最大の不動産バブルの崩壊

日本の不動産バブルの短期的な要因には、4本の導火線が見受けられる。第一に、銀行の連続的な大幅利上げ。第二に、不動産企業(yè)への融資に対する政府の緊縮政策。第三に、株式市場の急降下による不動産市場の下落の加速。第四に、海外資金の引き上げである。

日本の地価と不動産価格の長期的な下落の持続は、建設業(yè)に大打撃を與えた。2000年までに破産した建設會社は6214社に達し、破産した會社の3分の1を占めた。不動産バブルの崩壊は、巨額の不動産ローンを不良債権化した。住友、東京三菱、大和、三和などの多くの銀行が全面的な損失を計上し、兵庫銀行や北海道拓殖銀行などは破綻した。1992年から日本経済は長期的な低迷期に入り、ここ2年は安倍政権が回復に取り組んでいるものの、バブル経済の影から完全には抜け出せてはいない。

日本経済のバブルの発生と崩壊は、全世界の不動産バブル史上の代表例となった。本國通貨の上昇や通貨政策、投資需要、不動産価格の上昇などを見ると、ここ數(shù)年の中國の不動産市場は、日本の1980年代後期と一定の相似點があることがわかる。だが日本より明るい狀況も多くある。さらに重要なのは、マクロ分析とファンダメンタル分析で考えた場合、中國経済は高速成長から中速成長へと転換しつつあるものの、依然として7%以上の成長率を保持しているということだ。また2013年の中國の都市化率は53.7%にすぎず、70%を大きく下回っている。都市部の1戸當たりの住宅保有數(shù)は「1」前後に達したばかりで、飽和狀態(tài)にはない。総體的に言って、現(xiàn)在の中國の不動産業(yè)のファンダメンタルは日本の1970年代初期または中期に當たり、1980年代後期の狀況にはまだ至っていない。このため中國の不動産市場は、日本の當時の不動産のような巨大なバブルを形成してはおらず、簡単に崩壊するとは考えにくい。(提供/人民網(wǎng)日本語版?翻訳/MA?編集/武藤)

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