凌星光 2023年5月27日(土) 16時0分
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コラム「人生90年の足跡―體験で語る日本と中國―」第10回は「ブルジョア自由化反対と精神汚染反対」。
10.ブルジョア自由化反対と精神汚染反対
1980年代は日中友好の黃金時代であり、私にとっても黃金時代でした。表舞臺では腳光を浴びる活動を展開しました。しかし、その裏では、自己防衛(wèi)の闘爭を迫られました。ブルジョア自由化の典型として私への批判が展開されたのです。私はそれに対し、真っ向から反批判し、抵抗したのです。
事の始まりは、朝日新聞社主催の講演會に、中國社會科學(xué)院の秘書長と共に招待され、私が中國の改革開放政策について、戦後の日本と比較しながら説明したのです。話した內(nèi)容が大好評を得て、「朝日ジャーナル」に掲載されました。その講演內(nèi)容が、日本資本主義を美化し、米帝國主義の戦後日本支配を美化していると訴えられたのです。軍人上がりの新書記は実績を上げるため、私の掲載文章をブルジョア自由化の典型に仕立て上げようとしたのです。
學(xué)術(shù)問題に手を出すなと私が抵抗すると、彼はさらに政治圧力をかけてきました。研究者たちを動員して私を批判するために、私には日本と通じているスパイ嫌疑があるとまで吹聴しました。その根拠は、私が問題のある朝日新聞の某記者と接していたからだというのです。文革時代とは違い、多くの同僚や幹部が私に同情し、支援してくれました。最後に、副院長の宦郷氏の知るところとなり「問題ない、批判は即時停止せよ」の命が下り、治まりました。
その後、精神汚染反対運(yùn)動が起こり、かの書記はまたもや私の「問題」を持ち出そうとしましたが、不発に終わりました。胡耀邦総書記がブルジョア自由化反対にも精神汚染反対にも消極的だったからです。というわけで、私の「問題」は一応解決した、勝利したように見えました。しかし、事態(tài)はそう簡単ではありませんでした。胡耀邦失腳とともに、私に対するブルジョア自由化の汚名は清算されにくくなったのです。
私はマルクス主義堅持の面で問題があるという雰囲気が漂い、副研究員から研究員に昇進(jìn)する道はふさがれました。ですが、私が現(xiàn)在研究員と名乗っているのは、世界経済政治研究所の所長と書記から「ぜひ研究員の肩書を用いて世界政治経済研究所のPRをしてほしい」と依頼されたからです。
なお、誤った政治的雰囲気で批判されても、私は周囲から常に評価されており、模範(fàn)共産黨員を選ぶとなると私の名前が挙がり、1988年に「優(yōu)秀黨員」に選ばれました。
■筆者プロフィール:凌星光
1933年生まれ、福井県立大學(xué)名譽(yù)教授。1952年一橋大學(xué)経済學(xué)部、1953年上海財経學(xué)院(現(xiàn)大學(xué))國民経済計畫學(xué)部、1971年河北大學(xué)外國語學(xué)部教師、1978年中國社會科學(xué)院世界経済政治研究所、1990年金沢大學(xué)経済學(xué)部、1992年福井県立大學(xué)経済學(xué)部教授などを歴任。
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