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「ホールヒー」の心で上海の孤児28人を受け入れたモンゴル族女性の物語(yǔ)

中國(guó)新聞社    2023年11月10日(金) 0時(shí)0分

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1960年代初頭、中國(guó)は深刻な食糧不足に見(jiàn)舞われていた。上海などでは孤児院が危機(jī)的狀況に陥った。そんな中で、內(nèi)モンゴルは中國(guó)南部の孤児約3000人を引き取って一般住人が養(yǎng)育した。

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モンゴル民族と言えば、歴史上の騎馬軍団の影響なのか、「勇猛果敢」との印象を持ちやすい。しかし実際には、「憐れみの心」を強(qiáng)く持つ人が多い。彼ら?彼女らは、ことあるごとに「ホールヒー(かわいそうに)」という言葉を口にする。20世紀(jì)初頭に、モンゴル人が蚊の死骸を見(jiàn)つめてしみじみと「ホールヒー」とつぶやいたと、驚きを込めて記録した西洋人がいるほどだ。そんなモンゴル族の人々が官民を挙げて「ホールヒー」の心を?qū)g踐した出來(lái)事があった。1960代初頭に、食料難で危機(jī)的狀況に陥った中國(guó)南部の孤児を大量に引き取って養(yǎng)ったことだ。內(nèi)モンゴル全體で孤児3000人を受け入れたとされる。中國(guó)メディアの中國(guó)新聞社はこのほど、孤児28人の世話(huà)をしたドギマさんを紹介する記事を発表した。以下は、原文に若干の補(bǔ)足説明を追加するなどで再構(gòu)成した文章だ。

その他の寫(xiě)真

やって來(lái)た28人の子を「孤児」とは言いたくなかった

80歳を過(guò)ぎたドギマさんは足がやや不自由だが、客が來(lái)れば必ず家の前に立って出迎え、「サインバイノー(こんにちは)」と心を込めてあいさつする。そして客を部屋に迎え入れ、モンゴル族伝統(tǒng)の乳製品を味わってもらう。ドギマさんは孤児28人を受け入れて世話(huà)をしたことがある。しかし「私のしたことは小さいのに、國(guó)は私のことを覚えてくれて、お返しにいろいろな栄譽(yù)をくれた」と謙虛に語(yǔ)る。

ドギマさん自分が獲得した各種の栄譽(yù)褒賞を自ら示すことはない。2019年に「人民の模範(fàn)」という國(guó)家栄譽(yù)稱(chēng)號(hào)を授與された時(shí)には、娘のチャガーンチョローンさんに「目立つことはしないように」と念を押したほどだ。

しかし、ドギマさんには胸の內(nèi)で誇れることがある。かつて世話(huà)をした28人の「上海の幼子」の成長(zhǎng)を常に見(jiàn)守り、今も緊密なつながりを保っていることだ。

孫保衛(wèi)さんは、ドギマさんが世話(huà)をした子の一人だ。ドギマさんの目には、もう64歳になった孫さんが「赤ちゃん」として映っている?!袱ⅳ胜郡菰藖?lái)たばかりのころは、まだ1歳にもならず、とてもやせて弱かった」――。

ドギマさんはやってきた子のことを「赤ちゃん」と言っていた?!腹聝埂工趣いρ匀~は使いたくなかった。実はドギマさんも孤児だった。4歳で父を、7歳で母を亡くし、叔母に育てられたからだ。ドギマさんの故郷は內(nèi)モンゴル自治區(qū)のドルベド?ホショーだ?!弗丧毳佶伞工趣膝猊螗触胝Z(yǔ)で4を表す「ドロブ」から派生した言葉で、チンギス?ハン一族の4人の王子がこの地にいたことに由來(lái)する。中國(guó)語(yǔ)では「四王子旗」だ?!弗邾伐绌`(旗)」は內(nèi)モンゴルで使われる行政區(qū)畫(huà)だ。

ドギマさんは小學(xué)6年生までしか學(xué)校で勉強(qiáng)しなかった。その後は牧畜の仕事をして、19歳だった1961年に地元の保育園の保育士になった。中國(guó)ではその時(shí)期、深刻な食料不足が発生していた。そして上海、江蘇、浙江などの孤児院が、危機(jī)的狀況に直面していた。食糧の調(diào)達(dá)が困難だった一方で、生活が出來(lái)ないために子を放棄する親が多く発生していたからだ。

気の毒な存在には手を差し伸べずにいられない內(nèi)モンゴル人の心意気

全國(guó)婦女連合會(huì)主席だった康克清氏は周恩來(lái)首相に、他の省から粉ミルクを取り寄せることを希望した。周首相は數(shù)十年來(lái)の革命の同志だった?jī)?nèi)モンゴル自治區(qū)政府のウランフ主席のことを思い出した。

作家のサレントヤさんによると、ウランフ主席がこの問(wèn)題を內(nèi)モンゴル自治區(qū)の共産黨委員會(huì)にかけたところ、自治區(qū)の高官らは緊張の面持ちだったが、意見(jiàn)は一致した?!袱铯欷铯欷щyを引き受けよう。わずかに殘っている粉ミルクをかき集めれば、上海の孤児院の子らが難関を乗り越えるのを助けられるかもしれない」との結(jié)論だった。

內(nèi)モンゴル各地に粉ミルク拠出の要請(qǐng)が出された。そして回答が戻って來(lái)た。しかし確保可能だった量では「焼け石に水」だった。すると、內(nèi)モンゴル自治區(qū)黨委員會(huì)の當(dāng)時(shí)のザヤタイ副書(shū)記が、あるアイデアを思いついた。ザヤタイ副書(shū)記は「車(chē)1臺(tái)分の粉ミルクで、大きな効果が出せるのか。いつまで持ちこたえられるのか。むしろその孤児たちを內(nèi)モンゴルに呼び寄せ、草原の牧畜民に育ててもらうべきだ」と主張した。

そして計(jì)畫(huà)的かつ組織的な上海の孤児の救出作戦が始まった。內(nèi)モンゴル各地の行政機(jī)関が輸送チームを迅速に結(jié)成し、上海に駆けつけて大量の孤児を受け入れた。それから3年間にわたり、上海その他の地方の孤児3000人余りが內(nèi)モンゴルに引き取られた。

育児経験のないドギマさんが懸命に「28人の子育て」

ドギマさんの心には今も、19歳の時(shí)に當(dāng)時(shí)の人民公社の幹部と一緒に自治區(qū)政府所在地のフフホトまで「上海の幼子」を迎えに行った時(shí)の光景が刻まれている。年上の子は5、6歳で小さな子はまだ2、3カ月だった。多かったのは2歳から4歳までの子だ。3、4歳なのにまだ歩けない子もいた。また、草原で育ったドギマさんは、一度にこれほど多くの子どもたちに會(huì)ったことがなかった。

ドギマさんは後になり、「親がいなくて、こんなに遠(yuǎn)くに來(lái)た子どもたちを見(jiàn)て、私は心が落ち著かなくりました。私にはこの子どもたちの面倒を見(jiàn)る義務(wù)があると思いました」と回想した。まさに、弱い存在を目の前にした時(shí)に感じる、「ホールヒー」の心だった。

厳密に言えば、ドギマさんは、もう一人の保育士のトヤさんとともにこの28人の「上海の子」の世話(huà)をしたのであって、その期間も9カ月だけだった。しかし、まだ未婚で育児経験のないドギマさんが、これほどまでに多くの子の世話(huà)をするのは大変だった。

居住したのは「ゲル」というモンゴル民族の伝統(tǒng)的なテント式住居だ。ゲルの床は円形で、ドギマさんらは子どもを?qū)嫟护霑r(shí)には寢床を円形に並べた。そして自分は中央で寢た。夜中に泣き出す子がいると、ドギマさんは手でその子の體をそっとたたいて安心させた。

「臨時(shí)ママ」を務(wù)めたドギマさんが最も難しいと感じたのは、子どもとの會(huì)話(huà)だった。當(dāng)時(shí)は中國(guó)語(yǔ)が出來(lái)ず、子どもの名も覚えられなかった。そこで、色や形がとりどりのモンゴル式の衣裝「デール」を縫って子どもたちに著せて見(jiàn)分けた。逆に子どもたちはモンゴル語(yǔ)が分からなかった。そこでドギマさんは、食事の時(shí)にはまず食器を取り出して子どもに示した。寢る時(shí)には枕を見(jiàn)せた。しばらくすると、子どもらは理解できるようになったという。

ドギマさんは9カ月の間に、母親とはどういう存在であるかを深く悟った。夜になり子どもたちが眠りにつくと、いつも子どもたちの將來(lái)の人生を考え、社會(huì)や國(guó)のために役立つ人になってくれるのかどうかと考え込んだという。

手配が整い、地元の牧畜民などが「上海の幼子」を養(yǎng)子として迎え入れることになった。ドギマさんにとって生涯の中で「最も受け入れがたい離別の苦しみ」だったという。

今も人々が安堵しているのは、28人の子が一人も、後に影響の殘るような重い病気にならなかったことだ。ドギマさんが手厚く世話(huà)をしたおかげだ。當(dāng)時(shí)の生活環(huán)境を考えれば奇跡に近いという。

ドギマさんのすばらしさを痛感し取材中に涙あふれる

習(xí)近平総書(shū)記は2021年の第13期全人代第4回會(huì)議で上京した?jī)?nèi)モンゴル代表団の審議に參加した際、「3000人の孤児が內(nèi)モンゴルで養(yǎng)われた」という話(huà)題に言及した。そのことで、中國(guó)北部の草原での感動(dòng)的な物語(yǔ)が、60年の歳月を経て再び注目されるようになった。

今もドルベド?ホショーに住むドギマさんは改めて中國(guó)新聞社の取材を受けた際に、「28人の『上海の幼子』とは一生の縁です。この特別な縁を大切にしています」と語(yǔ)った。同じく取材を受けた孫保衛(wèi)さんは、「私には里親もいますが、今もドギマさんのことを『エージュ』と呼んでいます」と説明した?!弗ī`ジュ」とはモンゴル語(yǔ)で「お母さん」という意味だ。ドギマさんは育てた28人の子を、全て自分の肉親と思っているという。

「上海の孤児」について細(xì)かく取材した作家の蔣雨含さんは、「上海から來(lái)た『孤児』らは皆、60年間以上も交流を続けてきたドギマさんとは、生涯で最も深い縁で結(jié)ばれていると考えている」と感慨深げに語(yǔ)った。

蔣さんはさらに、長(zhǎng)い歳月が経過(guò)して多くの物事や人が過(guò)去のものになっても、ドギマさんがこの土地の大きな存在であり続けることに驚嘆している。今なお多くの人に「お母さん」と呼ばれ敬慕されていることがいかに偉大なことかと、胸を打たれるという。

蔣さんは、ドギマさんを取材したある日のことを忘れられない。ドギマさんは優(yōu)しくほほ笑んで昔の話(huà)を続けた。ずっと穏やかな口調(diào)だった。時(shí)間がゆっくりと流れ、外から室內(nèi)に差し込む日の影がゆっくりと動(dòng)いていった。蔣さんは目の前にいる柔和なおばあさんが、若かった時(shí)から年老いた現(xiàn)在まで半世紀(jì)以上も時(shí)がゆっくりと流れる中で、自分の真心によって善とは何か、愛(ài)とは何かを示してきたのだと実感した。その瞬間に涙があふれ出たという。(構(gòu)成 / 如月隼人



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