考古學(xué)史上の最大級の発見、殷墟の調(diào)査では今も新成果が続々―研究者が紹介

中國新聞社    2022年11月10日(木) 13時30分

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今から3000年以上も前の王朝の殷の都だった殷墟の調(diào)査が始まったのは90年余り前だったが、現(xiàn)在も新たな発見が続いている。寫真は出土狀況なども知ることができる現(xiàn)地の殷墟博物館。

今から3000年以上前の中國に存在した殷と言う王朝の都だった「殷墟」の遺跡の本格的な発掘が始まったのは、1920年代の後半だった。場所は、河南省安陽市內(nèi)だ。「殷墟の謎」はどのように解明されてきたのか、どの程度解明されたのか。長年にわたり極めて古い時代の遺跡の調(diào)査研究に攜わってきた中國社會科學(xué)院大學(xué)の何毓霊教授はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、殷や殷墟について詳しく紹介した。以下は何教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

■畫期的だった殷墟の発見、中國考古學(xué)と考古學(xué)の人材を育んだ

殷墟の本格的な考古學(xué)調(diào)査が始まったのは1920年代の後半だ。當(dāng)時は世界的に、考古學(xué)の理論と方法がいずれも模索段階だった。そのような中で、西洋の考古學(xué)をいかにして中國に応用するかは、中國の考古學(xué)の先駆者が直面した問題だった。

殷墟遺跡の発掘で、まず重視されたのは甲骨文の発見だった。人類學(xué)の専門家だった李済は1929年に殷墟遺跡の発掘に加わったが、自分自身は地層學(xué)の方法をよく知らなかった。しかし李済は地層の調(diào)査の重要性は認識するようになった。

梁思永が1931年、に中國考古學(xué)史で有名な「後崗三積層」、すなわち仰韶文化層、龍山文化層、商文化層の下から上への3層を発見したことで、中華文明が先史時代から歴史時期まで一貫して受け継がれていることが証明された。これは、中華文明は西方から伝來したとする、歐米で唱えられた説に対する、強力な反論だった。

殷墟の早期発掘が大きな成果を上げたのは、考古學(xué)者が絶えず科學(xué)を探求し、追求してきたことと切り離せない。殷墟は初期の考古學(xué)の理論と方法の実験の場になり、中國の考古學(xué)のスタイルが形成されていった。また、殷墟の調(diào)査発掘作業(yè)を通じて、多くの考古學(xué)者が育っていった。殷墟は、中國の考古學(xué)を育てると同時に、考古學(xué)の人材を育てる場でもあった。

また殷墟からは王宮の遺構(gòu)や墓、甲骨文字が刻まれた骨片など、さらに大量の青銅器が発見された。世界中の考古學(xué)者が、殷墟に強い関心を持つようになった。1932年には當(dāng)時の中央研究員歴史言語研究所がフランスのスタニスラス?ジュリアン賞を受賞した。同賞は19世紀フランスの中國學(xué)者だったスタニスラス?ジュリアンを記念して創(chuàng)設(shè)されたもので、「中國學(xué)のノーベル賞」とも言われる。中國の研究機関の受賞は、中國の學(xué)者が達成した成果が、西洋の中國學(xué)學(xué)界から認められたことを意味する。

米國のシカゴ大學(xué)教授や米國東洋協(xié)會の會長を務(wù)めたハーリー?G?クリールは、北京で留學(xué)していた1934年に、何度も殷墟に足を運んで見學(xué)している。1950年代から80年代にかけては、ソ連、ベトナム、日本などから學(xué)者や學(xué)生が殷墟に來て見學(xué)や交流、學(xué)習(xí)をした。改革開放が始まってから、殷墟と世界の交流は次第に活発になっていった。殷墟は2006年には、ユネスコの世界文化遺産に登録された。

■調(diào)査済み區(qū)域は全體のわずか5%、それでも重要な発見が続々

殷墟の総面積は36平方キロで、調(diào)査開始から90年以上が経過したが、発掘された部分の面積は全體の5%にも満たない。

しかし、新たな発見は著実に追加されつつある。例えば商(殷)は550年以上にわたり繁栄したが、最初の200年ほどの都は、現(xiàn)在の河南省鄭州に置かれていた。殷墟は商の晩期の250年間ほどの都だった。その中間の時期の都は分からなかった。

ところが1999年になり、殷墟の王墓の近くから、新たな商の都市跡が見つかった。考証の結(jié)果、そこが商の中期の都だったと分かった。この新発見の都は「洹北商城」と呼ばれている。

われわれは2015年から現(xiàn)在まで、洹北商城での発掘調(diào)査を続けている。これまでに主に手掛けた場所は、青銅器製作所や骨器や陶器づくりの工房エリアだ。洹北商城の発掘調(diào)査は、過去20年間において考古學(xué)者が殷墟で実施してきた最も重要な仕事の一つだ。

この20年ほどで、殷墟全體で手工業(yè)の工房を主たる対象とする手工業(yè)考古學(xué)が盛んになった?,F(xiàn)在までに殷墟では、青銅器製作所5カ所が見つかっている。中でも孝民屯村の工房では、陶製の型が7萬點余り見つかった。劉家荘北地の貯蔵坑內(nèi)からは、青銅器製造用の青銅の塊が3.4トンも見つかった。3カ所の骨器製造工房では、骨器が1000萬點も生産されていると推定されており、うち鉄三路の工房では骨の廃棄物だけで36トンも発見された。これらはいずれも當(dāng)時の手工業(yè)生産の氷山の一角だ。

2016年から2020年にかけて殷墟の保護地區(qū)の北東の外側(cè)で発見され発掘された辛店青銅器製作所は、前例のない100萬平方メートル近い広さだった。これらの考古學(xué)上の発見により、商王朝晩期の手工業(yè)の生産資源、生産技術(shù)、製品流通、組織管理、従業(yè)者層など多くの関連問題の研究が大いに進んだ。

近年は殷墟保護區(qū)外での新発見も注目を集めている。特に超大型の辛店製銅所や、さらに殷墟の西で発見された高級建築、南の製銅所、東の墓地などだ。これらの新発見により、多くの學(xué)者が甲骨文字に記載された「大邑商」の意味を深く考えることになり、當(dāng)時の統(tǒng)治モデル、軍事防衛(wèi)、青銅禮器の生産と分配など多くの問題に取り組むようになった。

また、20年ほど前からは、人骨、動物、植物、冶金、環(huán)境、古DNA技術(shù)、測年、測量製図などの科學(xué)技術(shù)考古學(xué)が殷墟で広く応用されるようになり、3000年以上前の商代の人と人との関わり方、仕事と環(huán)境、資源と技術(shù)などについての知識が増えて、生き生きとした立體的な都の姿を徐々に示せるようになってきた。

■甲骨文字が持つ意義とは、文明全體の中での位置づけとは

殷墟は中華文明の起原を探る旅の出発點だ。多くの遺跡の発見はいずれも殷墟の発見と関係がある??脊艑W(xué)者は殷墟に対する深い研究に基づいて、商代初期の鄭州商城遺跡、夏代の二里頭都遺跡、さらには殷墟後の両周城跡を発見した。

殷墟で甲骨文字が発見されたことは極めて重要だ。これまでに16萬枚以上の甲骨が出土した。発見された文字數(shù)は約4500字で、うち約1500字が解読された。甲骨文字を基礎(chǔ)とする漢字は今なお14億人の中華民族の人々が使っている生きた文字であり、中華民族の人々の共通の遺伝子であり、人々を結(jié)び付ける絆だ。

20世紀になるまで、殷墟は文獻で散発的示されていただけで、安陽小屯村の遺跡と結(jié)びつけられていなかった。そして、甲骨文字の発見によって殷墟が商代末期の都であることが確認されることになった。

西洋の學(xué)界には、金屬器の利用と都市の成立と文字の使用を文明成立の三大要素とみなす傾向がある。その意味でも、甲骨文の発見は重要だった。しかし文化や文明を総合的に考えれば、甲骨文字は殷墟文化の重要な構(gòu)成部分であるが、それだけが重要なのではない。

現(xiàn)在まで続く文明の様相を考えれば、殷墟文明には都市の設(shè)計と建設(shè)、運営、手工業(yè)、畜産などのさまざまな要素が含まれており、甲骨文字はその中心的な要素の一つと理解することが、より正確な認識であるはずだ。(構(gòu)成 / 如月隼人




※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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