凌星光 2022年8月20日(土) 8時(shí)30分
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毎年8月中旬になると、「終戦(敗戦)」の想い出話(huà)が新聞紙上をにぎわせる。當(dāng)時(shí)の事をそろそろ書(shū)き殘しておかねば先がないと思い筆を執(zhí)った。
凌星光(福井県立大學(xué)名譽(yù)教授)
毎年8月中旬になると、「終戦(敗戦)」の想い出話(huà)が新聞紙上をにぎわせる。1933年生まれで12歳の私は、高等小學(xué)校1年生であった。當(dāng)時(shí)の事をそろそろ書(shū)き殘しておかねば先がないと思いながらも、時(shí)は過(guò)ぎ、今日に至ってしまった。
敗戦のニュースを知ったのは、二俁の山奧から浜名郡北浜村貴布禰(現(xiàn)在浜松市浜北區(qū))に帰る途中であった。艦砲射撃や空襲で浜松市はほとんど壊滅的な被害に遭い、當(dāng)時(shí)はまだ田舎であった貴布禰も安全ではなかった。そこで父の凌秀明が中心となって故郷青田県出身の華僑數(shù)人が協(xié)力して、二俁の山奧に土地を買(mǎi)い、疎開(kāi)用の家を建設(shè)中だったのだ。その手伝いのために、二俁に向かった。その帰路、叔父の徐志軒(父の義弟)の引っ張るリヤカーを後ろから押す役目を擔(dān)った。
途中で一休みした時(shí)にこの終戦のニュースを聞き、初めはちょっと信じられなかったが、間違いないことを知って、これで「一億玉砕」はなくなり、竹やりで敵前上陸する米兵と戦うこともなくなった、死ななくて済むと安堵(あんど)の胸を下ろしたことを記憶している。その後、自分が戦勝?lài)?guó)民になったという気分を味わうのであるが、その時(shí)點(diǎn)では戦爭(zhēng)の恐怖、対敵國(guó)民の侮蔑から逃れられるとまずは一安心した。
浜松には三方ヶ原軍用飛行場(chǎng)があった。そこは靜岡県內(nèi)では最も工業(yè)が発達(dá)していた地域でもあり、軍需工場(chǎng)もたくさんあった。そのため、アメリカ空軍の重要な爆撃目標(biāo)とされていたようで、何回かB29の空襲に遭っている。中でもひどいのは2回あり、1回目は1945年4月30日の工場(chǎng)が密集していた浜松市中心部への爆撃で、約1000人の死者を出した。2回目は6月18日の大空襲で、約1800人の死者を出した。多くの市民が焼夷弾で火傷(やけど)を負(fù)い、私の通っていた北浜村小學(xué)校は負(fù)傷者の収容所と化した。また浜松市は艦砲射撃にも遭い、死者は合計(jì)2947人に達(dá)し、全國(guó)でも単位面積當(dāng)たり被害は最も大きな都市に屬すると言われる。數(shù)日後に貴布禰から出向き、焼け野原となった浜松市を目にしたが、実に悲慘なものであった。
浜松市の海に面した地域は遠(yuǎn)州灘と言い、砂浜が続いている。米軍の敵前上陸に適しているところと予想し、終戦末期に三方ヶ原の斜面に陣地を構(gòu)築する作業(yè)が行われた。そのために一般民家への労役が割り當(dāng)てられ、私が病身の父に代わって作業(yè)に服した。指定地に著いてみると、橫穴の土を掘る仕事で、そこに大砲を置くようになるとのことだった。満12歳の私は最年少者で、モッコを擔(dān)いで土を運(yùn)んだ。嫌々ながら無(wú)理にやらされていたこのような「戦爭(zhēng)への協(xié)力」から解放されることもうれしい限りであった。
思えば、1937年、盧溝橋事件をきっかけとして起こった日中戦爭(zhēng)によって、中國(guó)と日本は敵対関係となった。當(dāng)時(shí)は、兄と弟、そして私の3人は幼稚園に通っていた。今でも目に焼き付いているのは、兄弟3人が幼稚園の演蕓場(chǎng)の片隅に追いやられ、日本人児童から「チャンコロ、支那人をやっつけろ」とののしられ、兄が必死になって2人の弟をかばって闘う姿である。平和な現(xiàn)在から見(jiàn)れば実に不可解なことだが、園長(zhǎng)も先生も児童の暴力でのいじめを止めようとしなかった。幼心にも、どうして自分はみなと違う中國(guó)人として生まれたのかと恨んだことを覚えている。
1941年12月、小學(xué)校3年生の時(shí)、太平洋戦爭(zhēng)が勃発した。特高(特別高等警察)による在日華僑への取り締まりはますます厳しくなり、県外への移動(dòng)は報(bào)告が義務(wù)付けられるようになった。靜岡県特高警察の山本豊雄氏はわが家を見(jiàn)張る擔(dān)當(dāng)警察であった。父は、表向きは日本當(dāng)局および汪兆銘(精衛(wèi))傀儡政権への忠誠(chéng)心を示し、法順守の華僑として周?chē)欷涡蓬mを得た。ところが、その父が戦爭(zhēng)末期で空襲が激しくなった頃、自宅の防空壕で身を潛めていた時(shí)、「日本は負(fù)ける、中國(guó)が勝利する」と本音を語(yǔ)った時(shí)はびっくりした。日本敗戦のニュースは、父のこの言葉を思い出させた。
ところで、後に母の楊蘊(yùn)玉の証言によってわかったことだが、父と母および叔父の徐志軒は、孫文と蔣介石を崇拝する國(guó)民黨の古參黨員であった。1930年代の初め、東京深川で中國(guó)人労働者を相手に飲食店を開(kāi)いていた頃、國(guó)民黨員が盛んに宣伝工作を展開(kāi)し、3人とも國(guó)民黨員になったとのことだ。戦時(shí)中、その國(guó)民黨証を天井の上に隠しておいたとのことだから、政治意識(shí)がかなり強(qiáng)かったことが分かる。どうりで、戦後間もなく浜松市に進(jìn)出した父が、東京の中華民國(guó)政府駐日代表団と連絡(luò)を取り、「中國(guó)國(guó)民黨浜松支部」と書(shū)かれた看板を掲げたわけだ。
もう一つの記憶として、戦時(shí)中、多くの在日華僑は日本名を持ったが、わが家は中國(guó)姓一本で通してきた。そのため、中國(guó)人だということがすぐわかり、よくいじめられたものだが、それが故に、中國(guó)人としての民族意識(shí)、対抗心が強(qiáng)く育まれることとなった。それは、後れた中國(guó)をそのうちに立派な國(guó)にして見(jiàn)せる、外國(guó)から辱められた祖國(guó)を尊敬される誇り高い國(guó)にしてみせる、と生涯における「愛(ài)國(guó)精神」の源泉となった。そして日本の敗戦は、自分をして劣等感から自尊心に大きな転換を見(jiàn)せるきっかけとなったのである。
ただし、「有頂天」への反省もある。戦後一時(shí)期、戦勝?lài)?guó)中國(guó)の國(guó)民として、特配など多くの特権を享受することができるようになった。さらには、電車(chē)も國(guó)民黨のバッジを胸につけて、「俺は中國(guó)人だ」と言ってただで乗り回すことができた。父が戦前行商で知己となった地主が、土地改革での財(cái)産喪失を免れようとして、父に名義変更のお願(yuàn)いをするようなこともあった。1945年10月6日、特高は解體され、目付け役だった山本豊雄氏は失業(yè)し、父の居候として生計(jì)を立てるようになった。地位の逆転による逆差別を體験したのである。戦勝?lài)?guó)気取りは當(dāng)然日本人の反感を買(mǎi)うし、あってはならないことだった。
敗戦によって、新しい日中関係の取り組みが始まった。それは77年後の今も続いている。
2022年8月14日
■筆者プロフィール:凌星光
1933年生まれ、福井県立大學(xué)名譽(yù)教授。1952年一橋大學(xué)経済學(xué)部、1953年上海財(cái)経學(xué)院(現(xiàn)大學(xué))國(guó)民経済計(jì)畫(huà)學(xué)部、1971年河北大學(xué)外國(guó)語(yǔ)學(xué)部教師、1978年中國(guó)社會(huì)科學(xué)院世界経済政治研究所、1990年金沢大學(xué)経済學(xué)部、1992年福井県立大學(xué)経済學(xué)部教授などを歴任。
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