中國(guó)新聞社 2024年1月29日(月) 21時(shí)30分
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明代に生きた王陽明が興した陽明學(xué)は、日本の幕末の志士の多くが心酔したことで知られる。つまり中國(guó)だけでなく日本にも大きな影響を及ぼした思想だ。寫真は王陽明の住居跡の記念施設(shè)。
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儒學(xué)のさまざまな學(xué)派の中でも、明代に生きた王陽明(1472-1529年)が興した陽明學(xué)は、日本の幕末の志士の多くが心酔したことで知られる。陽明學(xué)が唱える、知(知ること)と行(行うこと)を一致させる「知行合一」は、明治維新の原動(dòng)力になったとも言えるほどだ。つまり陽明學(xué)は、中國(guó)でなく日本にも大きな影響を與えた。儒教や明代の禮制の研究を?qū)熼Tとする揚(yáng)州大學(xué)の陳士銀準(zhǔn)教授はこのほど、この陽明學(xué)や當(dāng)時(shí)の中國(guó)の儒教が歩んだ道を紹介する文章を寄稿した。以下は陳準(zhǔn)教授言葉に若干の説明內(nèi)容を追加するなどで再構(gòu)成したものだ。
【その他の寫真】
王陽明は儒者であると同時(shí)に希代の名將でもあった。明代を通じても、さらには中國(guó)の儒學(xué)史を通じても、このような人物は極めてまれだ。そして王陽明の「陽明心學(xué)」は、硬直化した朱子學(xué)の狹い穴から儒學(xué)を再び引き出して、命を改めて吹き込んだ。
儒學(xué)にははもともと、文武兼?zhèn)浃尉瘠ⅳ盲郡?、明代中期になると儒者は「文」を重んじ「武」を軽んずるようになっていた。儒教ではもともと、修めるべき技能として「六蕓」が掲げられており、その中には矢を射る「射」や、馬車を扱うことや軍事行進(jìn)の術(shù)である「御」も含まれていた。しかし明代の儒者は「読書の徒」になってしまった。王陽明は宮廷で正論を唱えたために宦官に迫害されて、宿場(chǎng)の役人に「飛ばされた」ことがあった。その際に、自らの石棺を作り、中に橫たわって死と人生、儒者としてあるべき姿を考えた。
當(dāng)時(shí)の儒者は、まず「知」がなければ正しい「行」はできないと考えていた。しかし往々にして、生涯にわたって何の「行」もしないことになった。王陽明は、それでは一生にわたって「知」を得られなかったことになると考え、知識(shí)と行動(dòng)を分離してはならないという「知行合一」の考えに至った。
王陽明は、現(xiàn)実から乖離(かいり)して「良知の學(xué)」に浸る儒者の生き方を否定して、自らが甲冑をまとって出征して、長(zhǎng)年にわたりのさばっていた盜賊を平定し、反亂を起こした諸侯を平らげて、國(guó)を危難から救った。王陽明のこの行為は「知行合致」の実踐と言えるだろう。
しかし王陽明は、まだ満足できなかった。彼は、下層民が苦しい耕作に耐えるしかなく、下級(jí)兵士が次々に命を失う現(xiàn)実を見た。そして、下級(jí)庶民にも儒者に劣らない點(diǎn)があるはずと考えて思索を続けた。つまり王陽明には階級(jí)の差を打破する発想があった。そして最終的に、人に共通するのは「良知」との結(jié)論を得た。父を前にすれば自然に「孝」の心を持ち、兄に対しては「弟」としての気持ちを持つ。幼い子が井戸に落ちて死ねば、自然に「何と哀れなことか」と感じる。これこそが人の心の本質(zhì)と考えた。
しかし問題はまだあった。どうして邪悪な者が出現(xiàn)するのかということだ。王陽明はそこで「良知に至る動(dòng)き」を考えた。人の心に良知は常に存在するが、さまざまな外因によって良知が覆われてしまうことがあると考えた。王陽明の考えは畫期的だった。まず、朱子學(xué)を信奉する當(dāng)時(shí)の儒者には、「知のエリート」の色彩が濃厚だった?!钢工虻盲毪长趣霭k點(diǎn)だからだ。しかし王陽明は、知のエリートでも文字を読めない庶民でも立場(chǎng)は同じで、覆い隠された良知に到達(dá)でき、良知を回復(fù)できれば、だれでも聖人になると考えた。
儒學(xué)は封建王朝に奉仕するための道具だったという見方もある。しかし、漢、唐、宋、元、明、清などの王朝を見ても、その壽命はたかだか數(shù)百年だ。しかし儒學(xué)の伝統(tǒng)は継続している。一つの王朝が滅亡しても、次の王朝は儒學(xué)を採(cǎi)用した。儒學(xué)は孔子から數(shù)えて2000年以上も続いているが、これは決して偶然や幸運(yùn)によるものではない。
儒學(xué)の生命力の源泉にはまず、例えば孝、悌、忠、信、禮、義、廉、恥の言葉で代表される、中國(guó)人の伝統(tǒng)的な価値観と合致していることがある。しかしそれだけではなく、時(shí)代ごとに鄭玄、韓愈、朱熹、方孝孺、王陽明、顧炎武などの傑出した儒者が出現(xiàn)し、さらに多くの儒者が自己革新と時(shí)代への適応を行ってきたことが重要だ。漢、唐、宋、元の儒學(xué)にはそれぞれの特徴があり、同じ王朝內(nèi)であっても、例えば明代初期、明代中期、明代後期で儒學(xué)には、それぞれ異なる特徴がある。
明代初期の儒者は朱子學(xué)の確固たる信者だった。明代中期には陽明學(xué)の臺(tái)頭があってた。明末には、朱子學(xué)とも陽明學(xué)とも違う道が模索されるようになった。明の滅亡後には黃宗羲や顧炎武が、明代の儒學(xué)を大いに反省して、革命あるいは民主の色彩がある言説を展開した。彼らの君主専制に対する反発や民衆(zhòng)の幸せの重視は、同じ時(shí)代の西洋の思想家のホッブスやロックに引けを取らない。
當(dāng)時(shí)の社會(huì)狀況にあって、儒者はそのような理想を?qū)g現(xiàn)することができなかったが、19世紀(jì)末から20世紀(jì)初頭に至ると、梁?jiǎn)櫝?a target='_blank' href='http://www.wenhuatang.com/search.php?filter=孫文'>孫文、李大●(●は金へんにりっとう)などの思想の巨人が出現(xiàn)し、明代から殘されていた儒學(xué)の思想は再び生気を増して、清朝政府を打倒する精神の支えになった。
百歩譲って、儒學(xué)には封建王朝の安定を支えるための道具になった面があったとしても、儒學(xué)は同時(shí)に「湯武革命」、すなわち「自らの不徳によって天命を失った王朝は打倒されてしかるべき」という思想を持つ。封建王朝は儒學(xué)を利用し、場(chǎng)合によっては弾圧したように見えるが、実際には儒學(xué)は封建王朝よりはるかに粘り強(qiáng)い生命力があった。
ここで一つの疑問が出て來る。強(qiáng)大な生命力を持つ儒教がなぜ、「海外進(jìn)出」しなかったかということだ。儒教だけでなく、中國(guó)文化の海外進(jìn)出は極めて遅かった。
西洋諸國(guó)が大航海時(shí)代に突入したのは15世紀(jì)半ばだった。當(dāng)時(shí)の中國(guó)は経済力からしても、軍事力、あるいは技術(shù)力からしても、海外進(jìn)出が十分にできた。例えば鄭和がアフリカ東海岸にまで至る大航海を?qū)g施したのは、1405年から1430年にかけてだ。鄭和の大航海については、全長(zhǎng)131メートルの船62隻が船団を組んだとの記録がある。一方で、1492年に大西洋を橫斷して米大陸側(cè)のカリブ海の島に到達(dá)したコロンブスの船団の船はわずか4隻だった。明王朝はその気になれば、西洋の國(guó)よりも早く、アジアやアフリカ、さらには歐州まで進(jìn)出して拠點(diǎn)を築き、支配を拡大できたはずだ。しかし、中國(guó)人はそうしなかった。なぜか。
まず、儒教の主流の考え方に合わなかったことを挙げられる。儒家は穏健な思想の持主だ。例えば、論語には「遠(yuǎn)き人が服さざれば、すなわち文徳を修め、もってこれを來たしめる」(季氏)という文句がある?!高h(yuǎn)方の人々が自らに従わなくても、従屬を強(qiáng)要するのではなく、自らの文化と徳を高めて、人々がこちら側(cè)を慕って自然にやって來るようにすべきだ」という考えだ。「従わなければ艦隊(duì)を派遣して征服する」でもなく、「従わなければ奴隷にして売り飛ばす」でもない。つまり儒教の思想體系には「拡張の遺伝子」がなかった。
しかし儒教の考え方に、國(guó)の安定を保つ上での欠落があったのは事実だ。自らが進(jìn)出しなくても、相手が來てこちらを蠶食する可能性は殘るからだ。その後の歴史を見れば、列強(qiáng)諸國(guó)は中國(guó)を完全に植民地化することまではできなかったが、中國(guó)を大いに蠶食することになった。中國(guó)では皇帝から重臣、さらにその下の士大夫も、西洋からもたらされた地図や艦砲、時(shí)計(jì)、天文機(jī)器の精妙さを知ったが、船を出して中國(guó)人自身でさらに詳しく知ろうとする動(dòng)きは発生しなかった。中國(guó)の外の世界の動(dòng)きに、強(qiáng)い関心は持たなかった。
多くの中國(guó)人の目には、自國(guó)が極めて安寧な土地であるように映った。実際に當(dāng)時(shí)の中國(guó)は世界で最も富強(qiáng)で繁栄した國(guó)だった。そこで、何萬里も離れた蠻夷の國(guó)まで、苦しい航海をしてまでたどり著く必要はないと考えた。
西洋では、対外進(jìn)出が列強(qiáng)間の競(jìng)爭(zhēng)になった。ローマ教會(huì)も、対外進(jìn)出を支持した。でなければ、マテオ?リッチのような宣教師が明にやってくることもなかったはずだ。一方の中國(guó)は、鄭和の大航海以降は海外から手を引いてしまった。1603年にはスペイン植民者がルソンで中國(guó)人商人を2萬人以上も虐殺した。清朝宮廷は激しく非難したが、1兵も派遣することはなかった。
西洋ではその後、啓蒙運(yùn)動(dòng)が盛んになった。啓蒙運(yùn)動(dòng)については、人々の思想を開放し、自由や民主、平等の考えを促進(jìn)したと、プラス面が評(píng)価されることが多い。しかし本當(dāng)にそれだけだったのかどうかは、考える必要がある。弱者を抑圧し、専制的支配を試み、不平等な狀態(tài)が出現(xiàn)したからだ。特に非西洋の社會(huì)に対しては、ひどかった。啓蒙運(yùn)動(dòng)により、宗教的寛容や宗旨が異なっても平和共存する考えが強(qiáng)まった。しかし絶え間ない競(jìng)爭(zhēng)や絶え間ない爭(zhēng)いにより、世界が分割され多くの社會(huì)が破壊された側(cè)面があったと言えるかもしれない。
17世紀(jì)半ばの中國(guó)に話を戻せば、王朝が交代しても、知識(shí)層は自らの伝統(tǒng)を最大限に尊重する姿勢(shì)を崩さなかった?,F(xiàn)代のわれわれが得られる教訓(xùn)とは、「伝統(tǒng)を尊重する」が何を意味するかを、しっかりと認(rèn)識(shí)することだ。すなわち、「伝統(tǒng)を尊重する」ことは、「伝統(tǒng)をひたすらそのまま守る」こととは違うということだ?!竵唤y(tǒng)を真に尊重する」とは、理性をもって伝統(tǒng)と向き合い、必要があれば伝統(tǒng)を改革し、そのことで新たな伝統(tǒng)の命を育むことだ。そのためにはやはり「知行合一」の考え方が有効だ。(構(gòu)成 / 如月隼人)
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