<日本のミナト>橫浜港の変遷から見る現(xiàn)狀と課題=東京、川崎とのコンテナ拠點一體化を

山本勝    2022年9月25日(日) 9時0分

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日本のミナトは日本経済の発展とともに拡大し変容を続けてきた。象徴的な橫浜港にその変遷と課題をみる。寫真は橫浜。

日本のミナトは日本経済の発展とともに拡大し変容を続けてきた。象徴的な橫浜港にその変遷と課題をみる。

日本は國土の広さで世界の62番目だが海岸線の長さでみれば世界6位の國だ。この日本に漁港をふくめると3000近い港があり、國內(nèi)、海外との貨物輸送の重要拠點として位置づけられる港灣が全國に102港と、國土面積當(dāng)たりの港の數(shù)でいえば間違いなく世界一だろう。

貿(mào)易立國日本を支える國際輸送貨物を扱う拠點港灣は北海道から九州まで18港、さらに東京、橫浜、川崎、神戸、大阪の各港は「國際戦略港灣」(スーパー中樞港灣ともよばれる)に指定され、國際ハブ港としての役割を期待されている。

日本のミナトは、戦後の復(fù)興とともに國內(nèi)の大量?長距離海上貨物輸送の拠點として、また経済成長の原動力となる國際貿(mào)易の重要結(jié)節(jié)點として拡大、発展してきたが、その全體像は國民の目からはなかなか捉えがたく、同時にさまざまな課題も抱えているようだ。

◆生糸輸出が大當(dāng)たり

わが國で最初に「開港」した橫浜港の発展の歴史は象徴的であり、概観してみたい。人口500人ばかりの小さな漁村だった橫浜は1859年開港後、いまの日本大通りを海岸に突き當(dāng)たったあたりに2本の突堤をつくり(これが現(xiàn)在の「象の鼻」にあたる)、沖がかり(沖合に錨泊)した本船とのあいだを艀(はしけ=小型の船)で行き來して貨物を揚げ積みするミナトからスタート。ブームにのった日本の生糸の輸出が大當(dāng)たりして、ここ橫浜港が港として発展し、日本の近代化の礎(chǔ)となる貿(mào)易の拠點となっていったことは歴史書に詳しい。

貿(mào)易量の急増にともない、明治20年代から大正のはじめにかけて大型船が直接接岸できる埠頭の建設(shè)?整備がはじまり、現(xiàn)在の大さん橋(當(dāng)時は鉄桟橋とよばれた)、赤レンガ倉庫のある新港埠頭(埋立地)などがつくられ近代的な港灣として形が整えられていった。

現(xiàn)在帆船日本丸が係留されている地に橫浜船渠(三菱重工橫浜造船所の前身)がつくられたのが明治24年、大型船が行き會い、多數(shù)の艀や小舟で賑わうようすはまさに外國に開かれた海の玄関といったところだろう。いまかろうじて観光的な遺跡として殘っている內(nèi)防波堤から內(nèi)側(cè)の半徑1kmほどの水域が當(dāng)時の橫浜港のすべてだった。

このころから、川崎から神奈川にかけての海が埋め立てられて京浜工業(yè)地帯として発展が始まり、同時に工業(yè)地帯に隣接した水路?運河に港が築かれ、港域は北に拡大、川崎地域との一體化が進んでいく。

1923年の関東大震災(zāi)で大打撃を被ったが、昭和の初めころにはほとんど元の姿にまで復(fù)興が進むとともに、埋め立て地の拡張と軍需産業(yè)をはじめとする工場の建設(shè)によって港の機能も重要性も拡大。しかし戦爭がはじまり空襲による破壊と、敗戦による港灣施設(shè)の接収により、1949年まで民間貿(mào)易港としての機能は完全に止まる。

戦後は経済復(fù)興と高度経済成長の時代を迎え、早くも1957年ごろには橫浜港の貿(mào)易量は戦前を凌ぐまでに回復(fù)した。

このころから日本経済の拡大にともなう原油やガス、鉄鉱石、石炭などの資源物資、穀物や飼料などの輸入も急増、これに応えるため船の大型化とともに輸送貨物に特化した専用船化に拍車がかかり、これらの船を受け入れる専用の港灣施設(shè)が既存の港の外側(cè)につくられていく。

◆革命的変化もたらしたコンテナ輸送

さらに一般雑貨の貿(mào)易に革命的な変化をもたらしたのが日本で1968年から始まったコンテナによる海上輸送だ。たちまちコンテナ船が在來貨物船を駆逐し、巨大化が始まる。

昭和30年代から港域は內(nèi)防波堤から外に同心円的に拡大。大黒町からさらに先が埋め立てられ、根岸灣の埋立地とともにエネルギー基地を中心とする一大臨海工業(yè)地帯が形作られた。大型コンテナ船に対応した大水深の専用港灣として南に本牧埠頭や大黒埠頭さらに南本牧埠頭が埋め立てられ建設(shè)されていったのもこうした背景による。

昭和30年代はじめまでの橫浜港はさま変わりし、いま一般市民、観光客が山下公園やみなとみらい地區(qū)から見る橫浜港は、観光施設(shè)として殘ったミナトの面影にしか過ぎないのが実情だ。

これが日本の経済成長とともに発展を遂げてきた橫浜港の変遷の歴史であり、東京、神戸、大阪、名古屋など大きな経済圏を背後に抱える日本の重要港灣の発展と重なる。

このように日本の港灣の主要機能は、かつてのミナトの外側(cè)に埋め立てられたあらたな地に移設(shè)、拡散され、近隣の港域と一體化するかたちで変化が進んだ。同時多発テロ以來の港灣のセキュリティー強化もあって港域への人のアプローチもままならず、一般市民にとってなかなか全體像が見えにくい所以である。海事立國ニッポンの港灣の存在と重要性をひろく國民に知ってもらうためにも、ミナトの変遷と実勢についてのアウトリーチ活動に、政府も、地方地自體も力を注いでほしいものだ。

◆アジアで日本の港灣地盤が沈下

さらに、近年の日本経済の低迷や、中國をはじめとするアジア諸國経済の勃興によって、世界の中で、なかんずくアジアの中で日本の港灣の地盤沈下が続いている。一般生活物資、工業(yè)部品、食料などを一手に擔(dān)うコンテナ輸送において、國際ハブ港としての機能が上海をはじめとする中國の港や韓國の釜山に奪われ、日本の國際重要港灣のコンテナ取りあつかい量は低迷のまま。政府、地方自治體がすすめる主要港灣の國際競爭力強化の施策が思うように進んでいないようだ。東京灣內(nèi)に近接する東京、川崎、橫浜のコンテナターミナルの運営を有機的に一體化し効率化や利用料金の引き下げを図るなど、過去のしがらみを超えて早期の対策の実現(xiàn)が望まれる。

日本のミナトについて國民の認識が広がるとともにその復(fù)活に期待したい。

■筆者プロフィール:山本勝

1944年靜岡市生まれ。東京商船大學(xué)航??谱洹⑷毡距]船入社。同社船長を経て2002年(代表)専務(wù)取締役。退任後JAMSTEC(海洋研究開発機構(gòu))の海洋研究船「みらい」「ちきゅう」の運航に攜わる。一般社団法人海洋會の會長を経て現(xiàn)在同相談役?,F(xiàn)役時代南極を除く世界各地の海域、水路、港を巡り見聞を広める。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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