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映畫(huà)「オッペンハイマー」と無(wú)條件降伏=改めてルーズベルトの遺産の大きさを思う

長(zhǎng)田浩一    2024年4月9日(火) 7時(shí)30分

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3月の米アカデミー賞で作品賞はじめ7部門(mén)に輝いた映畫(huà)「オッペンハイマー」は被爆國(guó)日本だからこそ広く見(jiàn)られるべき映畫(huà)だと思う。寫(xiě)真は広島の原爆ドーム。

今年3月の米アカデミー賞で作品賞はじめ7部門(mén)に輝いた映畫(huà)「オッペンハイマー」を鑑賞した。原子爆弾の父とも呼ばれた物理學(xué)者ロバート?オッペンハイマーが主人公である上、広島?長(zhǎng)崎の被爆の実態(tài)が映像化されていないなどとして、日本での公開(kāi)が危ぶまれた時(shí)期もあった。しかし、原爆製造の経緯と、投下後に自責(zé)の念にかられる主人公の姿がしっかり描かれており、私は感銘を受けた。被爆國(guó)日本だからこそ、広く見(jiàn)られるべき映畫(huà)だと思う。

「ドイツにも落としたかった!」

この作品では、登場(chǎng)人物のセリフの中に何度も「ヒロシマ」「ナガサキ」という名詞が登場(chǎng)する。スティムソン陸軍長(zhǎng)官が、自身が訪問(wèn)したことのある素晴らしい古都という理由で京都を目標(biāo)リストから外す場(chǎng)面も印象深い。日本人としては、これらのシーンではナーバスにならざるを得ないが、映畫(huà)全體としては原爆投下を稱(chēng)賛したり肯定したりするものではなく、まして反日映畫(huà)では全くない。未見(jiàn)の方には、ぜひ先入観なく鑑賞していただきたいと思う。

むしろ、ドイツ人の方がこの映畫(huà)に複雑な感情を抱くのではないか。何しろマンハッタン計(jì)畫(huà)(米國(guó)の原爆開(kāi)発プロジェクト)は、ナチスドイツより早く原爆を製造することを目指したものであり、ユダヤ系のオッペンハイマーにとっても「敵」はナチスだったからだ。広島への投下後、ロスアラモス(原爆の開(kāi)発拠點(diǎn))の講堂でオッペンハイマーを稱(chēng)賛する科學(xué)者たちを前に、彼は「ドイツにも落としたかった!」と叫ぶ (この直後、彼は人々が原爆の炎に包まれる幻影を見(jiàn)る。衝撃的な映像だ)。この叫びが事実に基づいているとしたら、オッペンハイマーの真意は何だったのか。

一點(diǎn)だけ日本人としての不満を言えば、マンハッタン計(jì)畫(huà)の軍の責(zé)任者だったグローブス將軍が、主人公を理解し、サポートする「良い人」として描かれている點(diǎn)だ。終盤(pán)、スパイ容疑がかけられたオッペンハイマーに対する聴聞會(huì)が開(kāi)かれた際には、彼を擁護(hù)する証言を行い、退出する際に頷き合う。しかし私たちは、グローブスが日本の都市への原爆投下を強(qiáng)く主張し、スティムソンが京都を目標(biāo)リストから外した後も、候補(bǔ)都市として復(fù)活させようとした事実を知っている。広島は軍事拠點(diǎn)だとして、一般市民の犠牲は最小限にとどまるとトルーマン大統(tǒng)領(lǐng)らに説明したという説もある。映畫(huà)の流れからすればグローブスの描き方は理解できるのだが、私個(gè)人としては引っかかるものがあった。

死に體の日本になぜ原爆を?

それにしても米國(guó)はなぜ、すでに死に體となっていた日本に原爆を投下したのだろうか。東京大空襲をはじめ日本の各都市への絨毯爆撃を指揮した陸軍航空隊(duì)のカーチス?ルメイ將軍は、戦後「もし戦爭(zhēng)に負(fù)けていたら、自分は戦爭(zhēng)犯罪人として裁かれていただろう」と語(yǔ)ったという。通常爆弾や焼夷弾での絨毯爆撃が戦爭(zhēng)犯罪なら、原爆投下が戦爭(zhēng)犯罪になるのは當(dāng)然であり、それを分かった上で実行したのはなぜなのか。

話は橫道にそれるが、このルメイ將軍に対し、日本政府は1964年、勲一等旭日大綬章を授與している。航空自衛(wèi)隊(duì)の育成に大きく貢獻(xiàn)したためということだが、戦爭(zhēng)が終わってまだ19年、多くの人が東京大空襲などを生々しく記憶していた時(shí)代だ。その中心人物に高位の勲章を與えるというのは、どういうことなのか。當(dāng)時(shí)の國(guó)民感情はそれを許したのか。容易には理解しがたい決定だ。

話を戻せば、原爆投下の理由としてはいくつかの要因が挙げられている。降伏勧告(ポツダム宣言)に応じない日本を早期に降伏させるため。戦後、強(qiáng)大なライバルになることが確実なソ連に原爆の威力を見(jiàn)せつけるため。巨額の予算を投じて開(kāi)発した新兵器を使用しなければ、無(wú)駄遣いと批判される恐れがあったため。偉大なルーズベルト大統(tǒng)領(lǐng)の急死で急きょ副大統(tǒng)領(lǐng)から昇格したトルーマンが、自らの実行力を誇示したかったため、などだ。私はそれらに加え、米國(guó)など連合國(guó)が戦爭(zhēng)目標(biāo)に掲げた無(wú)條件降伏政策が、原爆投下を正當(dāng)化する背景になったと考える。

全面勝利へ手段を選ばず

私は若いころ、第二次世界大戦での日本やドイツのように、戦爭(zhēng)とは無(wú)條件降伏で終わるものと思い込んでいた(この両國(guó)の降伏の仕方は実はずいぶん違うのだが、ここでは觸れない)。ところがちょっと調(diào)べればわかることだが、近代以降の大國(guó)間の戦爭(zhēng)で、無(wú)條件降伏はレアケース。大勢(shì)が判明した段階で休戦協(xié)定を結(jié)び、領(lǐng)土の割譲や賠償金などの條件交渉を行い、講和(平和)條約を結(jié)んで終結(jié)するというのが一般的だ。ところが、第二次大戦中の1943年1月、ルーズベルト米大統(tǒng)領(lǐng)は日獨(dú)伊の樞軸國(guó)に対し無(wú)條件降伏を要求する方針を発表。英國(guó)やソ連のほか、米國(guó)の政府や軍部にも異論があったが、ルーズベルトが押し切る形で連合國(guó)の一致した政策になった。

チャーチル英首相や米軍幹部らは、樞軸國(guó)が無(wú)條件降伏要求に反発して徹底抗戦の意思を固め、戦爭(zhēng)が激化?長(zhǎng)期化して犠牲者も増えることを懸念したという。実際、ドイツと日本についてはそうなった。そして、死に物狂いで抗戦する樞軸國(guó)に対し、連合國(guó)は徹底的な破壊で応じることになる。米國(guó)の日本研究家ケネス?パイル氏は、著書(shū)「アメリカの世紀(jì)と日本」で、「原爆使用の決定は、無(wú)條件降伏政策と切り離すことができない」と指摘している。激しい抵抗を排して無(wú)條件降伏という全面勝利を得るためには、どんな手段、兵器を使っても許されるという考えが広がり、それが民間人を目標(biāo)とした日獨(dú)諸都市への徹底的な爆撃、ひいては原爆投下決定を後押ししたというわけだ。

無(wú)條件降伏政策を主導(dǎo)しただけでなく、マンハッタン計(jì)畫(huà)を承認(rèn)したのもルーズベルト。そして戦後、連合國(guó)軍最高司令官総司令部(GHQ)で日本占領(lǐng)政策の中心となったのは、彼の薫陶を受けたニューディーラーと呼ばれる行政マンたちだった。ルーズベルトが日本に殘したインパクトは、一般的に認(rèn)識(shí)されているよりさらに大きいのではないか。映畫(huà)「オッペンハイマー」を見(jiàn)ながら、そんなことを考えた。

■筆者プロフィール:長(zhǎng)田浩一

1979年時(shí)事通信社入社。チューリヒ、フランクフルト特派員、経済部長(zhǎng)などを歴任?,F(xiàn)在は文章を寄稿したり、地元自治體の市民大學(xué)で講師を務(wù)めたりの毎日。趣味はサッカー観戦、60歳で始めたジャズピアノ。中國(guó)との縁は深くはないが、初めて足を踏み入れた外國(guó)の地は北京空港でした。

※本コラムは筆者の個(gè)人的見(jiàn)解であり、RecordChinaの立場(chǎng)を代表するものではありません。

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