敦煌では異民族と異文化が共存―研究者が「我々に教えてくれること」を解説

中國新聞社    2022年9月12日(月) 23時30分

拡大

敦煌は長い歴史を通じて中國と中央アジアを結(jié)ぶシルクロードの要衝であり、異文化が共存する舞臺だった。寫真は敦煌に殘る貴重な文化遺産として有名な莫高窟の壁畫。

中國甘粛省の地図を見ていただきたい。北西から南東に向けて細長くのびる形だ。南東の端を出て東に進めば陝西省省西安市、すなわちかつての長安がある。甘粛省の北西には新疆ウイグル自治區(qū)が広がる。そして、敦煌があるのは甘粛省內(nèi)の最北西部だ。甘粛省は長安からシルクロードに抜ける「道」だった。敦煌はその「道」の要衝だった。

歴史上の活発な異文化交流が、現(xiàn)代を生きる我々に教えてくれるものとは何なのか。敦煌の研究に長年にわたり攜わってきた敦煌研究院の張元林副院長はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、敦煌の往時の狀況や研究史、さらには敦煌における文化文明のあり方が現(xiàn)代を生きる我々に教えてくれることを解説した。以下は張副院長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■ゾロアスター教、仏教、道教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教が共存

敦煌の壁畫や殘されていた文獻、出土した遺構(gòu)から、この地で多くの民族が長期にわたり生活していたことが分かる。漢族、吐蕃人、西夏人、ウイグル人など、さらには中央アジアや西アジア地域から來た人がいた痕跡もある。敦煌研究院が所蔵する元代(1279-1368年)の石碑には、漢文、サンスクリット語、チベット語、西夏語、ウイグル語、モンゴル語の6種の言語が刻まれている。

前漢の武帝は紀元前2世紀に、西域への進出拠點として4郡を置いた。その一つが敦煌だった。そして敦煌を経由しての商業(yè)や貿(mào)易、文化の交流が盛んになった。中央アジアの交易で活躍していたソグド人商人などは4世紀以降、敦煌を経由して長安などに進出し、宗教、文化、言語、蕓術(shù)などの面での相互作用をもたらした。

シルクロードを旅したのは僧侶や使節(jié)、商人らだ。彼らは予斷を許さない長い旅を前にして、神仏の加護を求めた。そのため、敦煌の宗教と民間信仰は多元化の傾向を示した。例えばゾロアスター教、仏教、道教、ネストリウス派キリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教などシルクロード沿線で流行した主要な宗教のほとんどが、敦煌に拠點を置いた。

■敦煌で民族や宗教などの紛爭や衝突が起きなかったのはなぜか

陸上のシルクロードが特に重要な役割りを果たした期間は、1500年以上に及ぶ。敦煌は極めて長期にわたり、中國と外國の政治や経済、文化をつなぐ重要な中継點だった。有名な敦煌石窟の形成は東西の文化交流の結(jié)果だ。敦煌石窟は中原文化(漢族文化)を基礎(chǔ)として、インドや中央アジアの仏教蕓術(shù)を大膽に吸収し、特色のある敦煌文化と敦煌石窟蕓術(shù)を形成した。そして、敦煌文化の影響はシルクロードに沿って周辺に伝わった。

多くの文明と信仰が入り混じった敦煌で、民族や宗教などの紛爭や衝突が起きなかったのはなぜか。これこそ、中華文化が何千年にもわたって延々と受け継がれ、生き続けてきた鍵だ。敦煌は古代のシルクロード交通の要衝だったが、閉鎖的で保守的な「関所」ではく、東西の人の流れや交易の円滑さを保障する「戸口」として機能した。

武帝により敦煌郡が開設(shè)されたことで、敦煌住民は漢族が主流になった。しかしその後、吐蕃、西夏、甘粛ウイグルなど、さまざまな民族による政権が敦煌を支配した。異なる民族、異なる宗教信仰の人々は、文化の違いによって「互いに傷つけ合う」のではなく、逆に「長所を取って短所を補う」道を選んだ。調(diào)和と共生が敦煌の人々の「生き方」だった。

■中國で「従來型研究」の弱點を是正する當たな取り組み

大量の文化財が発見された場所として、とりわけ有名なのが敦煌莫高窟にある蔵経洞だ。紀元4-10世紀の寫本や刺繍、絹畫、法器などの各種文化財約6萬點余りが現(xiàn)存している。文字記録としては宗教経典や史書の一部、公式文書や私的文書などがあり、種類は極めて豊富だ。中國語以外の文書も発見されている。これらの文化財が研究の鍵となる分野は歴史、地理、政治、経済、文學、言語、民俗、音楽、科學技術(shù)など極めて多彩だ。敦煌蔵経洞はまさに、「中古時代の百科事典」であり「歴史解明の學術(shù)の?!工?。

蔵経洞が120年余り前に発見されたことで、敦煌學という學問分野が形成された。世界中の敦煌學者が苦心して深く研究した結(jié)果、各地に流出した蔵経洞の文化財が徐々に整理され、刊行され、出版された。そして蔵経洞の文化財の貴重な価値が基本的に明らかになった。そして「敦煌は中國に存在、敦煌學は世界に存在」という研究局面が形成された。

中國國內(nèi)の學術(shù)界は長年にわたり、伝統(tǒng)的に知られていた史籍の利用を重視してきたが、近代になり発見された敦煌文獻の利用では相対的に貧弱だった。中華人民共和國の成立前に、多くの資料が海外に持ち出され、中國國內(nèi)で研究に用いることができる資料が十分ではなかったからだ。學問分野の構(gòu)築の面でも、敦煌で得られた素材を利用して、中國と外國の関係を研究することは、さほど重視されたとは言えない狀況だった。

しかし敦煌研究院は現(xiàn)在、「敦煌と中國外國関係史料の整理研究」という國家重點プロジェクトを進めている。學術(shù)分野として確立し、敦煌で得られた資料の系統(tǒng)的な整理を強化し、中國外國関係史研究の深まりと広がりを推進する取り組みだ。

■敦煌文化が我々に教えること…「潤滑が存在すれば摩擦音は生じない」

敦煌の文化には中華民族の輝かしい豊かな文化的內(nèi)包があり、「人を根本とする」、「平等」、「包容」などの中國伝統(tǒng)文化の価値志向と、シルクロードにおける「互恵ウィンウィン」と「多元的な交融」という歴史と文化の懐の深さを集中的に體現(xiàn)している。この事実には、中國で多民族の融合と統(tǒng)一を同時に実現(xiàn)する國家が形成された歴史的必然性が含まれている。

人類は長い歴史を通じて、數(shù)多くの「文化の奇跡」を出現(xiàn)させてきた。しかし世界を見渡せば、それらが破壊されてしまったことも珍しくない。多くの場合には、宗教上の衝突や人種間の対立などが原因になった。しかし敦煌莫高窟では1000年にわたって建設(shè)が続き、深刻な人為的破壊はほとんど発生しなかった。このことには、敦煌の歴史的プロセスが全體的に包容力があり親睦を旨として、異なる言語や文化、言語などが當然のこととして尊重されてきたことを物語る。このような多元的で一體的な文化形成の過程は、今の人に対して「潤滑が存在すれば摩擦音は生じない」と教えてくれる。

世界は今、極めて長年にわたり経験してこなかった大変化に直面している。改めて敦煌文化の特徴を見よう。そこには多元的共存、異質(zhì)なものとの共存、互恵とウィンウィン、異質(zhì)なものの尊重、理解と包容が存在した。これらの內(nèi)容は、現(xiàn)在の中國?外國関係の発展にとって、依然として指導的な參考意義がある。敦煌の在り方は、中國が現(xiàn)在進めている「一帯一路」建設(shè)に関連しても、多くの人々の「歴史的共感」を得られるはずだ。(構(gòu)成 / 如月隼人





※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

この記事のコメントを見る

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業(yè)務(wù)提攜

Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら

業(yè)務(wù)提攜