日本僑報(bào)社 2023年5月28日(日) 12時(shí)0分
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保育園から帰ってリビングに寢そべっていた私に衝撃の事実が襲った。
「え、ママって中國人だったの?」
保育園から帰ってリビングに寢そべっていた私に衝撃の事実が襲った。確かに母には日中、二つの呼び名があったし、祖母との會話は日本語ではなかった。だが私にはその環(huán)境は當(dāng)たり前過ぎて、疑問にすら思わなかった。
最初は母が中國人という事がどこか誇らしく、「私のママは中國人なんだ!」と友達(dá)に自慢して回った。大概、皆「凄いね!」と言ってくれた。それが一転、小學(xué)校に上がる頃には「お前は中國人だから入っちゃダメー」などと、一線を引く様な仕打ちを度々受ける様になった。ただの冗談で、一過性の物だったかもしれないが、當(dāng)時(shí)の私が落ち込むには十分だった。
また、「中國語喋ってみて」ともよく言われた。中國語が喋れなかった私は何も答えられず、気まずい空気になるのが常だった。やがて、「なーんだ」と友達(dá)は踵を返す。期待に応えられないのが悲しくて、私は次第に母が中國人と言う事を隠す様になった。その時(shí)から私は「中國」に対してコンプレックスを抱き始めたと思う。
母は大家族の中で育ち、中國には沢山の親戚がいる。家族で中國に帰省する度、親戚が増えている様な気さえした。中國にはいじめっ子もおらず、自身の出生を隠す必要もない。そこは私にとってコンプレックスを刺激されない安全地帯のはずが、あまり良い印象を抱けずにいた。何時(shí)も大勢の親戚に囲まれ、常に賑わいの中に居たが、中國語が分からない私は、自分の事を話されている時(shí)は悪口を言われている様に感じた。その上、怒聲にも似た大聲での會話が喧嘩している様でとても怖かった。食事の際は、もっと食べてと周囲から常に煽られるのにも気が滅入った。満腹だと必死に伝えても次の一口が無理矢理鼻先まで運(yùn)ばれてくる。
また、世話を焼いてくれた親戚に、たどたどしく「謝謝」と謝意を伝えた際、眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をされた時(shí)には、かなりショックを受けた。「ありがとう」さえ伝わらないなんて。私は歓迎されてないのかと泣きそうになる時(shí)もあった。母は久々の親族との交流に夢中で、大好きな母を取られた様な寂しさもマイナス思考に拍車をかけていたと思う。
そんな思いが募りに募って、溢れ出た。中國滯在中のある晩、父に「みんな何言ってるか分かんないし、怒鳴ってて怖いし、もう日本に帰りたい」とつい今までの不安を零してしまった。すると父は一瞬、驚いた様な顔をして、ゆっくりと話した。
「確かにみんな大きな聲だから驚くよね、でもあれは怒っている訳では無いんだよ、そういう習(xí)慣なの。それにね、みんな凄く溫かい人達(dá)なんだよ、快く食事や、楽しめる所に連れて行ってくれる事が何よりの証拠でしょ。パパはこんなに親戚みんなが毎回歓迎してくれる経験ないよ」
日本人の父は、私と同様に中國語が話せなかった。中國にいる間、置かれている狀況も私に一番似ていた。日本語が通じる數(shù)少ない味方で、同志だと思っていた父が、自分とは全く異なる価値観で同じ時(shí)間を過ごしていた事に驚いた。それから寢そべりながら夜中まで、父との會話は続いた。父の聲を聴きながら、父の視點(diǎn)で周囲を見直してみる。すると、今までとは違う「中國」が私の中に流れ込んできた。
自身を話題にされていても、気にならなくなった。人との交流は言葉だけではない。話し手の優(yōu)しい目や楽しげな表情を、注視できる様になって気づいた。そもそも悪口を言う様な人がいない事も。中國人同士の會話が怒聲に聞こえるのは、喧嘩腰なのではなく、自己表現(xiàn)の一つという事も理解できる様になった。日本人の様に、沈黙は金だとか、奧ゆかしさ、等の美學(xué)とは遠(yuǎn)い所に中國流コミュニケーションは存在するのかもしれない。自分の気持ちをはっきり伝える姿勢、熱量の違いを肌で感じた。
食べ物を延々と勧めてくるのも同じ原理だ。言わば「もてなしたい」「楽しんでほしい」等の気持ちの究極の體現(xiàn)だったのだ。私が発した「謝謝」に向けられた怪訝な顔は、拒絶ではなく、面映ゆさから來るものだった。中國の価値観では親しい人を助けるのは當(dāng)然の事で、私がお禮を言うのは水臭いという意味だった?!杆竭_(dá)は親戚なのだから、これ位するのは當(dāng)たり前なのに何でお禮を言うの?」と後々解説をされ、胸を打たれた。日本では「ありがとう」や「ごめんなさい」が日常に溢れ返っているが、中國では違うらしい。それを知ると、日本の上辺だけの謝意や謝罪が恥ずかしくさえ思えてきた。
私の中にあったコンプレックスやレッテルという冷たい塊達(dá)が、中國人の人柄の溫かさに觸れて、次々に氷解していく。私にもそんな優(yōu)しい血が流れているのが嬉しく、誇らしく、中國が大好きになった。
そんな誇りを胸に、現(xiàn)在私は中國の高校に留學(xué)している。近年の新型感染癥の発生により渡航はまだ出來ていないが、私は中國で過ごす未來が楽しみでしょうがない。そして、今なら躊躇わずに言える?!杆饯文袱现袊摔胜螭坤琛工?。
■原題:寢転んで見えた世界
■執(zhí)筆者プロフィール:飯塚 有希(いいづか ゆき)高校生
2004年千葉県生まれ、千葉県育ち。母は中國人、父は日本人。中學(xué)までを日本で過ごし、高校はアメリカのMaine Central Institute に進(jìn)學(xué)。2年生から上海外國語大學(xué)付屬高校に転校。コロナの影響により中國渡航が葉わず、現(xiàn)在は日本にてオンライン授業(yè)を受講中。
※本文は、第5回忘れられない中國滯在エピソード「驚きの連続だった中國滯在」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2022年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。
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