中國(guó)新聞社 2024年1月21日(日) 23時(shí)0分
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中國(guó)で最も古い文字は漢字の「先祖」である紀(jì)元前1300年ごろに出現(xiàn)した甲骨文字とされてきたが、それより古い「刻符黒陶罐」に刻まれた記號(hào)にも文字の性格があった可能性があるという。寫(xiě)真は刻符黒陶罐。
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中國(guó)文明の大きな特徴の一つが漢字の発明と使用だ。古代エジプトのヒエログリフ(象形文字)やメソポタミアの楔形(くさびがた)文字が「忘れられた文字」になってしまったのに対して、漢字は現(xiàn)在も盛んに使われている。中國(guó)で最も古い文字は漢字の「先祖」である紀(jì)元前1300年ごろに出現(xiàn)した甲骨文字とされてきたが、良渚博物院(良渚研究院)の馬東峰執(zhí)行院長(zhǎng)によると、長(zhǎng)江流域に紀(jì)元前3500年ごろから同2200年ごろまで続いた良渚文化では、甲骨文字とは別系統(tǒng)の文字がさらに古い時(shí)期に使われていた可能性が高いという。以下は馬執(zhí)行院長(zhǎng)による良渚文化と文字についての説明に、若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫(xiě)真】
良渚遺跡で出土した品は多く、記號(hào)が示されている文化財(cái)は1000點(diǎn)以上ある。しかし、記號(hào)を確認(rèn)できる上に完全に保存されている陶器は非常に珍しい。浙江省杭州市余杭區(qū)で見(jiàn)つかった「刻符黒陶罐」は保存狀態(tài)が完全で12の記號(hào)がまとめて刻まれている點(diǎn)で極めて重要だ。発見(jiàn)のきっかけは、南湖という湖の漁業(yè)関係者が1985年に、副業(yè)として砂の採(cǎi)取をしていたことだった。陶器などを掘り當(dāng)てたのだ。そして湖底の砂の層からは陶器や石器100點(diǎn)以上が出土した。「刻符黒陶罐」が埋まっていた地層は確認(rèn)できなくなってしまったが、形狀の分析から良渚文化期のものと分かった。
なぜ南湖底に埋まっていたのかについてはさまざまな推測(cè)がある。一つは「副葬品説」だ。もともとは水路の近くの墓に埋葬されていたが、水路の位置が変わったために水流に流されて南湖の底に至ったという考え方だ。それ以外には「祭禮用品説」がある。良渚人は祭禮儀式を行った後、儀式の一環(huán)として最後にこの陶器を南湖の水に沈めたという説だ。その根拠は、墓から出土した古い時(shí)代の陶器の多くは墓室が崩壊したり焼成溫度が高くなくて頑丈でないなどで、保存狀態(tài)が悪いからだ?!缚谭\陶罐」が完全に保存されたのは、長(zhǎng)期にわたり湖底の砂にうずもれていたからだ。
「刻符黒陶罐」の12個(gè)の記號(hào)の意味については、まだ定説がない。甲骨文字の知識(shí)をもとに読み解いた學(xué)者もいるが、その後は良渚文化で見(jiàn)られる記號(hào)については、例えば「王」、「土」、「五」など甲骨文字と形がよく似ている場(chǎng)合があるが、甲骨文字とは系統(tǒng)が違っており、甲骨文字の解読方法では「刻符黒陶罐」を読み解けないとの見(jiàn)方が強(qiáng)まった。
良渚文化の「記號(hào)」の意義については、早い時(shí)期から議論があった。1930年代にはすでに、「初期の文字」などと主張する研究者もいた?,F(xiàn)在ではおおむね、「まだ本當(dāng)の意味での文字ではないが、原始的な文字と見(jiàn)なすことができる」というと考えられている?!袱蓼辣井?dāng)の意味での文字ではない」というのは、文字には「音に対応」、「形に規(guī)範(fàn)がある」、「意図を解読できる」という必須要件があるが、良渚文化の刻印記號(hào)は、これらの要件を満たすと証明できていないからだ。
良渚古城遺跡で出土した陶器の壺などに刻まれた記號(hào)は花、鳥(niǎo)、エビ、ワニ、あるいは一口かじったリンゴのような形で、単體で描かれている場(chǎng)合が多い。そのため、単に適當(dāng)に描いただけの可能性は排除できない。一定の意味を持っていた可能性はもちろんある。例えば住人がよく食器の碗を貸し借りしていたと仮定しよう。そして自分の碗と他人の碗の見(jiàn)分けがつくように「張さんは竹の模様を、李さんは花の模様を刻んでおいた」とする。これでは事情を知らない人が見(jiàn)たのでは、竹の模様と花の模様が何を意味するのか分からない。まして、後世の人が見(jiàn)ても意味を理解できるわけがない。そのような模様なり記號(hào)なりの使い方では「意味が広く共有されている」とは認(rèn)められない。つまり、まだ「文字」とは言えないわけだ。
しかし私は、良渚人は文字を使っていたはずと信じている。例えばわれわれは、刻印黒陶罐の他にも良渚文化の考古學(xué)作業(yè)において、複數(shù)の刻印記號(hào)が意図的に組み合わせて並べられている出土品を入手した。平湖荘橋墓遺跡で出土した石製のまさかりには、畫(huà)數(shù)が同じで、組み合わせが異なる刻印があった。このことは、良渚人が類似した記號(hào)の異なる意味を見(jiàn)分けることができたことを示している。つまり、これらの記號(hào)には多くの人が認(rèn)める「意味」が存在したはずだ。文字の根本的な性質(zhì)から考えて、それらの刻印は原始文字と言えるのではかろうか。
また、當(dāng)時(shí)の良渚社會(huì)はすでに非常に複雑な社會(huì)だった。市街地に相當(dāng)する良渚古城は630ヘクタール余りで、その外郭水利工事は中國(guó)最古の大型水利工事だった。良渚古城遺跡の內(nèi)外には莫角山、亀山、獅子山、塘山など多くの山があるが、それらの山は、自然の地形を利用した上で人工的に積み上げられたものだ。さまざまな建設(shè)工事のためには大きな動(dòng)員力が必要だった。
遺跡の分布狀況に基づいて試算すると、工事のために1人の労働力を確保するためには、その背後に少なくとも5-6人による農(nóng)業(yè)生産が必要だったと分かった。良渚古城には1萬(wàn)-2萬(wàn)人しか住んでおらず、古城とその施設(shè)の建設(shè)には市外の人を動(dòng)員する必要があったはずだ。遠(yuǎn)隔の地からの動(dòng)員には情報(bào)伝達(dá)などの問(wèn)題もあり、文字がなければ実行できなかったはずだ。
ただし、良渚の「刻まれた記號(hào)」が文字だったとしても、解読はできていない。手がかりがないからだ。たとえば、古代メソポタミアでは、最も早く文明を築いたシュメール人の楔形文字を解読する場(chǎng)合でも、文字を刻んだ粘土板が大量に殘されていた。良渚文化では、記號(hào)の刻印がある出土品があまりにも少ない。もしもある日、良渚人の原始文字が大量に見(jiàn)つかれば、それが「解読の手引き書(shū)」となって、全てが明らかになると信じる。
良渚の刻印記號(hào)の発見(jiàn)は、中華文明の多元的で一體的な特徴も示している。というのは、中國(guó)には複數(shù)の文字の系統(tǒng)が存在した可能性が出てきたからだ。それぞれの地域の文化が自らの文字を持っていた可能性が高まった。ただ、ある地域の文化は歴史の過(guò)程で消滅してしまったので、その文化で使われていた文字も歴史の深い闇の中に消えててしまったと思われる。いずれにせよ、中國(guó)では文字の発展が「一本道」をそのまま歩んだのではなく、多元性や多様性が交錯(cuò)する複雑な過(guò)程だった可能性が高いと考えられるようになった。(構(gòu)成/如月隼人)
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