「殷墟」で出土した紀(jì)元前の戦車は當(dāng)時(shí)の壯大な文明交流を物語(yǔ)る―専門家が解説

中國(guó)新聞社    2023年1月13日(金) 23時(shí)0分

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紀(jì)元前の中國(guó)における「主力兵器」は馬に引かせる「戦車」だった。この戦車は、當(dāng)時(shí)の中國(guó)と中國(guó)外部の「文化交流」を象徴しているという。寫真は殷の都の遺跡の殷墟で出土した戦車。

紀(jì)元前17世紀(jì)ごろから同1046年まで中國(guó)に君臨した國(guó)が殷(商)だ。河南省安陽(yáng)市郊外にある「殷墟」は、この殷の最後の都だった。この殷墟からは當(dāng)時(shí)の「戦車」も多く出土している。もちろん現(xiàn)在の「戦車」とは異なり、一種の馬車だ。紀(jì)元前の中國(guó)では、この戦車が「主力兵器」だった。中國(guó)殷商學(xué)界の理事を務(wù)める于成竜氏によると、殷墟から出土した戦車は、壯大な東西文化の交流が存在したことを示している。以下は于氏が、中國(guó)メディアである中國(guó)新聞社に寄稿した、殷代の戦車についての解説文の主要部分に、若干の説明情報(bào)を補(bǔ)足するなどで再構(gòu)成したものだ。

■「戦車」は紀(jì)元前の中國(guó)で1000年にわたり「主力兵器」だった

戦國(guó)時(shí)代の楚の政治家で詩(shī)人でもあった屈原(紀(jì)元前340年ごろ-同278年)は、詩(shī)の中で當(dāng)時(shí)の壯絶な戦車戦の様子を生々しく描寫している。楚の將兵が乗る戦車は敵の戦車隊(duì)に突入し、車輪と車輪が交錯(cuò)するほどの接近戦になったなどだ。當(dāng)時(shí)の戦車は4頭立ての2輪馬車だった。中國(guó)で戦車が登場(chǎng)したのは殷代末期で、前漢(紀(jì)元前202年-紀(jì)元8年)初期までの約1000年間にわたり極めて重要な兵器であり続けた。

中國(guó)が分裂して諸國(guó)が覇権を爭(zhēng)った春秋戦國(guó)時(shí)代(紀(jì)元前771年-同221年)には、各國(guó)がどれだけの數(shù)の戦車を保有しているかが、その國(guó)の軍事力を示す物差しになった。

この戦車は一方で、旅や狩猟の際の重要な移動(dòng)手段でもあった。1911年に河南省安陽(yáng)市郊外の村で出土した牛の肩甲骨には180文字近くからなる占いの文が刻まれていたが、その中に、狩猟の際に王と家臣の戦車が衝突したとの記述がある。

また「禮制」を極めて重視した古代中國(guó)では、天子と諸侯、さらにその下の階層の貴族に至るまで、それぞれの身分によって保有してよい車の數(shù)やその裝飾が定められていた??脊艑W(xué)調(diào)査の結(jié)果も、階級(jí)により違いがあったことを示している。甲骨文や、その後に記された文獻(xiàn)には、戦車に関する記述が極めて多い。

殷墟で出土した戦車

■殷の最後の都の遺跡から、あまりにも完成度が高い戦車が出土

中國(guó)人の専門家が、それまで知られていなかった極めて古い文字を刻んだ骨が出土することを知ったのは19世紀(jì)末で、出土場(chǎng)所が河南省安陽(yáng)市の小屯村であることが分かったのは20世紀(jì)になってからだった。928年から日中戦爭(zhēng)で中斷する1937年にかけては、當(dāng)時(shí)の中華民國(guó)中央研究院が安陽(yáng)市小屯村とその周辺で近代的な発掘調(diào)査を十?dāng)?shù)回にわたって実施した。1949年に中華人民共和國(guó)が成立すると、現(xiàn)地では考古學(xué)調(diào)査が全面展開(kāi)されるようになった。その結(jié)果、この地は武丁という殷の王の時(shí)代から最後の王の帝辛(紂王)に至るまでの、商王朝最後の都だったことが確実になった。遺跡の規(guī)模や出土品から、この殷の都は約300年にわたって大いに繁栄した「花の都」だったことが分かる。

殷墟からはこれまで、2頭立ての2輪馬車が100臺(tái)以上出土した。2005年から06年にかけては、戦車と馬を埋めた車馬坑10カ所の発掘調(diào)査が行われた。うち1カ所では、戦車5臺(tái)が並べられていた。まさに異様な壯観だった。これらの発見(jiàn)で、殷代の馬車の構(gòu)造が詳細(xì)に分かってきた。

考古學(xué)者が綿密に整理したところ殷代末期の馬車は、人が乗る臺(tái)が1基、同じ車軸の左右に取り付けられた2輪から成り、人が乗る臺(tái)からは「轅」と呼ばれる1本の棒が前に伸びており、「轅」の前端には「衡」と呼ばれる棒が「轅」からは直角に、左右に向けて取り付けられている?!负狻工摔稀杠棥工群簸肖欷腭Rを固定する器具が取り付けられる。使われる素材は青銅、木材、漆、皮革などで、製作にはさまざまな分野の高度な手工業(yè)技術(shù)が必要だ。

殷代については、さらに古い遺跡も発見(jiàn)されている。しかし馬や馬車の出土事例はない。従って、今のところ殷墟で出現(xiàn)した馬車は、中國(guó)で最も早い時(shí)期に出現(xiàn)した馬車と考えられている。ところがこの馬車は、力學(xué)的な構(gòu)造がきわめて合理的であり、さまざまな技術(shù)が組み合わされている。つまり、極めて洗練されているので「発明されたばかり」とは考えにくい。このことは大きな問(wèn)題だ。

殷墟で出土した戦車

■中國(guó)人は“外國(guó)人”が発明した戦車を?qū)毪筏剖证蚣婴à?/p>

しかし、ユーラシア草原に目を向けると、事情が判明してくる。今から約5500年前の現(xiàn)カザフスタンのボタイ遺跡では、馬の骨や歯、馬の骨を利用した道具、馬糞の堆積物が大量に見(jiàn)つかった。陶器片からは、馬乳の脂肪酸の殘留物までもが検出された。この遺跡は、人類が馬を家畜化した最古の証拠だ。

南ウラル地方のシンタシュタ遺跡にある紀(jì)元前2000年頃の墓からは、現(xiàn)在のところ世界で最も古い2輪戦車が出土した。その他、アルメニアでも紀(jì)元前1500年ごろに作られた2輪戦車が出土している。また、メソポタミア北部で出土した紀(jì)元前18世紀(jì)の粘土板文書には、當(dāng)時(shí)の1400人からなる軍部隊(duì)が、戦車40臺(tái)を保有していたと書かれていた。紀(jì)元前17世紀(jì)の粘土板文書にも、軍の8部隊(duì)が計(jì)80臺(tái)の戦車を保有したと書かれていた。シリアで出土した印章には、2頭立ての2輪馬車戦車が弓で敵を射殺す様子や、敵を踏みにじる絵があった。これらは、中央アジアや西アジアでは中國(guó)より早く戦車が広く使われていたことの証拠だ。

これらの地域で使われていた戦車を中國(guó)の殷代末期の戦車と詳細(xì)に比較すると、両者の構(gòu)造が同じであることが分かる。また、青銅製の部品は同じ使われ方をしている。つまり、中央アジアから西アジアにかけて長(zhǎng)い間盛んに使われてきた、完成度の高い2頭立て2輪馬車戦車が殷に伝わったと考えられる。

ただし、中國(guó)人の先祖が、伝來(lái)した馬車に何の工夫も加えなかったわけではない。殷末の戦車は、車體の大きさや人の乗車部分、車輪の直徑や車輪と車輪の間隔の寸法が、自分たちにとって使いやすいように改良されていた。また、殷代末期の高度に発達(dá)していた青銅器の鋳造技術(shù)も活用された。殷末の戦車は、中央アジアや西アジアの古い戦車よりも、はるかに洗練された。そして中國(guó)では、戦車がさらに改良されながら受け継がれていくことになった。

中國(guó)古代初期の殷王朝は、その後の歴史にも大きな影響を與えた。導(dǎo)入と消化、吸収と革新。新たな文化に対するこれらの理念は、殷代末期からの戦車において、余すことなく示されている。それは中華文明の起原と初期の発展?fàn)顩rが、多元的であり、かつ全體として一體化していたことを裏付けている。

東西文明はまさに、互いに刺激を與え続けてきた。殷の人々は、他者の長(zhǎng)所を取って自らの短所を補(bǔ)い、新たな成果を得て、それを自らのものとして蓄えてきた。このような精神があったからこそ、殷は政治や経済で輝かしい成果を収め、その後も長(zhǎng)く続くことになった輝かしい青銅文明を完成させたのだ。(構(gòu)成 / 如月隼人

殷墟で出土した戦車

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