シルクロードの語り部による英雄敘事詩の価値を発見、保存に盡力した老研究者の物語

中國新聞社    2023年12月16日(土) 0時(shí)0分

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中國人として最も早く、キルギス族に伝わる英雄敘事詩の「マナス」の研究に取り組んだ92歳の胡振華氏は今も、中央民族大學(xué)の特別招待教授などとして研究や學(xué)生の指導(dǎo)、國際的な交流活動(dòng)に取り組んでいる。

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人類は古くは口伝えで物語を殘した。いわゆる口承文蕓だ。しかし文字が普及すると物語が「書き物」として殘される場合が増えた。今も口承文蕓として殘る代表的な作品の一つがキルギス民族の「マナス」だ。中國人として最も早く「マナス」の研究に取り組んだ胡振華氏は1931年の生まれで、現(xiàn)在は92歳だ。中國メディアの中國新聞社はこのほど、胡振華氏の歩んだ道を紹介する記事を発表した。以下は、説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。

その他の寫真

驚愕的な語學(xué)能力、現(xiàn)地入りして牧畜民と生活

胡振華氏は學(xué)生時(shí)代にアラビア語、英語、ロシア語、ウイグル語を?qū)Wんだ。仕事を始めてからはキルギス語、モンゴル語、トルコ語、フランス語、日本語、さらに中國南部の少數(shù)民族であるワ族のワ語、イ族のイ語なども學(xué)んだ。

最初に本格的に學(xué)んだのはアラビア語だった。胡氏は山東省內(nèi)の金嶺回族鎮(zhèn)という小さな街の出身だ?;刈澶趣膝ぅ攻楗嘞得褡澶我护膜坤?、日常會(huì)話は中國語であり、容貌も多くの場合には東アジアの民族と変わりない。しかし遠(yuǎn)い先祖はアラビア商人などで、中國に定住して混血などを繰り返したとされる。子ども時(shí)代の胡氏は、晝間は學(xué)校に通い、放課後にはモスクに行ってアラビア語を?qū)Wんだ。

1949年には華東大學(xué)に入學(xué)をしてロシア語を?qū)Wび始めた。1951年には推薦されて中央民族學(xué)院(現(xiàn)?中央民族大學(xué))に移りウイグル語を?qū)Wんだ。1953年には繰り上げ卒業(yè)して、大學(xué)に殘って教職に就いた。しばらくして、著名な人類學(xué)者?民族學(xué)者だった同學(xué)院の費(fèi)孝通副院長が、中國南部に暮らすワ族の調(diào)査をすることになった。胡氏は費(fèi)副院長の助手となり、ワ語を?qū)Wんで教材を作り、ワ語のクラスを開設(shè)した。

1953年12月には新疆のイリに派遣されてキルギス語を?qū)Wび、翌5月末から新疆南部のキルギス族が暮らす広大な牧畜區(qū)で言語のフィールド研究をした。1年間にわたって馬に乗り、ラクダに乗り、あるいは徒歩でパミール高原や天山の南北を行き來した。フェルトの家で寢泊まりし、牛や羊を放牧したり地元の結(jié)婚式や葬式、競馬などに參加した。

胡氏は現(xiàn)地での経験について、「牧畜民が結(jié)婚や家畜が収獲の祝いの場で『マナスチ』という民間蕓人招いて歌ってもらいます」と説明した?!弗蕙圣攻痢工趣?、長編敘事詩の「マナス」の語り部を指すが、実際には節(jié)回しをつけて歌う。當(dāng)時(shí)の胡氏は聴いても內(nèi)容が分からなかったが、聴いている人々が笑ったり、まじめな顔つきになるのを目の當(dāng)たりにした。その後、演目は「マナス」という壯大な敘事詩だったと知った。

「マナス」とは、伝説の英雄の「マナス」とマナスの子孫の計(jì)8代の英雄が、攻めて來た敵と戦って故郷を守った物語で、10世紀(jì)に形成され始め、16-17世紀(jì)に定型化された。

細(xì)かな心遣いで「語り部」が心を開く

當(dāng)時(shí)の胡氏は、「マナス」についての知識(shí)はまだ不足していたが、その大きな文化的価値を敏感に察知した。胡氏は「マナス」について、「単なる言語や文學(xué)の研究材料ではなく、哲學(xué)的な教えを得られる點(diǎn)がたくさんあります。また、民族史の研究にとっては百科事典です」と説明した。

胡氏は1957年に中央民族學(xué)院でキルギス語學(xué)習(xí)クラスを開設(shè)し、3年後には學(xué)生を連れて新疆のウルグチャト県に行き、現(xiàn)地のマナスチを訪ねて回り、「マナス」の內(nèi)容の一部を記録した。するとある牧畜民が、アクチ県には4日連続で「マナス」を歌える偉大なマナスチがいると教えてくれた。胡氏がギュソプ?ママイ氏と出會(huì)うきっかけだった。

胡氏がそれまでに接觸した70人余りのマナスチは、ほとんどが1部から3部までしか歌えなかったが、ギュソプ?ママイ氏は全8部を歌えた。胡氏はギュソプ?ママイ氏をアルトゥーシュ市に招いて歌ってもらうことにした。

ギュソプ?ママイ氏は何時(shí)間も連続して歌い続けた。當(dāng)時(shí)の中國は物資が極めて乏しく、胡氏は録音機(jī)材を使えなかった。そのため、記録係が懸命に歌詞を聴いて筆記した。記録係が疲労困憊(こんぱい)して交代しても、ギュソプ?ママイ氏はそのまま朗々と歌い続けた。胡氏は半年余りの間に取材を繰り返し、「マナス」の第5部まで記録した。敘事詩はいずれも韻文から成っている。胡氏の記録はそれまでを大きく上回る9萬6800行に達(dá)した。

胡氏が「マナス」の保存に危機(jī)感を持ったのは1978年だった。北京で新疆の文蕓団體や民間蕓能人と交流した際に、かつて「マナス」を記録させてもらったマナスチの一人が亡くなったと知ったのだ。胡氏は改めてギュソプ?ママイ氏に會(huì)って、「マナス」の記録と研究を再開することにした。

胡氏はその年の冬に新疆に行ってギュソプ?ママイ氏を探し出した。やがて二人は北京行きの飛行機(jī)に乗り込んだ。中央民族學(xué)院で設(shè)立された「マナス」作業(yè)部會(huì)では、胡氏がチーム長を務(wù)めた。胡氏はギュソプ?ママイ氏の生活を落ち著かせることが必要と考えた。まず、ミルクティーや羊骨スープなど、故郷の味を楽しめるようにした。さらに、使いやすい入れ歯を作るなどもした。ギュソプ?ママイ氏にはそれまで、「マナス」の全てを披露することをためらう気持ちもあった。全8部を歌えるのに5部にとどめたのはそのためだ。

しかしギュソプ?ママイ氏は北京での生活を通じて胡氏らに完全に心を開き、「マナス」の全ての記録を後世に殘せないのでは、國に対して申し訳ないとも考えるようになった。

こうして1984年から1995年にかけて、ギュソプ?ママイ氏が歌ったキルギス文の「マナス」全8部の出版が完了した?!弗蕙圣埂工?006年に國家級(jí)無形文化遺産第1期リストに登録された。2009年にはユネスコの「人類無形文化遺産代表作リスト」に登録された。

対外交流にも盡力、友好と信頼を育成

胡氏は交流における言葉の役割を非常に重視している。「言葉ができると友達(dá)がたくさんできる」との考え方だ。だから胡氏は、自分が滯在することになった土地の言葉は必ず學(xué)んできた。

中國は1980年代から學(xué)術(shù)分野の國際交流を加速させた。胡氏は専門分野の交流を通して海外に中國を紹介する一方で、広く友人を作った。胡氏は過去40年かにわたりトルコ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、ロシア、タイ、サウジアラビア、中央アジア5カ國などに赴き、講義や國際會(huì)議への出席、さらに友好交流を行ってきた。

胡氏の活動(dòng)は、中央アジア諸國の學(xué)術(shù)分野にも恩恵をもたらした。キルギス族はキルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、アフガニスタンなどにも分布している。それぞれの土地で「マナス」は歌われているが、多くは最初の3部しか記録されていない。胡氏による全8部の記録は、これらの國々の歴史や文化を研究する上で貴重な資料になった。

胡氏は1970年代に「史記」などの古い文獻(xiàn)を通じて、キルギス人の2000年以上の歴史を整理した。胡氏の主張は各地で歴史學(xué)の主流の観點(diǎn)と認(rèn)められた。2002年のキルギス歴史國際シンポジウムでは、キルギス大統(tǒng)領(lǐng)自らが胡氏に「マナス」研究の功績により勲章を授與した。

胡氏は研究を通じて、前漢の張騫(? - 紀(jì)元前114年)がシルクロードに赴いた際に、現(xiàn)在の新疆にある杏谷の良質(zhì)なアーモンドを中央アジアのバクトリアとソグディアナに贈(zèng)ったという記録を知った。この2國はまさに現(xiàn)在のタジキスタンだ。2005年にタジキスタン駐中國大使になったラシド?アリモフ氏は、就任直後に胡氏を訪ねた。アリモフ大使は「就任に際して歴史的な恩返しをしたい」と言って、タジキスタンから持ち寄った125本のアーモンドの苗木を贈(zèng)呈した。胡氏の仲介により、苗木は北京農(nóng)學(xué)院の実験農(nóng)場に植えられて「中國タジキスタン友好アーモンド樹」と呼ばれるようになった。そして5年後には開花して結(jié)実するようになった。

92歳のじいさんだけど、まだボケてはいないよ

胡氏は90歳を超えても耳は遠(yuǎn)くなっておらず、腰も曲がっていない。頭脳も明晰(めいせき)でしっかりとした口ぶりだ。そして自ら「92歳のじいさんだけど、まだボケてはいないよ」と言って笑う。

胡氏の教え子によると、胡氏は早い時(shí)期からパソコンを使っていた。今でもパソコンを使って書類やスライドショーを作成したり、電子メールの送受信をする。

胡氏は2004年に中央民族大學(xué)を定年退職したが、そのまま「特別招待教授」に任命され、研究と教育を続けている。また、中國政府の國務(wù)院発展研究センターの研究員としてキルギス、アゼルバイジャン、トルクメニスタンなど海外にしばしば出かけて、交流活動(dòng)を行ってきた。胡氏は「私にはまだ熱気があります。まあ熱いと言っても、體溫は40度か50度止まりですかね」などと言ったりもする。

胡氏への取材中には、トハナルさんというキルギス族の若者がそばで靜かに話を聞いていた。トハナルさんは3歳の時(shí)から曾祖父のギュソプ?ママイ氏が大勢(shì)の人に「マナス」を歌うのを聴いて育った。6歳の時(shí)に「マナス」を?qū)Wび始めて7歳の時(shí)に舞臺(tái)で演じた。そのトハナルさんが今は、博士課程の學(xué)生として胡氏の指導(dǎo)を受けている?!弗蕙圣埂工·瓿证盲?、実に味わい深い人の縁だ。(構(gòu)成 / 如月隼人



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