長(zhǎng)田浩一 2023年3月21日(火) 13時(shí)50分
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ロシア軍のウクライナ侵攻開(kāi)始から1年が経過(guò)したが、終わりが見(jiàn)えない狀況が続いている。
ロシア軍のウクライナ侵攻開(kāi)始から1年が経過(guò)したが、終わりが見(jiàn)えない狀況が続いている。3月18日には、國(guó)際刑事裁判所が、ロシア軍がウクライナの占領(lǐng)地から違法に子供を連れ去ったとして、ロシアのプーチン大統(tǒng)領(lǐng)らに逮捕狀を出したと発表した。私が戦況と共に気になるのが、ロシアが強(qiáng)制連行したとされるウクライナ人の行方。なぜなら、第二次世界大戦終了後、ソ連軍によりシベリアで強(qiáng)制労働に従事させられた父の運(yùn)命とオーバーラップしてしまうからだ。
昨年7月、ブリンケン米國(guó)務(wù)長(zhǎng)官は、ロシアが子供26萬(wàn)人を含むウクライナ人90萬(wàn)~160萬(wàn)人を、支配地域などに強(qiáng)制連行したとする推計(jì)を発表した。ウクライナ人數(shù)十萬(wàn)人が樺太などロシアの僻地に送られているとの報(bào)道もあった。あまりに人數(shù)が多いのでにわかには信じがたい気もするが、事実とすれば大変な戦爭(zhēng)犯罪だ。
侵攻1周年に合わせて國(guó)連総會(huì)が採(cǎi)択したロシアに撤退を求める決議にも、強(qiáng)制的に連行された子供を含む民間人の帰還を求める項(xiàng)目が盛り込まれた。人數(shù)はともかく、ウクライナの人たちが同國(guó)內(nèi)のロシアの支配地ないしロシア國(guó)內(nèi)に移送され、拘束されていることは間違いなさそうだ。いま、彼らはどこで、何をしているのだろうか。
この報(bào)道に接し、舊ソ連による日本軍將兵のシベリア抑留を思い起こす人もいるだろう。2011年に88歳で亡くなった父、靜夫も、1945年から4年間抑留されており、私にはウクライナ人強(qiáng)制連行は他人事とは思えない。
私事で恐縮だが、父の軍隊(duì)時(shí)代の経歴や抑留中の狀況について、私はほとんど知らなかった。生前、父は當(dāng)時(shí)の出來(lái)事を話したがらなかったし、私も若い頃は自分のことに手いっぱいで、父の人生に関心を持つ余裕はなかった。近年、ようやくそれらについて知りたいと思うようになったが、「親孝行、したいときには親はなし」ではないが、もはや本人から聞くことは葉わない。
ところが昨年夏、あるラジオ番組で、父親など親族の軍隊(duì)時(shí)代の経歴に関する資料を送ってくれるサービスを厚生労働省が行っていることを知った。早速、戸籍謄本などの必要書(shū)類を整えて申請(qǐng)したところ、約3カ月後に分厚い封書(shū)が屆いた。父の入隊(duì)から復(fù)員までの原資料をコピーしたものだった。
私はその資料で、父が1944年に召集されて満洲の第125師団の砲兵部隊(duì)に配屬されたこと、終戦時(shí)の階級(jí)は伍長(zhǎng)で、45年8月20日にハルビン周辺でソ連軍の捕虜となり、ハバロフスク近くの収容所に移送されたこと、49年8月24日に舞鶴港に到著した大郁丸という船で復(fù)員したことなどを初めて知った。
送られた資料の中に、私が予想もしていなかった文書(shū)があった。ソ連內(nèi)務(wù)省が作成した「登録簿」。モスクワのロシア國(guó)立軍事古文書(shū)館に保管されており、1993年以降、順次日本に寫(xiě)しが送られてきたのだという。父の登録簿には、氏名や年齢、所屬部隊(duì)名はもちろん、出身地や家族構(gòu)成、信仰する宗教、職歴、実家の社會(huì)的階層と資産狀況に至る40項(xiàng)目の個(gè)人情報(bào)が記載されていた。將校ならともかく、一介の伍長(zhǎng)に過(guò)ぎなかった父について、ソ連當(dāng)局がこんな詳細(xì)な記録を殘していた事実は衝撃的だった(登録簿の原本はロシア語(yǔ)だが、主要部分について厚労省が仮訳をつけてくれている)。
登録簿がどのような性格のものなのか調(diào)べたところ、富田武著「シベリア抑留 スターリン獨(dú)裁下、『収容所群島』の実像」に、次のような説明を見(jiàn)つけた。「ソ連軍は捕虜を獲得するとどの國(guó)に所屬しようとも、収容所入所時(shí)に40項(xiàng)目からなる質(zhì)問(wèn)に回答させて、捕虜管理の基礎(chǔ)資料とした」。また、一兵卒だった村山常雄さんという方は、著書(shū)の中で「聞き取り調(diào)査を受けた記憶はうすうすあるが、こんな詳細(xì)な記録として保存されていたとは信じられない」と驚きつつ自身の登録簿を公開(kāi)している。
日獨(dú)や米英など他國(guó)の軍隊(duì)も、捕虜の個(gè)人情報(bào)を記録したケースはあっただろう。しかし、將校はもとより父のような下士官、村山さんのような一兵卒まですべての捕虜の情報(bào)を収集していたというソ連の徹底ぶりには、ある意味脫帽せざるを得ない。
それにしても…である。通訳を介して40項(xiàng)目の個(gè)人情報(bào)を聞き取るには、最低でも1時(shí)間はかかるだろう。シベリアに抑留された日本軍將兵は、厚労省調(diào)べで約57萬(wàn)5000人。ドイツ軍などを合わせると、第二次大戦終結(jié)時(shí)にソ連軍の捕虜となった樞軸軍兵士の総數(shù)は300萬(wàn)人を超える。この大半について登録簿を作成したとしたら、気の遠(yuǎn)くなるような手間と労力が必要だ。先の富田氏の著書(shū)では「捕虜管理の基礎(chǔ)資料」と位置づけられていたが、本當(dāng)にそれだけのためだったのだろうか。
私は、スパイをリクルートするための一次資料でもあったのではないかと思う。ソ連當(dāng)局が日本人抑留者に対し、共産主義の思想教育を行っていたことは周知の事実。1954年には、米國(guó)に亡命したソ連外交官が、日本人抑留者約500人が、帰國(guó)後にソ連のエージェントになると誓約したという事実を暴露し、大騒ぎになった(ラストボロフ事件)。
また、元警察官僚の佐々淳行氏は、著書(shū)「私を通りすぎたスパイたち」で、抑留経験のある大物財(cái)界人を、ソ連の協(xié)力者であり、1987年の東芝機(jī)械事件(潛水艦のスクリュー音を消すことのできる工作機(jī)械を不正に輸出した事件)の黒幕だったと実名で斷定した。
ソ連の抑留者に対する思想教育と協(xié)力者づくりは、一定の成果を上げていたのだろう。そして、協(xié)力者の候補(bǔ)を見(jiàn)つける上で、登録簿の個(gè)人情報(bào)を活用していたのではないだろうか。父の登録簿の表紙には「極秘」の文字があった。最初は「親父の個(gè)人情報(bào)に大げさな」と笑ってしまったが、スパイ探しが目的であれば「極秘」も納得できる。
第二次世界大戦は、人類史上最大最悪の戦爭(zhēng)だった。戦死者の數(shù)は過(guò)去最大で、ホロコーストや市民への無(wú)差別爆撃といった新たな悲劇も生まれた。捕虜の虐待事案も數(shù)多く発生し、日本はフィリピンやビルマなどで加害者となり、シベリアでは被害者となった。國(guó)際社會(huì)は、2度とこうした慘劇を繰り返さないと誓ったはずだった。
しかし、現(xiàn)在ウクライナで続いているのは80年前に戻ったかのような大國(guó)による違法な侵略であり、シベリア抑留と同様の強(qiáng)制連行も行われている。人類は結(jié)局、第二次世界大戦から何も學(xué)んでいなかったのか。
ロシアに移送されたとされるウクライナの人たちの運(yùn)命は、よく分からない。シベリアに抑留された日本人のように強(qiáng)制労働を強(qiáng)いられているのか。個(gè)人情報(bào)を聞き取られているのか。思想教育―この場(chǎng)合は「ウクライナはロシアに従屬する存在」という思想―を受けているのか。今はただ、彼らが早期に故郷に帰還できるよう祈るばかりだ。
■筆者プロフィール:長(zhǎng)田浩一
1979年時(shí)事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長(zhǎng)などを歴任?,F(xiàn)在は文章を寄稿したり、地元自治體の市民大學(xué)で講師を務(wù)めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中國(guó)との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外國(guó)の地は北京空港でした。
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