人生90年の足跡―體験で語る日本と中國―(9)改革開放政策で中國社會科學院に転勤

凌星光    2023年5月20日(土) 16時0分

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コラム「人生90年の足跡―體験で語る日本と中國―」第9回は「改革開放政策で中國社會科學院に転勤」。

9.改革開放政策で中國社會科學院に転勤

1978年に第11期三中全會が開催され、改革開放政策がとられるようになりました。その前年に、中國科學院では哲學社會學部が獨立して、中國社會科學院が発足しました。全國から研究者が集められ、私は1978年秋に中國社會科學院世界経済研究所に転勤し、先進國経済研究室日本経済組組長となりました。メンバーはみな私より年長でした。私にとって大いに活躍できる時代がやってきました。日本経済の研究ばかりでなく、日中間の経済學術交流にも攜わりました。

中國社會科學院には外事局があり、アジアアフリカ処の処長は、日本の経済代表団の受け入れについてよく私の意見を求めました。日本國際貿(mào)易促進會、日中経済協(xié)會、経済同友會、日本政府の経済機関JETRO、日本輸出入銀行、海外経済協(xié)力基金との交流などです。日中経済知識交流會、公明黨をバックとした日中友好學術交流協(xié)議會(日中協(xié))との交流などには持続的に參加し、通訳を兼ねて、橋渡しの役割を果たしました。

1981年には、アジア経済研究所で客員研究員として8カ月間お世話になりました。これは私にとって非常に有益でありました。當時は日中友好一點張りで、日本の右寄りの動きには目をつぶっている狀態(tài)でした。そこで、読売新聞に小論を投稿し、一石を投じました。それが契機となって教科書問題がクローズアップされました。中國の論調(diào)があまりにも厳しくなったので、ほどほどにすべきだと、今度はブレーキ役を果たしました。

中國の対日論調(diào)は一方に偏り過ぎることがよくあり、私はバランスに注意するよう、常に働きかけてきました。

■筆者プロフィール:凌星光

1933年生まれ、福井県立大學名譽教授。1952年一橋大學経済學部、1953年上海財経學院(現(xiàn)大學)國民経済計畫學部、1971年河北大學外國語學部教師、1978年中國社會科學院世界経済政治研究所、1990年金沢大學経済學部、1992年福井県立大學経済學部教授などを歴任。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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