中國新聞社 2023年7月4日(火) 23時(shí)30分
拡大
ドラゴンボートのレースの起源は、紀(jì)元前に生きた屈原と深くかかわるとされる。そんな古い歴史を持つ競技が、今も世界に広がりつつある。その魅力とは、いったい何なのか。
(1 / 3 枚)
ドラゴンボート(竜舟)をご存じだろうか。中國に起原を持ち、舊暦5月5日の端午節(jié)にはレースを行う習(xí)慣がある。日本にも伝わり、長崎などではペーロン(白竜)、沖縄ではハーロンブニ(爬竜船)と呼ばれる。東アジアや東南アジアを中心に、オーストラリアや歐米にも伝わり、全世界で5000萬人もの愛好者がいるとされる。ドラゴンボートの魅力の源泉は何なのか。中國內(nèi)外で長年にわたりドラゴンボートのレースや関連文化の普及に努め、中國の國家無形遺産プロジェクトの「『屈原伝説』省級無形遺産伝承者」でもある鄭承志氏はこのほど、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、ドラゴンボートにまつわる狀況を説明した。以下は鄭氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
ドラゴンボートは屈原(紀(jì)元前340-同278年)と密接な関係がある。屈原は戦國時(shí)代の楚の重臣で、偉大な詩人として高く評価されている。屈原は、楚が臺(tái)頭しつつあった秦と手を結(jié)ぶことは危険だと説いたが、王らに受け入れられず、楚の將來を憂いて入水自殺した。屈原の死後、楚は秦に攻め滅ぼされる。ドラゴンボートの起源を説く伝承は屈原に関係しており、具體的にはそれぞれ違いもあるが、例えば屈原が入水した直後に妹の屈麼姑が兄が入水した場所に「お兄さん戻って」と叫びながら舟を漕いで向かうと、人々が次にと舟を漕いで屈原を探した。先を爭うように舟で向かったのでレースが発生したとの言い方がある。
ドラゴンボートのレースは各地でおこなわれるようになったが、屈原の故郷で入水の場所でもあった湖北省のシ帰(「シ」はのぎへんに「旡」。ただし縦畫は上に突き出して左上部分はつなげる)で行われるレースの場合には、他の地と違って川を泳いで屈原の魂を招く儀式などが必ず行われる。
シ帰では古くから、レースについて獨(dú)特の習(xí)慣が確立された。ドラゴンボート?レースといえば舊暦5月5日端午節(jié)に催されるものだが、シ帰では舊暦5月15日にも開催される。さらに、試合結(jié)果に不満なチームがあれば、25日にも開催される。また、各種の宗教的な儀式が厳格に執(zhí)り行われる。
シ帰では、故郷を離れて暮らす人も、可能な限り帰郷してレースに參加する。農(nóng)民にとっては、夏に収獲する穀物の農(nóng)作業(yè)が一段落した時(shí)期なので、やはりレースに參加しやすい。また、レースは舟の漕ぎ方などによっても細(xì)かく分類されている。シ帰ではドラゴンボート?レースが宗教的な儀式であり、文化であり、スポーツであり、そして娯楽でもある。だからこそ、長年にわたり受けつがれてきた。
1950年に結(jié)成された世界平和評議會(huì)は1953年に「世界の有名文化人」を4人選出した。屈原はその一人だった。ドラゴンボート?レースが海外に広まったことは、屈原が海外でも認(rèn)められたことにも関係していると思う。しかし、ドラゴンボート?レースが海外普及に最も影響したのは、近代になって海外に移住する中國人が増えたことだ。いわゆる華僑や華人が中國國外にドラゴンボート?レースを伝えた。
歴史上の古い時(shí)代には、中國南部からベトナム北部にかけては、「越人」と呼ばれる人々が住んでいた。彼らは統(tǒng)一國家を形成せずに、細(xì)かい集団が各地にあったので「百越」などと呼ばれる。つまり中國南部の人々と東南アジアの人々は歴史を通じて密接な関係があった。ドラゴンボートが東南アジアに広がったのは、このことも関係しているだろう。それから、ドラゴンボート?レースは日本でも根付いた。
中國政府の舊國家體育委員會(huì)は1984年に、ドラゴンボート?レースをスポーツ競技種目にすることを決定し、全國大會(huì)を「屈原杯大會(huì)」と命名した。大會(huì)が軌道に乗り、大會(huì)制度が整備されるにつれ、規(guī)模も大きくなり、國際的な大會(huì)になった。シ帰のドラゴンボート?レースと端午節(jié)の際の屈原に関する習(xí)慣は、2009年9月にユネスコの無形文化遺産に登録された。
ドラゴンボートは05年の第7回ワールドゲームズで、初めて公開競技に採用された。同年開催の東アジア競技大會(huì)では正式種目に採用された。ドラゴンボートはその後、多くの國際競技大會(huì)の正式種目となった。國際ドラゴンボート連合會(huì)は次第に大規(guī)模になった。競技會(huì)は増え、規(guī)範(fàn)性も強(qiáng)化されてきた。現(xiàn)在までに世界の90以上の國と地域でドラゴンボート運(yùn)動(dòng)の公式組織が設(shè)設(shè)立され、ドラゴンボート競技會(huì)やドラゴンボート運(yùn)動(dòng)の関連イベントを定期的に開催している。
國際ドラゴンボート連合會(huì)は07年4月に國際競技連盟連合の正式なメンバーとなり、ドラゴンボートの普及の場はさらに広がった。全世界のドラゴンボートの愛好家は5000萬人を超えたとの統(tǒng)計(jì)もある。
ドラゴンボートが海外でも受け入れられている理由の一つは、長い歴史を通じて形成された文化が存在することだ。中國では歴史上の多くの詩人が、ドラゴンボートのレースの光景を描寫してきた。大きな旗や太鼓など、視覚面でも聴覚面でも勇壯さを強(qiáng)く感じる作品が多い。今のレースでも、歴史絵巻を再現(xiàn)した光景が繰り広げられる。
もう一つは、ドラゴンボートが、國內(nèi)外の中華民族の子らが中華文化を伝承し発揚(yáng)する媒體であることだ。臺(tái)灣の詩人である余光中先生の作品である「漂給屈原」は、「水のあるところには竜舟があり、竜舟が競えば太鼓を打つ者がいる。あなたは太鼓の音に導(dǎo)かれる。……上流から下流まで太鼓の音が響く。前の端午から次の端午まで響く」と歌っている。
私は17年の端午節(jié)に臺(tái)灣の彰化に招かれて屈原文化祭とドラゴンボート競技の式典に參加して、獻(xiàn)禮官も務(wù)めた。この時(shí)には地元の人々に歓迎された。臺(tái)灣海峽両岸は同じルーツを持つ。そして血に根ざした共通の精神や伝統(tǒng)文化の遺伝子は相通ずるものだ。
ドラゴンボートは西洋のボートやカヌーと違って、ボートには太鼓の打ち手と舵手も乗り込んでいる。ドラゴンボートには西洋式のボートとは全く異なる競技シーンと雰囲気があり、鑑賞性をより高めている。
ドラゴンボートの関係者は、スポーツ、文化、経済などさまざまな分野で成果を上げることを意識している。ドラゴンボートは本質(zhì)をしっかり守りつつ革新せねばならない。これは、ドラゴンボートの発展が必ず通らなければならない道であり、そうしてこそドラゴンボートによる文化交流の幅と深さを増すことができる。
ここ數(shù)年、中國の多くの地域の団體が國外からドラゴンボートのショーや競技會(huì)への招待を受け、同時(shí)に中國側(cè)は國際的なドラゴンボート競技會(huì)を何度も組織してきた。われわれは中國の外に積極的に乗り出す一方で、中國の外からの客人を歓迎する。さまざまなドラゴンボート競技會(huì)に參加し、開催することがドラゴンボートというスポーツを通じて世界との対話する道だ。ドラゴンボートは中國が世界に対して自らの文化の奧深さを示す媒體の一つになっている。(構(gòu)成 / 如月隼人)
この記事のコメントを見る
Record China
2023/6/30
Record Korea
2023/6/29
ピックアップ
we`re
RecordChina
お問い合わせ
Record China?記事へのご意見?お問い合わせはこちら
業(yè)務(wù)提攜
Record Chinaへの業(yè)務(wù)提攜に関するお問い合わせはこちら
この記事のコメントを見る