日本僑報(bào)社 2023年12月2日(土) 22時(shí)0分
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病室のベッドの上で変わり果てた故郷を眺めながら「自分の人生に輝きを取り戻したい」そんなことばかり考えていた。資料寫真。
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偶然とは非常に面白いものだ。努力を続け、行動(dòng)を起こせば、たとえ1000キロメートル以上離れていたとしても、必ずその人たちと巡り合うことが出來(lái)る。かつて私はそんな體験をした。今回はそんな出來(lái)事を紹介したいと思う。
【その他の寫真】
この出來(lái)事の発端は2011年丁度東日本大震災(zāi)の前に遡る。私は宮城県の石巻という街で生まれた。幼少時(shí)から柔道を始め、高校、大學(xué)、そして就職も柔道で進(jìn)んでいった。大學(xué)は日本有數(shù)の強(qiáng)豪校である東海大學(xué)柔道部に所屬していた。あの頃の私は順風(fēng)満帆だった。2011年2月、大學(xué)卒業(yè)を目前に控えた私はカナダで開(kāi)催された國(guó)際大會(huì)で優(yōu)勝し、就職先でも競(jìng)技者生活を続け、ゆくゆくはオリンピックで金メダル、そんなことを思い描いていた。
しかし突如発生した東日本大震災(zāi)の影響と同時(shí)期に病を患ってしまった影響でその道を斷念せざるを得ない狀況に陥ってしまった。病室のベッドの上で変わり果てた故郷を眺めながら「自分の人生に輝きを取り戻したい」そんなことばかり考えていた。
転機(jī)は突然訪れた。何となく見(jiàn)ていた外國(guó)映畫の字幕を見(jiàn)て「かっこいい」と思い、退院後は外國(guó)語(yǔ)を真剣に勉強(qiáng)しよう。自分自身に外國(guó)語(yǔ)という武器を身に著けようと考えたのだ。中國(guó)語(yǔ)を選んだのは北京オリンピック後の発展を見(jiàn)てという理由だった。中國(guó)留學(xué)が必要だと考え、家族を説得し、自分で費(fèi)用を払うことを條件に承諾を得た。1年間、住み込みのバイトで留學(xué)資金を貯め、中國(guó)へ旅立ったのだが、留學(xué)手続きを終えた頃、私の元に1本の電話が鳴った。母校、東海大學(xué)柔道部の関係者からだった。
話を聞くと、被災(zāi)地との交流で宮城県に中國(guó)の少年柔道チームが來(lái)るので、顔を出さないか?という內(nèi)容だった。私は即答し、その日を迎えた。會(huì)場(chǎng)に行ってみると私の恩師でもあるJOCの山下泰裕先生が支援をしている「日中友好青島柔道館」が來(lái)ていた。青島の先生たちに來(lái)月から中國(guó)留學(xué)に行く旨を伝えると、留學(xué)先に行く前に一度青島に來(lái)てみないか?というお誘いを受けた。私は即答し、すぐに仙臺(tái)発青島経由のチケットを手配した。
母に仙臺(tái)空港で見(jiàn)送ってもらい青島に到著したのだが、私にとっては初めての中國(guó)。その街の規(guī)模に驚くだけだった。道場(chǎng)に著いてすぐ稽古に參加したのだが、ここで私は得意技の披露と簡(jiǎn)単な技術(shù)指導(dǎo)をし、稽古後、館長(zhǎng)先生から是非道場(chǎng)の指導(dǎo)を手伝ってほしいと言われたので、それから青島と留學(xué)先の延吉を往復(fù)するような生活が始まった。
時(shí)が過(guò)ぎるのはあっという間で卒業(yè)を目前に控えた頃、館長(zhǎng)先生から「ここで一緒に働こう」と持ち掛けられた。私は嬉しくて即答をし、正式に日中友好青島柔道館の日本人コーチに就任した。後日談だが、私がコーチに就任するため、沢山の方の手助けがあったようだ。中でも中國(guó)で名のあるアナウンサー、崔永元さんが多大な協(xié)力をしてくれたようだ。いつか崔永元さんにも恩返しをしたいと思う。
それからは毎日を目まぐるしく過(guò)ごした。夕方から柔道著を著て子供たちと向かい合い、在青島日本國(guó)総領(lǐng)事館と連攜して日本文化の紹介として済南師範(fàn)大學(xué)や青島ジャパンデーで柔道のデモンストレーションを行ったりした。そして日本との交流も積極的に行った。日本人大學(xué)生の短期柔道指導(dǎo)者の受け入れと被災(zāi)地の交流で宮城県を訪れたりした。慣れない青島の生活の中、毎日を一生懸命過(guò)ごしていた。中でも一番印象に殘っているのは日中友好青島柔道館が「日本國(guó)外務(wù)大臣賞」を受賞したことだ。自分の祖國(guó)から表彰を受け、その一員であることが嬉しくて、その日は道場(chǎng)関係者皆で青島ビールを飲んだ。
それから數(shù)年後、私は中國(guó)を離れることになったのだが、青島との関係は今でも続いている?,F(xiàn)在私は仙臺(tái)で會(huì)社員として毎日を過(guò)ごしている。勿論柔道も自身の母校である東海大學(xué)山形高校柔道部の外部コーチとして続けている。中國(guó)でコロナの感染狀況が拡大した時(shí)、私は沢山の物資を青島柔道館へ送った。逆に日本で感染が拡大したころは青島から物資を送ってもらい、母校の柔道部へ寄付したりもした。コロナ終息後はもう一度青島へ行き、中國(guó)柔道協(xié)會(huì)の段位を取得するつもりだ。
こうして始まった私と日中友好青島柔道館の関係。今でも何かできることはないかと日々模索している。先日縁があって中國(guó)大使館とのオンライン交流に參加し、青島柔道館を思い、心に秘めていたことを楊宇臨時(shí)大使に伝えた。以下発言した?jī)?nèi)容である。これを本作文の最後の締めくくりにしたい。
「中國(guó)語(yǔ)を勉強(qiáng)したい、中國(guó)へ留學(xué)したいという新しい目標(biāo)を掲げた私は東日本大震災(zāi)と病気を克服して2013年に中國(guó)に渡りました。當(dāng)時(shí)の私にはいろいろな選択がありましたが、あの時(shí)の選択は私の誇りです。一つは皆の為、皆は一つの為。日中友好を心に掲げる私達(dá)若者世代が五十周年という節(jié)目の年に永世に渡った友好関係の構(gòu)築、相互発展、相互理解、相互學(xué)習(xí)を続けるとこの場(chǎng)を借りて誓いたい?!?/p>
■原題:日中國(guó)交正常化五十周年 ~思いよ屆け青島へ~
■執(zhí)筆者プロフィール:木村吉貴(きむらよしき) 會(huì)社員
1988年宮城県石巻市出身。2011年3月、東海大學(xué)體育學(xué)部武道學(xué)科卒業(yè)。在學(xué)中は柔道部に所屬。卒業(yè)後は一旦就職するが、同年、発生した東日本大震災(zāi)の影響と病気により、退職。病気療養(yǎng)期間中に中國(guó)留學(xué)を志し、2013年に延辺大學(xué)に語(yǔ)學(xué)留學(xué)。在學(xué)中は朝鮮語(yǔ)で教育を受ける。卒業(yè)後は山下泰裕JOC會(huì)長(zhǎng)と崔永元元中國(guó)中央テレビのニュースキャスターが名譽(yù)館長(zhǎng)を務(wù)める日中友好青島柔道館で指導(dǎo)員を務(wù)める。2018年帰國(guó)。帰國(guó)後は母語(yǔ)である日本語(yǔ)と中國(guó)語(yǔ)と韓國(guó)語(yǔ)のトライリンガルであることを強(qiáng)みに仙臺(tái)で旅行業(yè)と通訳翻訳業(yè)に従事。その他、宮城県日中友好協(xié)會(huì)理事、韓國(guó)文化體育観光部海外文化弘報(bào)院名譽(yù)記者を務(wù)め、日中韓の友好を図っている。
※本文は、第5回忘れられない中國(guó)滯在エピソード「驚きの連続だった中國(guó)滯在」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2022年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。
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