海洋貿(mào)易で繁栄した宋が現(xiàn)代に教えることとは―専門家が歴史を展望

中國(guó)新聞社    2022年9月10日(土) 23時(shí)0分

拡大

宋代は、軍事面では「ぱっとしない」王朝だったが、海洋貿(mào)易の発展で繁栄し社會(huì)構(gòu)造が進(jìn)化した時(shí)代だった。寫真は引き揚(yáng)げられた宋代の沈沒船「南海1號(hào)」関連の展示などをする「広東海のシルクロード博物館」。

中國(guó)の歴代王朝の一つである「宋」(960-1279年)は、北方民族に対して常に劣勢(shì)だった。軍事面では「ぱっとしない」時(shí)代だったとも言える。しかし宋代は、中國(guó)文化の方向性が最終的に決まった時(shí)期として極めて重要だ。そして経済が大発展した時(shí)期でもあった。中國(guó)史上初めて、海を通じての交易が対外貿(mào)易での大きな比重を占め、経済面では繁栄した時(shí)期でもあった。宋代の歴史を研究して多くの著作がある華東師範(fàn)大學(xué)歴史學(xué)科の黃純艶教授はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、宋代の経済や社會(huì)について解説した。以下は黃教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■圧倒的な経済力と技術(shù)力を備えていた宋代中國(guó)


宋代に海洋貿(mào)易は空前の繁栄を遂げた。宋は周辺のアジア諸地域との海洋貿(mào)易で有利な立場(chǎng)にあった。まず、商品が優(yōu)れていた。広東省陽(yáng)江市沖合いで2007年に引き揚(yáng)げられた「南海I號(hào)」は、1160年代に沈沒した船だ。見つかった20萬(wàn)點(diǎn)近い商品の中には磁器、鉄器、金銀、銅銭および絹製品があった。積み荷の種類はは宋代の記録と一致している。

これらの商品は海外諸國(guó)では生産できないか、生産できても中國(guó)製品に比べて品質(zhì)がずっと劣った。つまり中國(guó)には優(yōu)秀な輸出商品がそろっていた。中國(guó)は一方で香料や生薬、象牙、寶飾品など、中國(guó)國(guó)內(nèi)では入手できない、あるいは入手困難な資源性商品を輸入した。


當(dāng)時(shí)の中國(guó)は技術(shù)面でも卓越していた。まず造船技術(shù)だ。宋代の外洋航海船は船體が大きく、防水隔室や多層甲板技術(shù)が取り入れられていた。つまり船の強(qiáng)度が高く、浸水しても沈沒しにくい構(gòu)造だった。北宋後期からは、羅針盤が普及した。船には羅針盤を扱う専門家が乗り込んでいた。方角を正確に知ることで、航海の安全性と効率はさらに高まった。

當(dāng)時(shí)の中國(guó)からの「輸出品」には銅銭もあった。大量の宋銭は東アジアや東南アジア諸國(guó)に放出され、當(dāng)時(shí)の重要な「國(guó)際通貨」になった。特に高麗を除く東アジア諸國(guó)では最も主要な通貨の一つとなった。

宋代は中國(guó)の歴代王朝の中で貨幣鋳造量が最も多かった。宋銭は遼、西夏、金、そして日本、現(xiàn)在のベトナム北部にあった國(guó)の交趾、さらにその他の東南アジア諸國(guó)の國(guó)內(nèi)取引にも使われるようになった。そして周辺諸國(guó)は宋銭にならって貨幣を造るようになった。

宋銭の流出は民間の経済交流の結(jié)果であって、政治的に推進(jìn)したのではない。むしろ、貨幣鋳造の規(guī)模が大きかった宋でも、大量の銭が外國(guó)に流失したために、國(guó)內(nèi)での銭不足は深刻だった。そのため公式には銅銭の國(guó)外持ち出しは厳禁されていた。また周辺國(guó)で宋銭の持ち込みと持ち出しを禁止した國(guó)も珍しくなかった。

當(dāng)時(shí)の國(guó)際貿(mào)易は主にバーター貿(mào)易であり、宋銭も商品の一種と見なされていた。また各國(guó)の禁止令もあり、宋銭はアジア國(guó)際貿(mào)易の中で統(tǒng)一的な決済手段にまでなったわけではなかった。

■周辺國(guó)が宋に書籍を「逆輸出」、日本の仏教が中國(guó)にも影響を及ぼす


宋代は歴代中央王朝の中で初めて自國(guó)民の海への貿(mào)易を許可し奨勵(lì)した。そのため多くの中國(guó)商人が海外に出た?!父啕愂贰工摔瑜欷?、高麗貿(mào)易に従事した宋の商人は4665人いた。この數(shù)字は當(dāng)時(shí)、把握されていた人數(shù)だけの集計(jì)だ。日本の博多にもかなりの規(guī)模の宋商人が居留していた。東南アジア地域の宋商人はもっと多かった。

中國(guó)の商人はアジアの海洋貿(mào)易においてアラビア商人と肩を並べる主導(dǎo)的な力だった。東南アジアでは、宋船が入港した直後に商取引が最も活発になった。中國(guó)商人は、南シナ海地域からから密輸された商品を日本や高麗に転売した。このことで、南シナ海と東アジアの海域に統(tǒng)一された貿(mào)易システムが出現(xiàn)した。

貿(mào)易の隆盛は、文化の伝播も促進(jìn)した。中國(guó)から周辺國(guó)に伝わった文化は多かったが、それだけではない。高麗や日本には、中國(guó)では失われてしまった古い書籍が殘っていた。そのような書籍が中國(guó)に「逆輸入」された。また、宋の商人だった周文徳は、日本の僧侶の源信が10世紀(jì)末に著した「往生要集」を中國(guó)の天臺(tái)山國(guó)清寺にもたらした。この書物は極楽往生に関する重要な文章を集めた?jī)?nèi)容であり、中國(guó)では唐末からの混亂によって散逸した教法を復(fù)活させる重要なきっかけになった。また外國(guó)人商人は、中國(guó)にイスラム教、マニ教、ヒンズー教などを伝えた。

■當(dāng)時(shí)の平和共存と改革開放が現(xiàn)代に教えることとは


商業(yè)活動(dòng)は政治にも関係した。ただしそれは、政治の側(cè)からの「平和利用」という性質(zhì)のものだった。宋朝はしばしば、商人を利用して政治的意向を諸國(guó)に伝えた、例えば神宗(在位1067-1085年)は、約40年間中斷していた高麗との公式交流を再開しようとした際に、福建の商人らを通じて高麗にその意向を伝えた。商人にとって宋と諸外國(guó)との友好関係は交易に有利なので、喜んで協(xié)力した。

宋代の海上貿(mào)易政策は比較的開放的で、外國(guó)商人の中國(guó)訪問(wèn)も歓迎した。つまり中國(guó)人と外國(guó)人の相互往來(lái)が実現(xiàn)した。この歴史上の経験は現(xiàn)代に対する一つの教えでもある。まず宋代の中國(guó)人は海洋貿(mào)易を通じて、中國(guó)以外の諸國(guó)についての具體的知識(shí)を得た。異なる信仰、異なる習(xí)慣、異なる制度を持つ社會(huì)が多く存在するという、多元的な考え方が浸透していった。


そして、中國(guó)國(guó)內(nèi)では輸出品を生産する目的もあり、商工業(yè)を主體とする経済構(gòu)造が次第に形成されていった。資本の蓄積や、共同出資による事業(yè)も発生した。雇用體系の確立や船舶のリースなども出現(xiàn)した。すなわち海洋貿(mào)易が盛んになったことが契機(jī)となり、社會(huì)や経済の改革が出現(xiàn)した。

宋代には諸外國(guó)との貿(mào)易を通じて、互恵とウィンウィンという理念や、それを?qū)g現(xiàn)するためのメカニズムが出現(xiàn)した。まさに持続可能な発展のための基礎(chǔ)が出現(xiàn)した時(shí)代だった。開放と交流により互いによりよい社會(huì)を形成することは、まさに現(xiàn)代社會(huì)が追及すべき理想であるはずだ。(構(gòu)成 / 如月隼人


※記事中の中國(guó)をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個(gè)人の見解であり、RecordChinaの立場(chǎng)を代表するものではありません。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問(wèn)い合わせ

Record China?記事へのご意見?お問(wèn)い合わせはこちら

お問(wèn)い合わせ

業(yè)務(wù)提攜

Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問(wèn)い合わせはこちら

業(yè)務(wù)提攜