長(zhǎng)田浩一 2023年3月5日(日) 7時(shí)0分
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1990年10月3日の東西ドイツの統(tǒng)一から今年で33年。寫真は保存されたベルリンの壁、ベルナウアー通り。
1990年10月3日の東西ドイツの統(tǒng)一から今年で33年。昨年末に第22回大佛次郎論壇賞の受賞が決まった板橋拓己著『分?jǐn)啶慰朔?989-1990――統(tǒng)一をめぐる西ドイツ外交の挑戦』は、ゲンシャー西ドイツ外相を中心に関係各國の対応を緊迫感あふれる筆致で活寫するとともに、統(tǒng)合はあのやり方で良かったのかという疑問を投げかける。そして、われわれ日本人は、もし日本がドイツのように分?jǐn)啶丹欷皮い郡椁嗓Δ胜盲皮い郡韦坤恧Δ趣いs史のイフに改めて向き合わざるを得ない(肩書はいずれも當(dāng)時(shí))。
私事で恐縮だが、1990年前後に通信社の特派員として歐州に駐在していた私にとって、東西ドイツの統(tǒng)一は忘れられない出來事だ。経済記者だった私は、統(tǒng)合取材の主擔(dān)當(dāng)ではなかったが、節(jié)目節(jié)目でベルリンに赴き、イベントの様子を記事にしたり市民の聲を聴いたりした。第二次世界大戦の結(jié)果、東西に分?jǐn)啶丹欷皮い慷膜螄?、戦?5年を経て平和的に統(tǒng)一されるという歴史上稀有な出來事を現(xiàn)場(chǎng)で取材できたのは、一生の寶物だ。
中でも印象に殘るのが、東ドイツ最後の日となった90年10月2日、東ベルリンで統(tǒng)一前夜祭として行われたベートーベンの第九交響曲「合唱」の演奏(ライプチヒ?ゲヴァントハウス管弦楽団、クルト?マズア指揮)を鑑賞できたことだ。コンサートホールにはコール西獨(dú)、デメジエール東獨(dú)の両首相はじめ要人が多數(shù)出席し、東ドイツで最後となる第九の演奏に聞き入った。數(shù)少ない報(bào)道関係者席の一つが運(yùn)よく割り當(dāng)てられたため、私は會(huì)場(chǎng)に入ることができたが、見渡したところ出席者はほぼすべてドイツ人か、歐米の外交官など。日本人でこの歴史的な演奏を聴いたのは私だけだったかもしれない…というのがひそかな自慢だった。
ところが、「分?jǐn)啶慰朔工蛘iんで、そんな甘い郷愁は吹き飛んでしまった。私は、前述のようにこの事案の主擔(dān)當(dāng)ではなく、表面的な取材しかしていなかったので、「ドイツ統(tǒng)一は、多少の紆余曲折はあったものの、全體としては比較的順調(diào)に進(jìn)んだ。ベルリンの壁崩壊(89年11月9日)からわずか1年足らずで実現(xiàn)したのはその表れ」と認(rèn)識(shí)していた。しかし同書は、20世紀(jì)に2回にわたり大戦爭(zhēng)を引き起こしたドイツの統(tǒng)一が誰からも歓迎されていたわけではなく、実現(xiàn)までには熾烈な外交戦が展開されていた事実を突きつける。
中でも驚かされるのが、英國のサッチャー首相、フランスのミッテラン大統(tǒng)領(lǐng)のドイツ統(tǒng)一への否定的な姿勢(shì)だ。ヒトラー時(shí)代を生々しく記憶している彼らにとって、歐州の真ん中に人口8000萬人の大ドイツが再興することは容易には認(rèn)められなかったのだろう。両國はこの時(shí)點(diǎn)でも、戦勝國として米ソと共にベルリンを分割管理していたので影響力は無視できない。特にサッチャーは強(qiáng)硬で、89年12月のミッテランとの會(huì)談では、「(統(tǒng)一を急ぐ)コールは、ドイツの分?jǐn)啶稀ⅴ丧ぅ膜激幛繎闋?zhēng)の結(jié)果だということを忘れている」と言い放った。
同書では、ゲンシャーら西ドイツの外務(wù)省が中心となって、統(tǒng)一を熱望する東西ドイツの世論や、米國の支持などを背景に、英仏両國に統(tǒng)一を認(rèn)めざるを得ない狀況を作っていく様子が描かれる。サッチャーは最後まで反対していたが、ハード英外相に、もはや流れは止められない、統(tǒng)一プロセスに関與する方が英國の利益になると説得されたという。
とはいえ、西ドイツ政府にとって英仏以上に重要かつ難問だったのが、ソ連の理解を得ることだったのは言うまでもない。同書はゲンシャーが、ドイツの統(tǒng)一は歐州全體の分?jǐn)啶蚪庀工胫肖菍g現(xiàn)させたいとして、「西側(cè)の勝利、東側(cè)の敗北」ではなく「東西の和解」の形で決著させようと努力する姿を描き出す。具體的には、西側(cè)の北大西洋條約機(jī)構(gòu)(NATO)と東側(cè)のワルシャワ條約機(jī)構(gòu)をそれぞれ軍事同盟から政治同盟に転換し、両者が協(xié)調(diào)して歐州全體の統(tǒng)合を目指すという遠(yuǎn)大な構(gòu)想だ。そんなゲンシャーを、ソ連のゴルバチョフ大統(tǒng)領(lǐng)、シェワルナゼ外相も信頼するようになる。
しかし最終的には、米國の意向もあって歐州全體の分?jǐn)嘟庀厢峋挨送摔?、ドイツ統(tǒng)一だけが実現(xiàn)する。それも西が東を吸収するという、ソ連にとっては屈辱的な形で。そして91年暮れのソ連崩壊後、かつてワルシャワ條約機(jī)構(gòu)に加盟していた東歐諸國や、ソ連を構(gòu)成していたバルト三國などが相次いでNATOに加盟したのは周知のとおりだ。
東西ドイツの統(tǒng)一が、ゲンシャー構(gòu)想のような「和解型」で実現(xiàn)していたら世界はどう変わっていたか。板橋氏は同書の中では明言を避けているが、12月21日付朝日新聞で次のように語っている?!笜?gòu)想が完全に実現(xiàn)する可能性は低かったでしょう。ただ、実現(xiàn)していれば(ロシアのウクライナへの)侵攻はなかっただろうと思います」。33年前の東西ドイツ統(tǒng)一は、現(xiàn)時(shí)點(diǎn)における世界最大の懸案にもつながっているのだ。
さて、こんな本を読むと、どうしても日本と引き比べて考えざるを得ない。
日本も第二次大戦の敗戦國だが、幸いにもドイツのような分?jǐn)啶媳埭堡毪长趣扦俊¥筏?945年8月16日、すなわち昭和天皇がポツダム宣言受諾による降伏を表明した翌日、ソ連の獨(dú)裁者スターリンがトルーマン米大統(tǒng)領(lǐng)に北海道北部の占領(lǐng)を要求する書簡(jiǎn)を送ったのはよく知られている。トルーマンは2日後に要求を拒否する返信を送り、スターリンも同22日に北海道上陸作戦の中止を指示した。ところが昨年8月16日付読売新聞によると、ソ連軍部は中止命令後も、北海道全島や対馬を占領(lǐng)する計(jì)畫を立てていたとする資料が見つかったという。
それだけではない。半藤一利氏の著作などによると、米國軍部にも、終戦後に米國、英國、中國、ソ連で日本を共同統(tǒng)治する計(jì)畫があったという。日本の降伏が早かったため日の目を見なかったが、計(jì)畫では、北海道と東北地方はソ連軍の管理下に入るはずだった。もしこれが実現(xiàn)していたら、北日本には間違いなく「日本社會(huì)主義人民共和國」的な國家が成立していただろう。
日本がポツダム宣言受諾を最終的に決めた8月14日から15日未明にかけて、陸軍の一部が降伏を阻止するためクーデターを企てた事実は半藤氏の「日本のいちばん長(zhǎng)い日」などに詳しい。もしクーデターが成功して「聖戦貫徹」を唯一の旗印に掲げた軍部獨(dú)裁政権が誕生していたら…。日本はさらに數(shù)カ月かそれ以上、ドイツと同じように首都が陥落するまで戦いを続け、その上で分?jǐn)啶丹欷皮い郡猡筏欷胜?。そして、現(xiàn)在も冷戦構(gòu)造を引きずっているアジアの現(xiàn)狀を見る限り、ドイツのように戦後45年で分?jǐn)啶庀扦郡趣峡激à摔?。改めて、あのタイミングで戦?zhēng)が終結(jié)した幸運(yùn)に感謝するばかりだ。
■筆者プロフィール:長(zhǎng)田浩一
1979年時(shí)事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長(zhǎng)などを歴任?,F(xiàn)在は文章を寄稿したり、地元自治體の市民大學(xué)で講師を務(wù)めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中國との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外國の地は北京空港でした。
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