中國(guó)新聞社 2023年7月8日(土) 23時(shí)0分
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日本の「はんこ文化」は中國(guó)から伝來したものだが、日本獨(dú)自の変容も多い。寫真は福岡市博物館が所蔵する、「日本最古のはんこ」とされる漢委奴國(guó)王印(かんのわのなのこくおういん)のレプリカ。
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よく「日本ははんこ文化の國(guó)」という。最近では「デジタル化の流れを阻害」とする批判の聲も強(qiáng)いが、「はんこ文化」が長(zhǎng)年にわたって日本文化の構(gòu)成要素の一つであり続けたことは事実だ。そして、日本の「はんこ文化」は中國(guó)から伝わったものだ。中國(guó)で「はんこ」すなわち印章または印鑑が発生したのはいつだったのか、中國(guó)社會(huì)ではどのような位置づけなのか、さらに日本に伝わった「はんこ文化」はどのように変容したのか。中國(guó)出身で日本に40年以上滯在して研究や著作活動(dòng)にいそしんできた法政大學(xué)の王敏名譽(yù)教授は、このほど中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材を受けて、日中のはんこ文化について語(yǔ)った。以下は王名譽(yù)教授の説明の概略に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
印章の歩みについては、文字の起源から語(yǔ)るべきと思う。印章は文字の発展過程の中で生まれた1種の必然的な表現(xiàn)方式と考えるからだ。文字はさまざまな素材と結(jié)合してこそ表現(xiàn)手段になる。印章はその素材の一つだ。
「淮南子?本経訓(xùn)」には、蒼頡という人物が文字を作りだした時(shí)に「天は粟を降らせ、鬼は夜に泣いた」と記している。これは、古代人が文字を「天意に通じるもの」と考えていたことを示す。文字は自然や宇宙と交流する有効な手段であり、人類の積極的進(jìn)取や知識(shí)を求めて止まない精神を反映するものだった。
「後漢書?祭祀志」には、「三皇には文字がなく縄を結(jié)んで統(tǒng)治し、五帝から文字を刻み始めた」という意味の記述がある。次の三王に至って、不正を行う者が出たので、印章が出現(xiàn)して悪の芽を摘むようになったとされている。この場(chǎng)合の「三王」は夏?殷?周の君主と考えられている。これは中國(guó)の印章の起源についての史書による比較的信頼できる記録だ。この記録によれば、印章の誕生は素樸な公共意識(shí)と密接に関連し、最初は物品の所有権を明確にするために用いられた。春秋戦國(guó)時(shí)代になると、印章は王権と結(jié)びついてより大きな権威を與えられた。
戦國(guó)時(shí)代を集結(jié)させた秦は車の轍(わだち)の幅や字體を統(tǒng)一した。さらに印章の名稱や使用方法などでも厳格な規(guī)則を制定した。漢代の印章は秦の印章を発展させたもので、雄渾かつ重厚であり、後世の模範(fàn)となった。
印章文化が民間にも広まると、私印が登場(chǎng)した。後世の文人はさらに中國(guó)の書道や絵畫を結(jié)びつけ、個(gè)性が強(qiáng)い印章を作り出した。印章は漢字蕓術(shù)と深く結(jié)びついた。文人と刻印職人は自分の美的情緒や気韻風(fēng)骨のすべてを小さな1つの印章の中に溶け込ませた。ここに中國(guó)の獨(dú)特な印章文化が形成された。印章には素樸、正直、高潔などの東洋の美學(xué)と哲學(xué)思想が盛り込まれた。
考古學(xué)の研究によると、日本の印章文化の起源は中國(guó)の漢賜金印だ?!羔釢h書?東夷列伝」には、「建武中元二年(西暦57年)、倭奴國(guó)が貢物を奉じて參賀した。使者は自らを大夫と稱した。光武帝(在位:西暦25-27年)は印綬を下賜した」と記されてる。日本では江戸時(shí)代になり、博多灣に浮かぶ志賀島で農(nóng)作業(yè)中に、この記述と合致する金印が見つかった。多くの考証の結(jié)果、漢に與えられた金印である可能性が高いとされている。史書「三國(guó)志」にも魏の明帝が邪馬臺(tái)王の卑彌呼に「金印紫綬褒章」を授けたとの記述がある。つまり、日本は遅くとも中國(guó)の後漢期(25-220年)には印章を持っていたことになる。
日本の印章の正確な起源については學(xué)界の考証を待たねばならないが、確実に言えることもある。日本の印章文化はその発展の過程で中國(guó)の強(qiáng)い影響を受け、その上で、長(zhǎng)い歴史の過程の中で日本獨(dú)自の風(fēng)格や習(xí)慣が形成されたことだ。
日本で正式に官印が使われるようになったのは、645年の大化の改新によってだ。さらに大寶律令の制定(701年)とともに、日本には中國(guó)式の官印制度が全面的に導(dǎo)入された。江戸時(shí)代に入ると、印章が日本の民間で広く使われるようになった。日本では1653年に日本に渡った獨(dú)立性易(どくりゅう しょうえき)と1676年に日本に渡った東皐心越(とうこうしんえつ)の黃檗宗の禪僧2人が、日本における篆刻(てんこく)の開祖とされて崇拝されるようになった。この2人は書にも優(yōu)れ、深い學(xué)識(shí)があった。
江戸時(shí)代の日本は比較的平和で安定ししていた。人々はより高いレベルの精神性を追求するようになった。そして、自分獨(dú)自の印章を求める人が増えていった。庶民化と世俗化が発生して、印章は民衆(zhòng)の蕓術(shù)表現(xiàn)の手段になり、同時(shí)に日常生活の道具になった。
日本社會(huì)には今も日本社會(huì)に印鑑文化が息づいている。日本で日常生活の中で個(gè)人が使用する印鑑は大きく3つに分類される。まずは自治體に登録する「実印」で、法的効力が強(qiáng)い、次に、銀行などの金融機(jī)関で使われる「銀行印」がある。3つ目は「認(rèn)め印」で、書類に対する同意や既読であることを示す。また、書類の修正個(gè)所に押して、自分自身が修正したものであることを証明する小型の「訂正印」もある。中國(guó)では最近になり、旅行先で記念のためのスタンプを押すことが人気だが、これは日本の印章文化が逆輸入されたものだ。
中國(guó)と日本は一衣帯水の近隣で、文化が通じ合い、深い歴史的なつながりがある。中日の印章文化はいずれも漢字文化に根差したもので、漢字に対する尊重と愛著を體現(xiàn)している。同時(shí)に、それぞれの風(fēng)土と人情と美的情緒を反映している。中日の印章文化にはそれぞれ美しさがあり、それぞれに長(zhǎng)所がある。また、両國(guó)それぞれの印章製作者の知恵が込められている。相互交流と相互學(xué)習(xí)を強(qiáng)化し、伝統(tǒng)を継承した上で革新を続け、さらに東洋の印章と篆刻蕓術(shù)をさらに世界に広め、漢字の美しさと印章の風(fēng)格を共に語(yǔ)るべきだ。これは、中日のその他の分野での交流と同様の方向性だ。印章は交流のための一つの窓でであり、われわれは印章を通して、より広い精神世界の知見を得ることができる。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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