東南アジアは中國伝統(tǒng)醫(yī)學の影響受け、中國は東南アジアの影響受けた―専門家が紹介

中國新聞社    2023年4月7日(金) 23時0分

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日本は「醫(yī)」と言えば中國由來で「漢方」などと呼ばれるようになった醫(yī)學を指した。東南アジアでも歴史上、同様の狀況が出現(xiàn)した。また、中國の伝統(tǒng)醫(yī)學も東南アジアから恩恵を受けた。

日本では中國の伝統(tǒng)醫(yī)學に由來する醫(yī)學體系が「漢方」と呼ばれる。実は「漢方」という言葉は、比較的新しく出現(xiàn)した。江戸時代に日本にオランダ流の西洋醫(yī)學が伝わると、オランダ醫(yī)學を指す「蘭方」という言葉が登場した。後になり、西洋醫(yī)學と區(qū)別するために改めて「漢方」という言葉が発生したという順番だ。西洋醫(yī)學が伝わる前の日本の「醫(yī)の體系」はすべて中國醫(yī)學に由來したので「漢方」といった言葉は必要なかったわけだ。また、「日本の漢方」は“本家”中國の伝統(tǒng)醫(yī)學と全く同じではない。まず、日本で入手しやすい生薬などを多用するようになった。中國では人の體の本來のあり方や現(xiàn)狀を分析したり、薬材の性格分類などの理論面を極めて重視するのに対して、日本の「漢方」は、「この癥狀にはこの処方が有効」という現(xiàn)象面に注目する傾向があるという。

中國醫(yī)學は東南アジア諸地域でも受け入れられた。東南アジアでの狀況はどのようなものだったのか。中國華僑歴史博物館の寧一副館長は、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、そのあたりを説き明かした。以下は寧副館長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

中國醫(yī)學を最も早く受け入れたのはベトナム中北部

東南アジアで中國醫(yī)學の影響を最も早く受けたのは、ベトナムの北部から中部にかけての地域だ。ベトナムの歴史書によると、崔偉という中國から來た醫(yī)師が、紀元前257年にはベトナムで病気治療をしていた。秦朝(紀元前221年-同206年)と漢朝(紀元前202年-紀元220年)は勢力を南に伸ばし、現(xiàn)在のベトナム北部に郡を設(shè)けた。そのため中國醫(yī)學の影響が一層強まった。

ベトナムを含む東南アジアで、中國醫(yī)學はまず王侯貴族などに受け入れられた。その後、中國からの移民が東南アジアに定住するようになると、改めて中國醫(yī)學が持ち込まれた。その結(jié)果、さまざまな階層の現(xiàn)地人が、中國醫(yī)學を歓迎するようになった。

ベトナムでは、中國から伝わった醫(yī)學體系を「北の醫(yī)術(shù)」、現(xiàn)地にそれ以前からあった醫(yī)學を「南の醫(yī)術(shù)」と呼ぶようになった。「北の醫(yī)術(shù)」と言っても、中國本土の醫(yī)學と全く同じではなく、自然條件や多発する病気などの治療により適するように、中國醫(yī)學は現(xiàn)地化していった。

名醫(yī)として名を殘すベトナム人醫(yī)師の黎有晫(レ?ヒウ?チャ、1720-1791年)は「新鐫海上醫(yī)宗心領(lǐng)全帙」という著作で、中國醫(yī)學の理論體系とベトナムにおける醫(yī)療の実際を融合させた。この書物は內(nèi)容が多岐にわたっており、その後のベトナムの醫(yī)學に大きな影響を與えた。

中國醫(yī)學も東南アジアからの影響を受けた

中國醫(yī)學の東南アジアとの交流に大きな影響を與えた政治の出來事と言えば、鄭和(1371-1434年)の大航海もある。鄭和の艦隊には醫(yī)官も乗り組んでいた。醫(yī)官には、到著した土地での生薬の調(diào)査や鑑定、採取、購入などの任務(wù)が課せられていた。逆に、醫(yī)官は現(xiàn)地に持ち込んだ中國の薬用植物の種子を持ち込んだので、條件が合致する薬用植物は現(xiàn)地で栽培されるようになった。また、病気の治療や醫(yī)學知識を改めて教えた。

インドネシアのバタビア(現(xiàn)、ジャカルタ)の華僑の歴史を記した「開吧歴代史紀」によれば、現(xiàn)地のオランダ人総督のエクロフ?ファン?ゴーンスは1681年に病気のために退任して帰國した。その際には華僑醫(yī)師の周美爺がゴーンスに付き添った。周美爺は翌年にインドネシアに戻った。その後は、現(xiàn)地の高級官僚が病気になると、周美爺に治療を求めた。周美爺は「バタビア一の神醫(yī)」と呼ばれるようになった。

東南アジアは動植物資源が豊富で、中國では珍しい鉱物も産出する。そのため、東南アジアから多くの動植物、あるいは鉱物由來の薬材が中國にもたらされた。また、道教の道士や中國人の僧侶が中國と東南アジアを行き來するようになった。彼らは薬材資源について新たな認識を得、また交流を促進する役割りを果たした。

唐代(618-907年)中期以降は、海のシルクロードが中國と外國を結(jié)ぶ重要なルートになっていった。このことで、中國と東南アジアの交易はますます盛んになった。香料や中國醫(yī)學で用いられる薬材は、東南アジアから中國への重要な輸出品になった。

東南アジアで「醫(yī)食同源」の影響を受けた料理が登場

明末から清初にかけて(おおむね14世紀)、東南アジアではかなり大規(guī)模な華僑社會が形成されていった。その結(jié)果、中國醫(yī)學が東南アジア各地にさらに浸透した。

また、19世紀中葉以降には、中國南東部沿岸部の人々が「契約労働者」として東南アジアに大量に渡った。彼らは重労働や東南アジアの高溫高濕な風土などに直面した。そのため、中國醫(yī)學による醫(yī)療に対する需要が急増した。その結(jié)果、中國から多くの醫(yī)師が東南アジアに赴いて治療に當たることになった。

東南アジアの華僑は互いに助け合った。中國醫(yī)學による病院や慈善組織、薬局、薬剤工房が作られた。高齢になり貧困と病気に苦しむ華僑のための公益事業(yè)が、現(xiàn)地の華僑の手によって進められた。

慈善事業(yè)としての醫(yī)療の多くは、中國系の宗教施設(shè)で提供された。中國醫(yī)學に攜わる醫(yī)師には定期的に出向いて診療にあたる義務(wù)が課せられた。つまり宗教施設(shè)は人々にとっての心のよりどころであるだけでなく、醫(yī)療を求める場所にもなった。そして、華僑ではない一般住民も、このような場所で醫(yī)療の恩恵にあずかることになった。

海上交通の要所だったマレーシアでは、マレー語に中國醫(yī)學に由來する言葉が取り込まれた。例えばジンセン(高麗人參)、コヤック(膏薬)、ボンメフ(摸脈=脈をとる)などだ。

中國醫(yī)學とは、病人を治療するだけではない。日常生活を通じて病気などになりにくい體質(zhì)を作ることを重視する。いわゆる「醫(yī)食同源」もその一環(huán)だ。東南アジアに渡った華僑もこの考えを守った。そのため、現(xiàn)地の食材や食の好みなどを反映して、しかも「醫(yī)食同源」の考えを取り入れた獨特の飲食物が登場した。マレーシアのスープ料理のバクテー(肉骨茶)や、ベトナムで盛んに飲まれるハス茶がそうだ。

マレーシアではニョニャ料理というものも出現(xiàn)した。ニョニャは漢字で書けば「娘惹」だ。この言葉は、まずは中國から渡って來た女性を指し、次に華僑男性とマレーシア人女性の間に生まれた女性を指すようになった。ニョニャ料理はマレー料理と中國料理の融合だ。そのことで、やはり「醫(yī)食同源」の影響を受けている。

東南アジアでも、近代以降は西洋醫(yī)學の影響力が極めて強くなった。しかし現(xiàn)在でも中國醫(yī)學は強い影響力を持っている。ベトナム、シンガポール、フィリピンなどでは、國家の承認を得ている「漢方薬」がある。ベトナム、フィリピン、タイでは中國伝統(tǒng)醫(yī)學の地位が承認されている。中國と東南アジア諸國の醫(yī)學界の交流も盛んになっている。

多くの中國人が海外に移住した歴史は、中國伝統(tǒng)醫(yī)學の海外での発展の歴史でもある。中國醫(yī)學界は今も中國と世界各國との交流を推進している。これは、東西の文明が互いに參照し合う重要な動きだ。外國の人々に中國醫(yī)學を認めてもらい、受け入れてもらえれば、中國醫(yī)學の発展の余地がそれだけ拡大することになる。現(xiàn)代的な論理を用いて中國醫(yī)學がもつ文化上の理念を説明し、外國の人々に中國醫(yī)薬の背後にある中國の伝統(tǒng)的な哲學思想と価値観をしっかりと説明することも必要だ。そうすれば、より多くの海外の人々に中國醫(yī)學を理解し、受け入れてもらうことができるだろう。(構(gòu)成 / 如月隼人

※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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