靖國神社?日本大使館放火の中國人、帰國後の生活困窮に嘆き節(jié)「両親と疎遠(yuǎn)、半年収入ない」(1/4)―中國

Record China    2014年7月7日(月) 15時(shí)42分

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7日、北京青年報(bào)は、2011年に靖國神社の神門に放火し、翌12年にも逃亡先の韓國で日本大使館に火炎瓶を投げつけた中國人の劉強(qiáng)氏に関する記事を掲載した。寫真は広州の日本総領(lǐng)事館前での抗議活動(dòng)(劉氏が自身のマイクロブログで投稿したもの)。

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2014年7月7日、北京青年報(bào)は、2011年に靖國神社の神門に放火し、翌12年にも逃亡先の韓國で日本大使館に火炎瓶を投げつけた中國人の劉強(qiáng)(リウ?チアン)氏に関する記事を掲載した。

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劉強(qiáng)は水曜日になると決まって、広州の日本総領(lǐng)事館前に姿を見せる。上著を脫ぎ、「精忠報(bào)國」と書かれた背中の入れ墨を露わにする。中國南宋時(shí)代に異民族から國を守った英雄?岳飛も、背中にこの四文字を入れていた。劉は墨で書いた「日本謝罪」「中華崛起(くっき)」などの文字を示したり、時(shí)には歌を口ずさみ、日本國旗に向け指でピストルのポーズをとったりもする。劉によると、一連の行為は「パフォーマンス」だという。たまに友人たちと記念撮影することはあっても、彼は人を集めたりせず、あくまで一人だ。人々の愛國への情熱と自信を高めること。それが彼の目的だ。

劉強(qiáng)は2011年に靖國神社の神門に放火し、翌12年にも逃亡先の韓國で日本大使館に火炎瓶を投げつけた。1年の服役を経て釈放され帰國した劉は、予想しなかった新たな困難に直面している。

1974年6月20日、上海に生まれた劉強(qiáng)は、幼少期から父母と離れて暮らし、母方の祖母?楊英に育てられた。祖母は85年12月、亡くなる直前に自分の身の上を明かした。祖母の本名は李南英(イ?ナムヨン)。平壌に生まれ、42年に舊日本軍によって中國に連行され従軍慰安婦をさせられた。戦後も中國に殘り結(jié)婚、劉の母が生まれた。日本占領(lǐng)下のソウルで中學(xué)教師だった李南英の父?李勝式は、舊日本軍に監(jiān)禁され、拷問の末に命を落としたという。

少年時(shí)代には反戦や「日本憎し」の意識(shí)を持たなかった劉強(qiáng)だが、18歳で日本語を?qū)Wびはじめ、クラスで日本人の友人と知り合うことで、日本人に対する「二分法」、すなわち「軍國主義を憎み、現(xiàn)代の日本人は憎まず」という意識(shí)を今日まで持ち続けることになる。劉は外資系企業(yè)で働き、心理療法を?qū)Wび、四川大地震では現(xiàn)地に出向いて救助活動(dòng)も行った。

東日本大震災(zāi)が発生した半年後には、日本でボランティア活動(dòng)にも參加した。劉は當(dāng)時(shí)、和歌山県內(nèi)の學(xué)校の短期日本語コースに在籍していたが、歴史認(rèn)識(shí)で地元の日本人といさかいを起こし、學(xué)校行事で楽曲を演奏しながら南京大虐殺について語るなどしたため、翌日、學(xué)校から退學(xué)処分を受けた。(翻訳?編集/NY)

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