中國(guó)新聞社 2023年2月13日(月) 21時(shí)30分
拡大
春節(jié)など中國(guó)式の年越しが日本に伝わったのは最近のことでない。寫真は江戸時(shí)代から中國(guó)文化の「受け入れ窓口」だった長(zhǎng)崎市內(nèi)の新地中華街。
日本でも、中國(guó)人にとっての「本當(dāng)の年越し」である春節(jié)(舊正月)がよく知られるようになった。そして「中華式の年越し」の締めくくりとなるのが、舊暦1月15日の「元宵節(jié)(2023年は2月5日)」だ。この日の晩には屋外に飾られたちょうちんがひときわ明るく輝く。しかし春節(jié)から元宵節(jié)にかけての中國(guó)式の行事は、日本にはるか昔に伝わっていた。歴史學(xué)を?qū)煿イ工胛涫i野美術(shù)大學(xué)の廖赤陽(yáng)教授はこのほど、日本における中國(guó)の「年越し文化」の推移を紹介する文章を、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社に寄稿した。以下は廖教授の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
中國(guó)には「三十の火、十五の燈」という言葉がある。舊暦12月30日には爆竹や花火で年越しを盛大に祝い、年越し行事の締めくくりの日の舊暦1月15日、つまり元宵の夜には、飾り付けられた燈火を楽しむということだ。元宵に明かりを飾ることは、もとは仏教に関係しているとされている。仏教では燈明を「無明」、すなわち「真理を悟ることの出來ない無知の狀態(tài)」を打ち破る象徴とするからだ。
元宵の主役になった「燈」は、美しく華やかに作られ飾られることになった。また元宵は、新たな年になって初めての満月の晩でもある。人々は街に繰り出して燈火や月を見て楽しむようになった。こうして元宵は、娯楽性を伴う行事になった。
元宵の晩に燈火を飾る風(fēng)習(xí)は、海外に移った華人も受け継いだ。日本の場(chǎng)合には、江戸時(shí)代にはいわゆる鎖國(guó)政策が実施され、日本人と外國(guó)人の接觸が極めて厳しく制限された。その中で、長(zhǎng)崎は海外に「窓」を開いた重要な街だった。長(zhǎng)崎と言えば「オランダ貿(mào)易」が有名だが、中國(guó)との貿(mào)易も極めて重要だった。
長(zhǎng)崎に住む中國(guó)人は「唐人屋敷」と呼ばれた長(zhǎng)崎の街の一角に住むよう強(qiáng)要されたが、「出島」という島に閉じ込められたオランダ人と比べれば、日本人との「隔離」は緩かったとも言える。當(dāng)時(shí)の日本ではキリスト教が伝わることが極端に警戒されていたが、中國(guó)人はキリスト教徒ではなかったことを理由とする見方もある。當(dāng)時(shí)の日本では儒教が重んじられたので、中國(guó)は「孔孟の國(guó)」として尊敬されていた。
唐人屋敷の中で行われた行事の舞竜燈や女神の媽祖の送迎の行事などは、日本文化に影響を與えた。當(dāng)時(shí)の中國(guó)音楽は「明清楽」と呼ばれ、日本中に広まった?!袱螭螭韦Α工胜嗓群簸肖欷迫毡救珖?guó)で大流行した踴りの起原は「明清楽」の曲だった。多くの日本人が「かんかんのう」で始まる中國(guó)語(yǔ)の歌詞を、意味も分からないまま覚えて歌いながら踴った。もちろん、日本の中で中國(guó)文化の影響を最も強(qiáng)く受けたのは長(zhǎng)崎で、中國(guó)文化はそれ以前からあった地元文化と融合して、新たな文化を形成した。
長(zhǎng)崎には今も唐人屋敷跡があり、隣接して日本三大中華街の一つである新地中華街がある。そして春節(jié)期の元宵までは「ランタンフェスティバル」と呼ばれるにぎやかな催しが開催される。元宵節(jié)の當(dāng)日には中國(guó)式の青竜の舞いが披露される。竜の舞いはその他の行事の日にも披露される。
明治期になると、日本に來た中國(guó)人が居住地を強(qiáng)制されることはなくなった。しかし多くの中國(guó)系住民は、互いに助け合ったり商売の上での利便性を求めて集中して居住した。これが中華街だ。長(zhǎng)崎に加えて、新たに重要な港町になった神戸と橫浜にも規(guī)模の大きな中華街が形成された。
中華街では、春節(jié)の時(shí)期になると店や街路がちょうちんで飾られて、歌や踴りなどのイベントが開催される。中華街にとっての春節(jié)は、飲食、観光とショッピングなどが一體になった観光シーズンになった。最近では新興の名古屋の春節(jié)祭も注目されるようになった。
長(zhǎng)崎の中華街などは、本場(chǎng)の中國(guó)を強(qiáng)調(diào)しているが、いずれの中華街もよく見ると、中國(guó)の要素を主體として、現(xiàn)地の色合いも濃厚であることが分かる。つまり、日本各地の「春節(jié)」の祝いは、中國(guó)と日本の現(xiàn)地の歴史と文化、自然、社會(huì)が結(jié)びついて再構(gòu)成された新しい伝統(tǒng)だ。
戦爭(zhēng)や戦後の日本が1972年まで中華人民共和國(guó)と國(guó)交を持たなかったなどで、中國(guó)大陸から日本に移り住む人の流れは阻害された。日中関係が正常になり、さらに中國(guó)で開放改革が始まると、中國(guó)から日本に渡り住む人が再び増え始めた。それ以前から日本に住んでいた中國(guó)系住民は老華僑、新たにやって來た人は新華僑と呼ばれるようになった。
新華僑は改めて、中國(guó)の祝日の習(xí)慣を日本に持ち込んだ。新華僑のグループは、日本在住の中國(guó)系住民による大規(guī)模な春節(jié)の祝典イベントを開催するようになった。彼らは、東京タワーをチャイニーズ?レッの照明で飾るようになった。江戸時(shí)代初期に中國(guó)からやってきた隠元禪師(1592-1673年)が京都で建立したした黃檗山萬(wàn)福寺で、ランタンフェスティバルを開催するようにもなった。
戦前から続いていた三大中華街では80年になると、「再構(gòu)築」が始まった。中華式のゲートである牌樓などの中國(guó)の雰囲気が濃厚な建物が建てられ、商店も含めて地域ぐるみで「中華色」をさらに強(qiáng)調(diào)するようになった。中華街は観光ブランドとしての価値を向上させた。長(zhǎng)崎のランタンフェスティバルは、現(xiàn)地の三大祭りの一つに數(shù)えられるに至った。
日本で暮らす中國(guó)系住民はすで100萬(wàn)人超えた。しかし彼らの心には、長(zhǎng)い歴史を通じて故郷で営まれてきた祝日の記憶がしっかりと刻まれている。彼らが共に祝賀することは、同郷者としての心の絆をつなぎ、出身地との関係を維持する方式だ。そして彼らは、祝日の風(fēng)習(xí)を通じて次の世代に中國(guó)の伝統(tǒng)文化を?qū)Wぶ機(jī)會(huì)を提供している。(構(gòu)成/如月隼人)
この記事のコメントを見る
人民網(wǎng)日本語(yǔ)版
2023/2/8
anomado
2023/2/7
中國(guó)新聞社
2023/2/5
2023/2/3
Record China
2023/2/2
2023/2/1
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る