中國(guó)新聞社 2022年8月9日(火) 21時(shí)30分
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中國(guó)人漫畫家の李昆武氏は、代表作の一つとされる「小李から老李まで―1人の中國(guó)人の一生」を中心に、自らの作品が國(guó)外で評(píng)価された経緯とその理由を説明した。
李昆武氏は中國(guó)人漫畫家だ。代表作の一つに「小李から老李まで―1人の中國(guó)人の一生」がある?!感±睢工巍感 工狻咐侠睢工巍咐稀工馊毡菊Z(yǔ)の「××さん」の「さん」に相當(dāng)するが、若い人には「小」を、年配の人には「老」を使うことが一般的だ。つまり同作品は「李」という主人公の若い頃から高齢になるまでを描いた作品だ。3部構(gòu)成だが、第1部は中華人民共和國(guó)が成立する前後の革命の時(shí)代、第2部は文化大革命など極端な社會(huì)主義運(yùn)動(dòng)が発生した時(shí)代、第3部は改革開(kāi)放が始まって人々が豊かになり始める半面で、拝金主義などもはびこった時(shí)代だ。
海外で高い評(píng)価を得た中國(guó)人の漫畫家は、まだそれほど多くない。李氏はフランスなど歐米で高く評(píng)価されるという特異な存在だ。李氏はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、自らの作品や漫畫観や作品が海外で評(píng)価されるようになった経緯や理由を語(yǔ)った。以下は李氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
■全ての人、全ての時(shí)代に共通する「人の心」が存在する
私の作品のいくつかは海外で受賞した。いずれも形式としてはグラフィックノベルだ。小説と絵畫の結(jié)合體と言ってよい。中國(guó)では、小冊(cè)子の1ページに1枚の絵を描いてストーリーを展開(kāi)する「連環(huán)畫」という形式の漫畫が成立したが、私の作品は連環(huán)畫に似た面もある。歐州ではグラフィックノベルが盛んに創(chuàng)作されており、私の作品も受け入れやすかったようだ。
「小李から老李まで―1人の中國(guó)人の一生」は2005年に描きはじめ、10年に完結(jié)した。當(dāng)時(shí)は08年の北京五輪の関係もあって中國(guó)に注目が集まり、世界の多くの人が中國(guó)について知りたがった?!感±瞍槔侠瞍蓼恰工现袊?guó)人の生活を通じて中國(guó)現(xiàn)代史を紹介する作品でもある。それぞれの小さなエピソードの背景には中國(guó)全體の大きな変化がある。だから多くの読者を得ることができたのだと思う。
「小李から老李まで」はフランス語(yǔ)、英語(yǔ)、ドイツ語(yǔ)、スペイン語(yǔ)、日本語(yǔ)、韓國(guó)語(yǔ)など十?dāng)?shù)種の言語(yǔ)の翻訳版が出版された。翻訳版には原作との違いが生じるものだ。原作者としては認(rèn)めたくない変化もある。例えばフィンランド語(yǔ)に翻訳された際には作品タイトルを「中國(guó)」にすると伝えられた。簡(jiǎn)潔なタイトルにしたわけだが、私は反対した。この作品は「特定時(shí)期の特定地域の特定の中國(guó)人」を扱っており、中國(guó)の全てを扱っているわけではないからだ。
しかし私は、翻訳にともなう変更を全て拒絶しているわけではない。翻訳者は作品の世界と自分自身の文化的背景を「対話」させながら仕事をしていく。だから翻訳版が原作とは異なる味わいを持つのは自然なことだ。
私は外國(guó)人読者の反応に驚いてしまうことがある。例えばスペインで行った新作サイン會(huì)では、金髪碧眼の女性に「あなたを恨みます」と言われて驚いてしまった。訳を聞いて納得した。彼女は私の作品の「春秀」を読んで、主人公が數(shù)奇な運(yùn)命に振り回されることに感銘を受けて、一晩を泣き明かしたというのだ。この事例からも、表現(xiàn)方法は違っても、人間性は通じあうことが分かる。たとえ異なる國(guó)の人間でも、共通する感情を持っている。
別の言い方をすれば、「太陽(yáng)の下に新しいことはない」ということだ。世の中は変化しても人の心には不変の部分がある。私は作品で、一人一人の主人公の姿をできるだけ生き生きと鮮明に描き、時(shí)代と向き合い、目の前のものと向き合うリアルな一面を表現(xiàn)するようにしている。だから、どの物語(yǔ)の登場(chǎng)人物も時(shí)代性を持っている。しかしその一方で喜怒哀楽は時(shí)代を超え、人種を超えている。
■私が描く世界は結(jié)局のところ私の故郷だ
私が表現(xiàn)しているのは中國(guó)人の物語(yǔ)なので、異文化の中で生まれ育った人には理解が難しい部分が出て來(lái)ることは避けられない。しかしさまざまな國(guó)の友人ともっと交流すれば、心の中に私を創(chuàng)作に駆り立てる“火花”がより多く出現(xiàn)するだけでなく、より多くの人が理解しやすい表現(xiàn)にたどり著けるはずだ。
私は近年、多くの地方に行くようになり、目にするものも増えた。そのおかげで、自分の故郷に対する理解と描寫がますます鮮明で立體的になった。私の故郷は雲(yún)南省の昆明だ。昆明は年間を通じて春のような気候ということで「春城」と呼ばれている。私の作品は自然に、「春城」の雰囲気を帯びることになる。
昆明では世界園蕓博覧會(huì)という大規(guī)模なビジネスイベントも開(kāi)催されている。つまり古い雰囲気を殘しつつ大きく変化している。多くの読者に私の作品から郷土の気配を感じ取っていただいているのは、都市化が進(jìn)む中國(guó)では郷土の文化が変化することを心配する気持ちがあることのあらわれだと思う。
海外の読者の多くは、私が描く都市が昆明かどうかまでは気にしないが、中國(guó)の東西南北どの地方を舞臺(tái)にしているのか、物語(yǔ)そのものや登場(chǎng)人物の経歴は気にする。これらの要素を知ることを通じて、彼らは作品で描かれている都市に興味を持つようになる。そんな経緯を経て、私が描くものは「郷土」という言葉に集約できるということになってきた。
■作品づくりに心血を注ぐことでもたらされる「ごほうび」とは
登場(chǎng)人物などについて、はっきりとした個(gè)性の色合いは必要だ。存在は合理的であり、あなたという存在には価値と意義がなければならない。作品とは他人のために作られるものではない。自分の物語(yǔ)を描くものだ。創(chuàng)作に集中すれば、作品は個(gè)性的な特徴を自然に帯びるものだ。個(gè)性とは意図的に付加されるものではなく、徐々に形成されていくものだ。その個(gè)性とは、創(chuàng)作に心血を注ぎつづける人に與えられるごほうびだ。もちろん、個(gè)性も人間共通の感情の追求、すなわち真?善?美の追求に合致せねばならない。
視覚を通じて人々の気持ちに訴える方式には、例えば映畫がある。映畫のスクリーンはもちろん、漫畫のコマよりも大きい。しかし一つの世界を表現(xiàn)する點(diǎn)において、映畫のスクリーンと漫畫のコマは同じ大きさだ。
私はやはり、自らの故郷を描いているわけだ。漫畫と言う可視化の形式を使っていることもあり、読者は私が作り出す世界に軽々と入ることができる。そして再び、軽々と戻っていく。私は漫畫という表現(xiàn)形式でこの愛(ài)すべき街、大切な土地を後世のために、あるいは世界のために記録していることになる。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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