中國新聞社 2023年9月26日(火) 0時(shí)0分
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北京市市房山區(qū)にある瑠璃河遺跡は、3000年以上前の西周時(shí)代の都市の遺跡だ(寫真)??脊艑W(xué)調(diào)査によって「史記」の記述が正しかったころが確認(rèn)され、その他の事実も分かってきた。
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北京が中國全國の首都になったのは1270年だ。元のフビライ帝が故郷のモンゴル高原にあるカラコルムから正式に遷都したからだった?,F(xiàn)在から約750年前であり、中國の歴史全體を考えれば、「中國の首都?北京」の歴史はそれほど長くない。ただし現(xiàn)在の北京はそれよりはるか昔から、中國北部の重要な都市だった。北京はその長い歴史を通じて中國全國の首都として機(jī)能しうる條件を育ててきたとも言える。北京市考古研究院の郭京寧氏院長はこのたび、中國メディアの中國新聞社の取材に応じて、解明が進(jìn)みつつある極めて古い北京の狀況を説明した。以下は院長の言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
司馬遷は「史記?燕召公世家」の中で、「周武王が殷の紂王を滅ぼし、召公を北燕に封じた」と記録している??茖W(xué)的な考古學(xué)がなかった時(shí)代には、この記述が北京の歴史の出発點(diǎn)とされた。
北京市市房山區(qū)にある瑠璃河遺跡は、3000年以上前の西周時(shí)代(紀(jì)元前1100年ごろ-同771年)の都市建設(shè)を示す遺跡だ。発見されたのは1940年代で、60年代初めに小規(guī)模な試掘が行われた。70年代からは5回の大規(guī)模な発掘が行われ、西周時(shí)代の城壁跡、上流階級の墓、宮殿建築區(qū)、手工業(yè)作業(yè)場の遺構(gòu)などが発見され、多くの精美な文化財(cái)が出土した。うち伯矩鬲と呼ばれる青銅器は首都博物館の最も重要な寶となった。堇鼎は北京地區(qū)で出土した最大の青銅器だ。
2019年には瑠璃河遺跡の市街區(qū)と墓葬區(qū)の考古學(xué)作業(yè)が再開された。この作業(yè)で西周初期の墓5基、家屋跡3基、城壁の外に設(shè)けられたと見られる環(huán)壕1本が発掘され、銅器、漆器、陶器、海貝、象牙器など各種文化財(cái)100點(diǎn)余りが出土した。この調(diào)査で青銅器に刻まれた銘文が初めて見つかった。銘文には「築城」を意味する「墉」という文字があった。このことで、この場所で都が作られたことが判明した。銘文には「匽侯宮」の文字もあり、大きな宮殿があったことが示されている。
つまり、瑠璃河遺跡の調(diào)査により、現(xiàn)在の北京の地が周初期の燕國の封地であり、燕國の最初の都邑だったことが分かった。これは、史記の記述の正しさが証明されたことでもある。
北京で出土した殷代や周代の実物資料は少なく、瑠璃河遺跡で出土した伯矩鬲や堇鼎は北京の悠久の歴史の重要なシンボルだ。さらに、多くの陶器は先住民や周由來の姓を持つ人、あるいは殷の遺民など多様な文化要素が共存していた狀況を反映している。また、多くの実物により西周時(shí)代の分封制度や禮楽制度についての記録が裏付けられた。
北京は3000年前の西周の封國の都であり、漢代には郡県の一つとして中國北部の統(tǒng)治の重要な拠點(diǎn)になった。唐代には辺境の軍事的要所であり、金代以降はまず地方政権の、さらには中國全國の首都として機(jī)能した??脊艑W(xué)は北京が小さな集落から出発してから全國の首都にまで発展した過程を明らかにしてきた。
瑠璃河遺跡の発掘過程はまた、新たな時(shí)代の北京の遺跡保護(hù)の理念を具體化した??脊艑W(xué)の重要な目的の一つに「より良い保護(hù)」がある?,娏Ш舆z跡では現(xiàn)在、國家考古學(xué)遺跡公園が建設(shè)中だ。
瑠璃河考古學(xué)遺跡公園では科學(xué)的な考古學(xué)を通じて、地下の重要な遺構(gòu)を展示し、來場者が3000年の歴史を「目撃」できるようにしていく。豊富なだけでなく、生き生きとした歴史の狀況を示す。そのためには、考古學(xué)の発掘と公園建設(shè)関係者の共同の努力が必要だ。
世界文化遺産への登録も、瑠璃河遺跡の今後の努力目標(biāo)だ。琉璃河遺跡は面積5.25平方キロのかなり大きい遺跡だ。世界遺産登録を契機(jī)として遺跡全體の保護(hù)を強(qiáng)化すれば、その歴史や文化面での価値を最大化するのに役立つだろう。
北京市は2014年に「北京市地下文物保護(hù)管理弁法」を施行した。中國全國の各省が手本にすることになった、開発の際には著工前の考古學(xué)調(diào)査を義務(wù)付けるなどの規(guī)則だ。
私が考古學(xué)に従事した20年は、北京で考古學(xué)上の驚きの発見が相次いだ時(shí)期でもある。房山では唐代の幽州節(jié)度使だった劉済とその妻の墓が発見され、延慶では科遼代の鉱山冶金遺跡群が発見され、北京都市副センター建設(shè)に先立つ考古學(xué)探査では前漢の遺跡が発見された。
北京における考古學(xué)的な方法と技術(shù)上の変化も注目を集めている。例えば學(xué)際的考古學(xué)が必須になったことだ。路県故城では、植物學(xué)の研究により漢代の人が五穀雑穀を食べていたことが分かった。學(xué)際的協(xié)力により、考古學(xué)の學(xué)術(shù)性が強(qiáng)化された。
北京市ではまた、大遺跡に関連する地理情報(bào)システムが構(gòu)築されつつある。人工衛(wèi)星から撮影された畫像を用いるリモートセンシングなどにより探査や発掘の成果を統(tǒng)一された「1枚の図」にするとともに、カメラで発掘の全過程を記録し、層ごとに図面を描き、3次元モデルを構(gòu)築する。この手法により地下の文化財(cái)資源のデータバンクを形成し、都市改造や工事の計(jì)畫に參考を提供することができる。もちろん、この「1枚の図」は考古學(xué)上の発見のたびに更新されていく。
瑠璃河遺跡は中華文明の多元的な一體化の実例だ??脊艑W(xué)調(diào)査で発見された遺物の中には、車や馬に関連する北方の少數(shù)民族の文化を示す要素や、矛や金や銀のメッキなど長江流域由來の文化的要素もある。海貝なども見つかった。これらは、多地域の文化が交錯(cuò)し、共生し、多元的要素が融合していた文化現(xiàn)象を示している。つまり、北京が古くから多民族融合の地であったことを物語っている。
北京は中原地區(qū)から北東へ向かう交通の要所だった。多くの出土品は韓國、日本、朝鮮、モンゴルでも同類のものが出土している。琉璃河遺跡以外でも、中國とアジアの他の地域との交流の証拠が発見されている。例えば、北京の豊臺で発見された金代の貴族の墓からは「高麗青磁」が出土したが、これは當(dāng)時(shí)の高麗が中國の竜泉窯を模して開発した磁器が、再び中國にもたらされたものだ。つまり當(dāng)時(shí)の両國の文化交流を?qū)g証する文化財(cái)の一つだ。
文明は交流によって多彩になり、文明は相互參照によって豊かになる。中國と外國の考古學(xué)協(xié)力は必須であり、必然でもある??脊艑W(xué)の本質(zhì)は古代人類と古代人の社會交流の歴史狀況を明らかにすることであり、中國と外國が協(xié)力と交流をしてこそ、歴史に対する認(rèn)識を深めることができる。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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