中國(guó)新聞社 2023年7月30日(日) 23時(shí)0分
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中國(guó)では紀(jì)元前の多くの人物の行為や心情が生き生きと伝えられている。しかしそれらの人物の「ゆかりの品」は極めて少ない。ここに一つの例外がある。越王の勾踐が所持していた青銅製の剣だ(寫真)。
中國(guó)では遠(yuǎn)い昔から、発生した出來事を記述して後世に殘すことが極めて重視された。歴史の記述だ。2000年以上も前の人の物語が、生き生きとした筆致で描かれている。ただし、そんな歴史上の有名人でも、持ち物などが現(xiàn)在に伝わっていることは、當(dāng)然ながらほとんどない。ただしここに、極めて特別な例外がある。越王勾踐(在位:紀(jì)元前496-同464年)が所持していた青銅製の剣だ?,F(xiàn)在は湖北省博物館が「館の寶」として所蔵している。どのような経緯で現(xiàn)在まで伝わったのか、越王勾踐の剣だたと斷言できるのはなぜなのか。2001年4月まで湖北省文化財(cái)考古研究所の初代所長(zhǎng)を務(wù)め、越王勾踐の剣が発見された考古學(xué)調(diào)査の主要なメンバーの一人でもあった陳振裕氏はこのほど、中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社の取材に応じて、越王勾踐の剣について説明した。以下は陳氏の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
湖北省江陵地區(qū)では1960年代前半、干ばつの被害が深刻だった。そこで政府は灌漑用水路をいくつか建設(shè)することにした??脊艑W(xué)上も重要な土地なので、學(xué)術(shù)調(diào)査隊(duì)も用水路建設(shè)隊(duì)に加わった。水路が紀(jì)南城の北西北西7キロに達(dá)したところで、古墳群が見つかった。古墳群は望山楚墓と呼ばれることになった?!赋埂工趣丹欷郡韦稀?dāng)時(shí)の楚の領(lǐng)土內(nèi)だったからだ。
越王勾踐の剣は望山1號(hào)楚墓から出土した。驚くべきことに、剣には8文字が刻まれていた。特異な字體だった。他にも豪華な副葬品が見つかったことから、被葬者や被葬者は貴族や王族だったことは間違いない。
刀身に刻まれた8文字の解読が実施された。多くの歴史家や考古學(xué)者、古文字學(xué)者が加わった。まず、刀身銘文は「鳥蟲書」と呼ばれる當(dāng)時(shí)の特殊な書體で書かれていることが分かった。8文字のうち「越王」の2文字と、「自作用剣」、すなわち「自ら作り用いた剣」であることを示す4文字が解読された。殘りの2文字の解読のために、さらに多くの第一線の研究者が參加して2カ月余りも意見交換をして、最終的に「越王勾踐自作用剣」の8文字と斷定された。
出土した越王勾踐は保存狀態(tài)も良好で、「驚異の発見」とされた。手元部分は円盤形で、11の円環(huán)を鋳造により同心円狀にまとめている。手元は太く、刃の部分に近づくと細(xì)くなる。また、剣には寶石の裝飾があり、刃の部分には幾何學(xué)的模様が描かれている。
當(dāng)時(shí)、呉や越で作られた青銅製の剣は、他の諸侯國(guó)と友好関係を保つための重要な贈(zèng)答品だった。また、戦利品として他國(guó)に持ち出される場(chǎng)合もあった。越王の剣はこれまでに數(shù)十點(diǎn)が出土しているが、贈(zèng)答品として楚に伝わった剣もあり、楚が越を滅ぼした際の戦利品もある。
越王勾踐の青銅剣は、楚の墓に埋葬された理由について、學(xué)界にはさまざまな説がある。大別すれば戦利品説と贈(zèng)答品説だ。私は贈(zèng)答品説に傾いている。すなわち、楚の昭王は越王勾踐の娘を妃にしたので、その際にこの剣も楚に持ち込まれたとする考え方だ。
春秋戦國(guó)時(shí)代に政略結(jié)婚は多かった。楚の昭王が越王勾踐の娘を夫人にしたのは、越と連係して呉に対抗する意図があったからだ。勾踐にとって呉は恨み重なる宿敵だった。勾踐も、楚とは是非、手を結(jié)びたかった。なので、自らが大切にしていた剣を嫁入りする娘に持たせて昭王に贈(zèng)った可能性が高いと考える。
越王勾踐剣は二千數(shù)百年を経ても腐食がないなど、保存狀態(tài)がよい。まず、出土した望山1號(hào)墓は盜掘されておらず、深さ10メートル以上の墓坑には固められた漆喰などが充填されていた。つまり密封性が高かった。また、剣が墓室の土壌と直接接觸ないように置かれていて、黒漆を施された木の鞘に納められていた。酸素との接觸が避けられたために腐食をまぬがれた。
越王勾踐剣は今も切れ味が抜群だ。1977年に撮影されたドキュメンタリー映畫の中での切れ味を確かめる実験では、紙を30枚余り重ねて、切ったところ、20枚以上を切り裂くことができた。
越王勾踐剣は造形が美しく、高い蕓術(shù)的価値を持つ。同時(shí)代の青銅剣で、裝飾が施されているものは極めて珍しい。さらに、他の青銅剣は刃が直線的的であるのに対して、越王勾踐剣では刃が微妙に丸みを帯びている。この曲線が美しさをもたらしている。青い瑠璃がちりばめられている剣も、極めてめずらしい。
越王勾踐剣には、古代中國(guó)の鋳剣職人の高度な技術(shù)がよく反映されている。1977年には上海の復(fù)旦大學(xué)に送られて非破壊検査が行われたが、剣の刃と刀身の成分には、錫が16%から17%含まれていることが明らかになった。これは青銅剣の強(qiáng)度を最も強(qiáng)くする比率だ。刀身に含まれる鉛や鉄の含有量は比較的低い。鉱石の選別や融解時(shí)の処理で、鉄などの不純物を低減させたのだろう。
越王勾踐は歴史上、重要な役割りを演じた人物であり、「臥薪嘗膽」の言葉が現(xiàn)在も使われているように、文化面での影響も大きい。従って、越王勾踐剣の歴史的価値が極めて高いことは言うまでもない。
文化財(cái)には、人と人の心を通わせ友情を育む力がある。越王勾踐剣はこれまで、海外で3回展示された。それぞれ日本、メキシコ、シンガポールだ。いずれも、特別な価値を持つ文化財(cái)として扱われた。
例えば日本での展示では、目立つ場(chǎng)所にある特別の展示ケースに納められた。多くの日本人が見學(xué)した。やはり注目されたのは刃が薄くて鋭利で、今も輝く光沢を保っていること、また剣格の表には青い瑠璃、裏には緑松石で美しい模様がちりばめられていること、剣に精密な模様が描かれていることだ。日本人は古代中國(guó)の労働者の偉大な創(chuàng)造と稱賛し、2000年以上前の中國(guó)の冶金工蕓の水準(zhǔn)を高く評(píng)価した。
日本側(cè)は越王勾踐剣の模型を特別に作成し、展覧會(huì)の記念品として朝日新聞社內(nèi)で展示するようにした。ある日本人の友人は武漢を訪問した時(shí)に、「日本の民衆(zhòng)は越王勾踐剣をとても歓迎し、非常によく知るようになった。多くの人が新聞や雑誌に専門的な記事を掲載して紹介した」と言ってくれた。
1975年にメキシコで開催された「中華人民共和國(guó)出土文化財(cái)展覧會(huì)」でも、越王勾踐剣は大歓迎された。1993年にシンガポールで開催された「戦國(guó)楚文化展」では、越王勾踐剣を、よく位置を考えた特別展示ケースに納め、4つの異なる角度から観賞できるようにした。來場(chǎng)者は大いに稱賛した。シンガポールは華僑華人の多い國(guó)だ。彼らは父祖の地で出土した文化財(cái)を見てとても親身に感じて、大いに興味を持った。彼らは精巧で美しい越王勾踐剣と多くの楚の文化財(cái)の珍品を見て、中國(guó)の2000年以上前の歴史文化の奧深さに深い感慨を覚えた。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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