<日本人の忘れられない中國(guó)>10歳で中國(guó)に武術(shù)留學(xué)、目の當(dāng)たりにした「デモ」に感じたこと

日本僑報(bào)社    2024年4月14日(日) 12時(shí)0分

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私は改めて「異國(guó)」にいることを痛感し、なんだか一気に遠(yuǎn)い所に來(lái)てしまったように感じて、途端に恐ろしくなった。

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2004年の秋、當(dāng)時(shí)10歳だった私は中國(guó)?杭州の地に降り立った。これは誰(shuí)に言われたからでも無(wú)く、自分の意思で決めた事。それは、映畫(huà)「少林寺」でも有名な、胡堅(jiān)強(qiáng)という私の師匠が作った武術(shù)學(xué)校?少林武術(shù)中心への留學(xué)のチャンスが舞い込んできたからだ。ここには中國(guó)全土からプロの武術(shù)家を目指す生徒達(dá)が選抜され、集っている。歳もそう変わらない生徒達(dá)が周りの期待を背負(fù)い、確固たる意思の強(qiáng)さを持ってここにいるのだ。そんな中、私のような他國(guó)の小學(xué)生に中國(guó)で學(xué)ぶ機(jī)會(huì)を與えてくれたことを幸せに思う。

その他の寫(xiě)真

食事と就寢の時(shí)間を除いて、朝から晩までずっと武術(shù)の鍛錬に勵(lì)む毎日。全身の筋肉痛がしばらく続くほどの過(guò)酷な練習(xí)?;亭婴浃视钞?huà)や舞臺(tái)の裏側(cè)の厳しさに挫けそうになった事もある。それは皆同じなはずなのに、師匠達(dá)や友人達(dá)は優(yōu)しく勵(lì)ましてくれ、敬意を持って接してくれる。強(qiáng)く優(yōu)しい、武道の志を持つ彼らの振る舞いを心から尊敬していた。だからこそ私一人だけ泣き言は言えない、と自然に思うことができた。尊敬できる人達(dá)と共に切磋琢磨できるこの機(jī)會(huì)に感謝し、日々の訓(xùn)練に必死で食らいついていた。

滯在中に、師匠達(dá)のご好意で中國(guó)武術(shù)の大會(huì)に出場(chǎng)する機(jī)會(huì)を頂いた。私は左足の付根を怪我していたので不安もあったが、練習(xí)の成果を皆に見(jiàn)せる時(shí)だ、と意気込んでいた。私は長(zhǎng)拳の型を披露した?;兢螝i型である弓歩、馬歩、仆歩と続けて足を運(yùn)んでいく。しかし、特に片腳を伸ばしたまま深く腰を落とす仆歩は負(fù)傷している私には難しい姿勢(shì)で、バランスを崩してその場(chǎng)で尻餅をついてしまった。失敗した!瞬時(shí)に頭によぎった。続いて、感情がふつふつと內(nèi)面から湧いてくる?;冥筏?、悲しさ、そして自分に対する怒りが。師匠達(dá)や友人達(dá)の「加油!」の聲にハッと気付かされる。最後までやり遂げるしか私に殘された道はないのだと。

そこからは、失敗もなく型を終えた。無(wú)我夢(mèng)中で上手くできていたかは自分には分からなかったが、結(jié)果は銀メダルだった。しかし、銀メダルだからこそ達(dá)成できなかった時(shí)の悔しさや、失敗を恐れずに物事を果敢に挑戦する勇気を?qū)Wぶ事ができた。

そんな日々が続いたある日、日中関係に端を発したデモが行われた。この時(shí)、私は改めて「異國(guó)」にいることを痛感し、なんだか一気に遠(yuǎn)い所に來(lái)てしまったように感じて、途端に恐ろしくなった。少しピリついた空気を肌で感じた。ホームシックになったことは無(wú)かったが、この日初めて本能的に、ここは危険かもしれない、日本に帰った方がいいかもしれない、と思った。不安からか堪えられずに涙が出た。未知への恐怖が大きかった。

師匠達(dá)の配慮や、友人達(dá)が寄り添ってくれたこともあり、私の不安や恐怖は少し和らいだ。皆の優(yōu)しさに觸れて、なぜ恐いと感じたのか改めて向き合う事ができた。

まずは、私の中で私の知る「中國(guó)」という國(guó)が一気に大きくなった事だった。なぜなら、それまで私の知る「中國(guó)」は私の周りの中國(guó)人達(dá)の事であり、苦楽を共にし、絆を深め合った彼らに守られたあの環(huán)境の事でしかなかったからだ。しかし、デモで知った「中國(guó)」の新たな一面は、今まで私に優(yōu)しくしてくれていた師匠達(dá)や友人達(dá)と比べ、私の中で大きなギャップを感じ、ショックを受けたのだと気づいた。

次に、「嫌われる理由を知らない事」だと思った私は、今回のデモの原因を周りの大人達(dá)に尋ねた。當(dāng)時(shí)10歳の私にどう説明するか悩んだ結(jié)果、彼らは「歴史の教科書(shū)に載っている事が日本と中國(guó)で違っているから」だと簡(jiǎn)単に説明してくれた。學(xué)ぶ歴史が國(guó)によって違う事を初めて知った私はびっくりした。そして、國(guó)が違えば、育つ環(huán)境も得る情報(bào)にも違いが生じる事を理解した。また、それらが違えば當(dāng)然、価値観や思想も変わる事も。そのため、もしかしたら私の周りの中國(guó)人達(dá)も日本に対する思いがあったかもしれないが、日本人である私を元?dú)荬扭堡瑜Δ趣工胄那菠い窑筏盲俊?/p>

こうして、幼いながらに私の中で強(qiáng)烈な體験となったデモもいつの間にか落ち著き、私はその後も引き続き、杭州で學(xué)び続けた。うまくは言えないが、この一件で國(guó)という単位での物の見(jiàn)方や世界の広さに気づいた事で、もっと大きく物事を捉えながら日々を過(guò)ごしていたように思う。

10歳での中國(guó)留學(xué)は私にたくさんの気付きと勇気を與えた。私は中國(guó)を離れた後も、自らアメリカやヨーロッパへと留學(xué)するチャンスを積極的に摑み、その國(guó)々での教育を受けながら文化を?qū)Wんだ。中國(guó)での學(xué)びは、広い世界へと続く扉の鍵となったのだ。そして、これからもその鍵でより広い世界への扉を開(kāi)いて行こうと思う。

■原題:十歳の私が一人で武術(shù)留學(xué)した話

■執(zhí)筆者プロフィール:住友麻野香(歯學(xué)生)

1993年岐阜県生まれ。2歳の時(shí)に、母の研究留學(xué)に連れられ、カナダ?モントリオールへ。帰國(guó)後、東京にあるニューインターナショナルスクールに入學(xué)。10歳の時(shí)に初めて一人で中國(guó)へ武術(shù)留學(xué)する。世界への興味に拍車がかかり、14歳でアメリカ?バーモント州にあるSt. Johnsbury Academyへ高校留學(xué)。醫(yī)學(xué)の道を進(jìn)むため、ハンガリー國(guó)立デブレツェン大學(xué)の醫(yī)學(xué)部へ留學(xué)。EU醫(yī)師資格取得。帰國(guó)後、新潟大學(xué)歯學(xué)部歯學(xué)科に編入學(xué)し、現(xiàn)在に至る。醫(yī)科歯科のダブルライセンスを目指す。

※本文は、第6回忘れられない中國(guó)滯在エピソード「『香香(シャンシャン)』と中國(guó)と私」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2023年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。


※記事中の中國(guó)をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個(gè)人の見(jiàn)解であり、RecordChinaの立場(chǎng)を代表するものではありません。

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