中國人として初めてロプノールに足を踏み入れた研究者、苦難の道の物語

中國新聞社    2023年7月17日(月) 20時(shí)0分

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黃文弼は中國における考古學(xué)の草創(chuàng)期に研究に取り組んだ一人だ。中國人として初めて「さまよえる湖」として有名なロプノールに到達(dá)した人物でもある。

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中國で西洋近代の方法による考古學(xué)調(diào)査が始まったのは19世紀(jì)末だった。最初に調(diào)査を行ったのは西洋人だった。中國人の考古學(xué)者もほどなく登場し、20世紀(jì)前半には誇るに足る成果を出すようになった。當(dāng)時(shí)の中國は國力も弱く、戦爭も勃発するなどで、研究環(huán)境は劣悪だった。それでも中國人考古學(xué)者は「かじりつく」ようにして研究を進(jìn)めた。代表的人物の一人が黃文弼(1893-1966年)だ。黃は中國人として初めて「さまよえる湖」として有名なロプノールに到達(dá)した人物であり、現(xiàn)地でしっかりとした考古學(xué)調(diào)査を行った人物だ。中國メディアの中國新聞社はこのほど、黃文弼の研究人生や研究姿勢を紹介する記事を発表した。以下は、同記事の概要に若干の情報(bào)を追加するなどで再構(gòu)成した文章だ。

その他の寫真

常に中國人としての誇りを胸に

近代になってから、ロプノールに最初に到達(dá)したのはスウェーデン人探検家のスヴェン?ヘディン(1865-1952年)だった。ヘディンがロプノールに到達(dá)したのは1890年代後半から1900年代前半にかけての探検だった。

ヘディンはその後も中國を含むアジアの探検調(diào)査を続けた。1927年には中國北西部の第4回調(diào)査を計(jì)畫した。當(dāng)時(shí)の中國は分裂狀態(tài)で、中國北部を支配していた北洋政府はヘディンの探検を許可した。しかし北京の學(xué)界はヘディンの調(diào)査に反発した。ヘディンは時(shí)勢を見極め、中國の學(xué)界とじっくりと交渉した。その結(jié)果、中國側(cè)とは合同調(diào)査団として活動(dòng)することで合意した。中國側(cè)は研究者6人と學(xué)生4任を參加させることになった。経費(fèi)はヘディン側(cè)が供出することになった??脊艑W(xué)の専門家として參加した中國側(cè)団員が、黃文弼だった。

調(diào)査団は1927年5月に北京を出発した。黃文弼はスウェン?ヘディンの學(xué)識(shí)と業(yè)績に感服したが、文化財(cái)保護(hù)においては厳格であり、外國側(cè)の団員が無許可の考古學(xué)調(diào)査などを阻止しようとした。ヘディンがテントの外にスウェーデン國旗をたくさん立てると、黃はすぐに抜いて中國國旗を立てたという。

黃文弼は1928年年初、ヘディンらと別れて分隊(duì)を率いて新疆に移動(dòng)した。當(dāng)時(shí)の外國人探検家は出土品など発見した文化財(cái)を本國に持ち帰ることを極めて重視していた。中國人からすれば昔からの「遺産」を持ち去られることだ。外國人探検家は、壁畫を持ち帰ろうとして無造作に壁をはぎ取ってしまうなどの文化財(cái)の破壊も行った。

黃文弼は外國の探検隊(duì)が勝手に荒らした遺跡で、系統(tǒng)的な科學(xué)的発掘を行った。中でも最も代表的な仕事は、ルファン交河城ヤル崖古墓群の発掘だった。まずエリアを整理して分布狀況を確認(rèn)し、エリアごとに順次発掘することで、完全な陶器800點(diǎn)余り、墓表120件余り、その他大量の副葬品を発見した。

黃文弼は1930年4月にロプノール北岸に到著した。4月23日午前には、さらに小編成の2分隊(duì)に別行動(dòng)をさせて史跡を探った。その日の午後は風(fēng)が急に吹き、砂ぼこりが立ち込めて夜のように暗くなった。地元で「黒い風(fēng)」と呼ばれる現(xiàn)象だ。夜になっても大風(fēng)は止まず、駐屯地のテントはほとんどが破壊された。黃は防寒服を持っていない小分隊(duì)の隊(duì)員のことを一晩中心配していたという。

西洋人もなしえなかった大発見の數(shù)々

小分隊(duì)の一つは翌日午前に戻って來た。地面に落ちていた銅製の矢じりなどの収穫もあった。しかしもう一つの小分隊(duì)はなかなか戻ってこなかった。ようやく戻って來たのは夕方だった。黃文弼は調(diào)査日誌に珍しく「勝利の知らせを持ち帰った」などの言葉を使った。喜びを隠せなかった。

黃文弼が「勝利」の言葉を使ったことには理由があった。遅れて戻って來た小分隊(duì)は、漢代ののろし臺(tái)跡の遺跡を発見したのだ。のろし臺(tái)には3本の直立した木の柱が殘っていた。また、改めて調(diào)査したところ、70枚余りの漢代の木簡も発見した。新疆で発見された最も古い木簡だった。

黃文弼はロプノールを離れた後、タリム盆地に1年半滯在した。調(diào)査した遺跡は100カ所以上に達(dá)した。有名なクチャ(亀茲)、ホータン(于●)(●は門がまえの中に「眞」)、焉耆、尉鋤、危須などの古國の跡にも足を踏み入れ、多くの古い都市を発見した。黃文弼は1930年9月に北京に帰還した。この調(diào)査は黃文弼の生涯に渡る研究の方向性を決めた。黃文弼はその後にも1933年、1943年、1957年にも新疆の調(diào)査を行った。新疆內(nèi)での総行程は38000キロを超え、天山南北のほぼすべての古跡に黃文弼の足跡が殘された。

黃文弼の新疆調(diào)査は苦難に満ちたものだった。裝備は貧弱だった。しかし黃文弼はタクラマカンの橫斷にも成功した。スウェン?ヘディンも橫斷を試みたことがあったが、水を飲み干して人の尿、ラクダの尿、羊の血を飲むなどで命を失う寸前にまで追い詰められた。ヘディンは最終的に、ほとんどの荷物を放棄した。學(xué)術(shù)調(diào)査の観點(diǎn)からすれば、完全な失敗だった。

「漢書?西域伝」などでは、タリム盆地の南部には「南河」があり、ロプノールに流れ込むとされている。しかし「南河」は消滅している。黃文弼は「南河」周辺の遺跡を調(diào)査することにした。タリム盆地の北部から南部に到達(dá)するために1カ月と6日を要した。

黃文弼は河床の跡と川沿いの遺構(gòu)に基づき、「南河」の消失が5世紀(jì)から8世紀(jì)の間に発生したと判斷した。この研究は古代國家とシルクロードの盛衰などの研究に対して、新たな証拠を提出した。黃文弼の新疆の研究は遺跡を発見しただけでなく、西域の歴史に関するいくつかの重大な問題を解決する手がかりを提出した點(diǎn)で重要だ。

劣悪な環(huán)境下でも研究を持続した強(qiáng)い精神力

黃は1930年に北京に戻ってきて、研究の主たる対象を蒲昌、すなわち往時(shí)のロプノールにすると決めた。それまでの考古學(xué)調(diào)査を整理して1933年までに出版物として世に示した。1934年からは安陽、洛陽、西安、南京などで考古學(xué)作業(yè)を行い、さらに西安で碑林の修復(fù)を行った。新疆で得た出土品を攜行したが、研究する時(shí)間は夜にしか取れなかった。

日本に対する全面抗戦が始まると、北京市內(nèi)の多くの大學(xué)が戦火を避けるために陝西省に移転して「國立西北連合大學(xué)」となった。黃文弼は歴史學(xué)部の教授を務(wù)めた。同時(shí)期に四川大學(xué)歴史學(xué)部教授に招聘ため、1939年から1942年まで四川と陜西の往復(fù)を繰り返し、學(xué)生を指導(dǎo)する一方で新疆の調(diào)査察報(bào)告書の執(zhí)筆を続け、「ロブノール考古記」を完成させた。

日本との戦爭に勝利した後、黃は漢口の倉庫に出向いて寄託していた新疆での出土品を調(diào)べたが、大部分は戦火で破壊されてしまっていた。中華人民共和國の成立後、黃は中國科學(xué)院考古研究所の研究員を務(wù)めた。黃は驚くべきエネルギーを爆発させ、「トルファン考古記」、「タリム盆地考古記」を相次いで出版した。最後の「タリム盆地考古記」の出版は1958年だった。黃は初めて新疆に足を踏み入れてから26年で、新疆での調(diào)査を紹介する主要著作を完結(jié)させた。

考古學(xué)の研究は、報(bào)告書を発表することで完結(jié)する。當(dāng)時(shí)の中國が置かれた厳しい狀況や、その他に與えられた仕事の多さを考えれば、黃ほどの強(qiáng)い精神力や使命感を持つ人物でなければ、新疆での貴重な発見の多くは役立てられることなく埋もれてしまったかもしれない。

黃文弼は1966年に73歳で他界した。しかし黃の著作は歳月の検証に耐え、今も學(xué)術(shù)的価値を認(rèn)められている。また、中國國外への影響力も多く、黃の著作は中國北西部の考古學(xué)を研究する者にとって必読だ。

黃文弼の影響力はすでに國內(nèi)外の學(xué)界に及んでいる。日本の考古蕓術(shù)學(xué)者の前田耕作(1933-2022年)は、「黃文弼は機(jī)上の金石學(xué)を生気に満ちたフィールド考古學(xué)に転換するために、4萬キロを苦労して進(jìn)んだ。このような黃文弼を忘卻の歴史から改めて解き放つことは、西から見ていた中央アジアを東から観察するようなものだ」と述べている。それまでは西洋の目で見ていた中央アジアを、中國の學(xué)問として成立させたとの評(píng)価だ。(構(gòu)成/如月隼人


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