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山西省の特異な遺跡「晉陽(yáng)古城」が示す文化の歴史とは―専門(mén)家が解説

中國(guó)新聞社    2022年8月21日(日) 22時(shí)0分

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山西省省都の太原市の近郊にあった「晉陽(yáng)」はかつて1500年にわたって黃河流域における重要な都市として機(jī)能し続けた??脊艑W(xué)調(diào)査によって「晉陽(yáng)」が文化面で特異な存在だったことが分かってきた。

中國(guó)が事実上の分裂狀態(tài)だった春秋時(shí)代(紀(jì)元前771年-同453年)に、現(xiàn)在の山西省などを領(lǐng)土とする「晉」という國(guó)があった。晉は春秋時(shí)代の晩期に趙、魏、韓に分裂したが、この3國(guó)はいずれも勢(shì)力を維持した。春秋時(shí)代から戦國(guó)時(shí)代にかけては弱小國(guó)が大國(guó)に次々に併呑(へいどん)されたが、趙、魏、韓は最後まで殘った「戦國(guó)の七雄」のうちの3國(guó)として、秦によって滅ぼされるまで存続した。

晉の都は現(xiàn)在の山西省の省都である太原市の郊外にあった晉陽(yáng)だった。晉が分裂した後も、晉陽(yáng)は重要な都市であり続けた。晉陽(yáng)は長(zhǎng)安、洛陽(yáng)に次ぐ黃河流域の第3の都市だった。唐朝(618-907年)を樹(shù)立した李淵は晉陽(yáng)で挙兵して隋(589-618年)を滅ぼした。晉陽(yáng)は北宋時(shí)代(960-1127年)に廃棄され、都市機(jī)能は太原に移った。かつての晉陽(yáng)は、現(xiàn)在では晉陽(yáng)古城と呼ばれている。都市考古學(xué)などを?qū)熼T(mén)とする山西省湖建築彩色壁畫(huà)保護(hù)研究院の韓炳華副院長(zhǎng)はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、晉陽(yáng)古城にまつわるさまざまな狀況を紹介した。以下は韓副院長(zhǎng)の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■長(zhǎng)期にわたり都市として機(jī)能、周辺地域の変遷を知る「ものさし」の役割も

著名な考古學(xué)者の宿白氏は1960年代に晉陽(yáng)古城を調(diào)査し、都市構(gòu)成について考察した。考古學(xué)者の謝元璐氏と古文字學(xué)者の張顎氏が率いるチームも現(xiàn)地で初歩的な調(diào)査をした。ただ2010年ごろまで、研究者の晉陽(yáng)古城についての知識(shí)は城壁內(nèi)の20平方キロの範(fàn)囲に限定されていた?,F(xiàn)在は、城壁外にあった多くの寺院や墓など、調(diào)査の範(fàn)囲は格段に広がった。

調(diào)査の主力となったのは2011年に結(jié)成された晉陽(yáng)古城考古作業(yè)隊(duì)で、10年以上にわたる作業(yè)により、城壁の存在と年代を確認(rèn)し、都市の核心エリアを明らかにしたほか、3カ所の大型建築物の基礎(chǔ)跡、龍山童子寺遺跡、蒙山大仏閣遺跡などを発掘した。また、多くの窯跡の調(diào)査も行った。得られた情報(bào)は、青磁から白磁への転化過(guò)程における多くの問(wèn)題を解決する上で重要な意義がある。研究成果は城跡の範(fàn)囲、位置の機(jī)能と城內(nèi)の遺構(gòu)の配置規(guī)則などについての認(rèn)識(shí)を大いに豊かにした。

晉陽(yáng)は長(zhǎng)安や洛陽(yáng)などの都よりやや小規(guī)模だが、普通の州城や県城よりはるかに大きい。さらに保存が比較的良好である上に、都市として使われた期間が長(zhǎng)いため、長(zhǎng)期にわたる都市構(gòu)造などの変遷を考察するために特に役立つ。また晉陽(yáng)古城の調(diào)査で得られた知識(shí)は、周辺地域の遺跡の歴史や文化の変遷を考える上での「ものさし」になる。

■アジアだけでなく歐州の文化も融合、當(dāng)時(shí)の「國(guó)際通貨」も出土

晉陽(yáng)古城からの出土品としては、例えば三彩陶器の獅子、漢字がみられる白磁、ガラスや象牙の裝飾品、鉄製の道具や武器などがある。出土品に備わる文化的要素は複雑で多元的だ。周囲の同時(shí)期の遺跡からの出土品と共通性を持つもの、つまり中國(guó)的な特徴が目立つ品もあれば、中央アジアや西アジア、さらには歐州の文化の特徴を持つ出土品がある。また複數(shù)の文化が融合した「晉陽(yáng)古城での創(chuàng)造物」と解釈できる出土品もある。

遺物群の複雑さからも、多様な文化的要素が融合し共存する構(gòu)図が見(jiàn)て取れる。歴史上の背景としては、魏晉南北朝時(shí)代(3世紀(jì)後半-6世紀(jì)後半)の大規(guī)模な民族融合や、隋唐時(shí)代の繁栄によりもたらされた開(kāi)放と包容の「時(shí)代の空気」がある。

また晉陽(yáng)には、北朝末期から唐五代(6世紀(jì)末-10世紀(jì)後半)の時(shí)期に、周辺地域の中核となる特別な政治的地位があった。地理的位置も特殊だ。北魏時(shí)代(364-534年)の晉陽(yáng)は重要都市だった平城から洛陽(yáng)に至る道の中継點(diǎn)だった。唐代には、東西南北の4方向に進(jìn)むための「ハブ都市」だった。

晉陽(yáng)古城からの多くの出土品が、この地が東西交流にとって重要な地だったことを示している。晉陽(yáng)古城近くの金勝村5號(hào)唐墓では、ササン朝ペルシャ(226-651年)の銀貨が見(jiàn)つかった。この銀貨は、中央アジアから東歐にかけて流通していた「國(guó)際通貨」だった。シルクロードの住人、いわゆる胡人によるラクダ隊(duì)商を描いた墓の壁畫(huà)も多く見(jiàn)つかっている。胡人については笛を吹いたり踴りに興じる姿を描いた絵もある。つまり、かつての晉陽(yáng)古城では、西から來(lái)た文化蕓術(shù)が花開(kāi)いていた。

晉陽(yáng)古城の磁器窯跡で発見(jiàn)された精巧な白磁の高足杯は、デザインとしては西方の様式だ。つまり外國(guó)風(fēng)の磁器を作るために、中國(guó)の先進(jìn)的な製造技術(shù)が投入されたわけだ。これらからは、當(dāng)時(shí)の東西文化の融合の深さを知ることができる。

■融合と革新を続けた文化が日本にも影響

晉陽(yáng)の地が、仏教の伝播で果たした役割りも極めて大きい。山西省にある五臺(tái)山は仏教の聖地だ。敦煌莫高窟には「五臺(tái)山図」が殘っていた。それだけでなく「五臺(tái)山図」は西はチベット、東は日本にも伝わった?!肝迮_(tái)山図」が伝えたのは仏教思想だけでない。図には山西の建物が描かれている。つまり山西の文化が「五臺(tái)山図」などによって遠(yuǎn)隔地に伝わっていった。

「五臺(tái)山図」が各地に伝わっていった主要な時(shí)期は唐代だ。記録によれば、「五臺(tái)山図」は晉陽(yáng)で制作されていた。また、多くの高僧が晉陽(yáng)を訪れている。中にはブッダパーラ(仏陀波利)やアモーガバジュラ(釈不空、または不空金剛)などのインド人僧もいた。

以上により、晉陽(yáng)古城は文化の「中継點(diǎn)」であり「受け入れ地」だっただけでなく、融合と刷新により新たに作ら得た文化を送り出し、東西文明の交流や相互參考、発展に重要な貢獻(xiàn)をしたことが分かる。

多くの人が、晉陽(yáng)古城に刺激を受けている。まず、晉陽(yáng)古城の存在により、古い時(shí)代の中國(guó)文化は多彩であり、周辺と盛んに交流をしていたと分かる。そして、中國(guó)の文化は脈々と受け継がれながら、絶えず融合と革新を行ってきたとの認(rèn)識(shí)を新たにすることができる。

晉陽(yáng)古城が都市として機(jī)能していた期間は、1500年近くに達(dá)する。その期間中に文化の斷絶はなかった。そこに住む人々は、開(kāi)放的な精神で受け入れた外來(lái)文化を自らが納得できるように改良して、「これがわれわれの文化だ」という自覚を維持した。それらが総合して、高い文化と文明を成立させた。そのことは、中國(guó)における文化と文明の発展の常態(tài)だった。(構(gòu)成 / 如月隼人



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