カンボジアとはどのような國なのか、中國との関わりは―古い歴史から解説

中國新聞社    2022年11月3日(木) 11時(shí)50分

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カンボジアはインド文化の影響を強(qiáng)く受けた典型的な國家だったとよく言われる。しかし北京外國語大學(xué)の顧佳贇主任は、その見方は一面的と指摘する。寫真はカンボジアのアンコール?ワット遺跡。

東南アジアのうち陸地部分はよく、インドシナ半島と呼ばれる。この半島にあるのはタイ、ミャンマー、ベトナム、ラオス、カンボジアの5カ國だ。同じインドシナ半島にあっても、この5カ國の文化はかなり大きく異なる。これまでカンボジアについては、インド文化の影響を強(qiáng)く受けたことが強(qiáng)調(diào)される傾向があった。しかし、北京外國語大學(xué)アジア學(xué)院副院長で、カンボジア研究センターの主任を務(wù)める顧佳贇準(zhǔn)教授は、カンボジアはむしろ、さまざまな文化文明が出會(huì)い、融合した地と認(rèn)識(shí)すべきだと主張する。以下は、中國メディアの中國新聞社の取材に応じた、顧準(zhǔn)教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■カンボジアには、インドだけでなく中國とも深い結(jié)びつきがあった

西洋の研究者はよく、古代カンボジアはインド文化の影響を強(qiáng)く受けた典型的な國家だったと言う。しかし、その主張は一面的だ。カンボジアは中華文明の影響も強(qiáng)く受けてきた。原因の一つは中國との交易が多かったことだ。中國の王朝の中でカンボジアとの交易が特に盛んだったのは南北朝時(shí)代(439-589年)の南朝の諸王朝、唐(618-907年)、明(1368-1644年)だ。中國側(cè)からの輸出品は陶磁器や繊維製品だった。

カンボジアが中國文化の影響を受けた一例としては、13世紀(jì)末に「十二支」に基づく紀(jì)年法が採用されたことがある。元代(1279-1368年)には、周達(dá)観という人物がカンボジアに旅行して、首都だったアンコールで自分と同郷の溫州出身者と出會(huì)っている。カンボジアが中華文明の影響を受けたことには、カンボジアで暮らす華人が多かったことに関係している。

中國とインドは隣り合う二つの大文明圏だ。しかし地勢(shì)の関係もあり、直接に往來することは容易でなかった。カンボジアは中國側(cè)にとって、インドについての知識(shí)を得る窓口の役割りも果たした。南朝の梁(502-557年)の歴史を記した「梁書」の「海南諸國」には、時(shí)代をややさかのぼった部分も含めて南方諸國の記載がある。カンボジアについては、三國時(shí)代の呉の孫権(在位:229-252年)が東南アジアに使いを送り、カンボジアでは在住華人から、インドの國情を教えてもらったとの記載がある。カンボジアは中國とインドが互いに相手の情報(bào)を得る場所でもあった。

19世紀(jì)になると、インドシナ半島ではフランスの勢(shì)力が強(qiáng)まった。カンボジアは1884年にフランス領(lǐng)インドシナに組み込まれた。しかし植民地になったカンボジアにも華人はいた。1953年にカンボジアが獨(dú)立すると華人グループが次々に學(xué)校を建設(shè)した。このことで中華文化とカンボジア文化の融合が促進(jìn)された。20世紀(jì)初頭には、「三國志演義」がタイ経由でカンボジアにもたらされた。「三國志演義」は今でも、カンボジアで人気が高い「時(shí)代小説」だ。

一方で、中國の王朝がカンボジアに戦爭を仕掛けたことはない。むしろ、軍事面ではカンボジアを支援した。カンボジアの古都のアンコールにある人気の観光スポットでもあるバイヨン寺院の壁には、外敵に立ち向かうために、北宋(960-1127年)の兵士とカンボジアの兵士が並んで行軍する様子を描いたレリーフがある。


■今も続くカンボジアと中國の友好関係、民間交流もますます旺盛に

カンボジアと中國の友好関係は今も続いている。例えば理念の共感の面では、カンボジアは「一帯一路」共同建設(shè)の最初期の參加國の一つだ。カンボジアは「一帯一路」を、自國における外資誘致やインフラ整備のチャンスと認(rèn)識(shí)した。そして、國家戦略に「一帯一路」をしっかりと組み込んだ。中國とカンボジアは2019年に、世界初の2カ國運(yùn)命共同體構(gòu)築行動(dòng)計(jì)畫を締結(jié)した。両國の発展についての理念が合致しているからこその締結(jié)であり、2カ國運(yùn)命共同體の構(gòu)築は、中國が提唱する人類運(yùn)命共同體構(gòu)築のモデルケースでもある。

中國とカンボジアの貿(mào)易は急速に発展している。カンボジアにとって中國は過去數(shù)年間にわたり最大の貿(mào)易相手國であり、カンボジアにとっての最大の投資國でもある。カンボジアでは電力供給や物流のインフラ環(huán)境が改善されたことにより、大量の雇用が発生した。

教育や文化面でも両國の結(jié)びつきは密接だ。カンボジアには、中國と共同で設(shè)立した中國語や中國文化を教える孔子學(xué)院がすでに2カ所ある。また、華東師範(fàn)大學(xué)はカンボジア側(cè)の大學(xué)と提攜して、修士號(hào)を持つ中國語のカンボジア人教師を育成している。

醫(yī)療面でも、中國の感染癥対策醫(yī)療専門家チームが、コサマック中國?カンボジア友諠病院で活動(dòng)している。両國の人の往來は極めて盛んで、民間交流は激増している。

■外來文化に寛容だったカンボジア、相手を尊重してこそ健全に成長

カンボジアが東西文明の融合する地となったのは、その寛容な民族性のおかげだ。カンボジアは歴史を通じてさまざまな宗教が集まってくる場所だった。しかしヨーロッパ中世に多発した宗教を理由とする迫害や、宗教戦爭は、カンボジアの歴史では極めてまれだ。

バラモン教、大乗仏教、上座部仏教などがカンボジアに伝わり信仰された。多彩な宗教が共存した。クメール王朝の君主だったヤショーヴァルマン1世は、バラモン教徒や仏教との修行のために、僧院100カ所を建設(shè)した。二つの宗教のいずれをも尊重したわけだ。16世紀(jì)に西洋からカトリックの宣教師がやって來た際にも、カンボジアの國王は寛大に待遇した。

カンボジアの歴史を見ると、文化の伝播や文明の相互學(xué)習(xí)が円滑になされた時(shí)期には、大きく進(jìn)歩している。逆に、國家政権が外部から脅迫されたり、內(nèi)政が亂暴に干渉されたりすると、文明の発展は阻害される。

カンボジアの狀況を見ても、世界のすべての國と民族はすべて異なる歴史の軌跡、民族の性格と文化意識(shí)を持っていることが分かる。どのような発展の道を望むかも、おのずから異なっている。世界には多様な文明が同時(shí)に存在していることを認(rèn)めなければならない。各國の人々が自主的に選択した発展の道を尊重し、協(xié)力し合い、共に話し合い、共に建設(shè)し、共に享受することを通じて、共に成長することを?qū)g現(xiàn)すべきだ。(構(gòu)成 / 如月隼人


※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個(gè)人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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