<日本人の忘れられない中國>戦後中國に抑留された両親、中國人も日本人も協(xié)力して生きていた

日本僑報社    2024年9月16日(月) 23時0分

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私の両親は日本人であるが、中國に行き戦爭中滯在していた。しかし父は軍醫(yī)で母も醫(yī)療関係者であったので、終戦後でも中國に強(qiáng)制的に抑留された。

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私の両親は日本人であるが、中國に行き戦爭中滯在していた。しかし父は軍醫(yī)で母も醫(yī)療関係者であったので、終戦後でも中國に強(qiáng)制的に抑留された。當(dāng)時は醫(yī)師不足で、中國では日本人でも醫(yī)師が重寶された。當(dāng)時は敗戦の混亂もあり、多くの日本人が中國に殘った。しかし父母は延々と終戦後8年も滯在し、滯在中に出會い結(jié)婚した。

その他の寫真

それだけ長期間に滯在した日本人は例外的である。理由の一つは、父の帰國の順番がきたとき同僚に譲ったからである。父の同僚は醫(yī)師の資格なしで、醫(yī)療行為をしていた。もちろん違法であり、それが判明すると當(dāng)時の中國では厳罰になる。そこで父の帰國の順番がきたが、その方に懇願され帰國を譲った。殘った父に帰國の補(bǔ)償はなく、ずっと中國に滯在する可能性もあった。しかし人の命の重みを感じた父の善行である。

その為、長年の試練の連続となる。しかし中國の人達(dá)は分け隔て無く、父母は中國人の方達(dá)とも生活では協(xié)力しあっていた。いわば地域のチームプレーで、人々は生活していた。物資が少ない時代で、中國の方も必死で生きていたし、日本の方も抑留ということを忘れて協(xié)力していた。父母の話からは不自由さはなく、生きることにおおらかな様子が見られる。國籍を凌駕して、生きていく逞しさがあった。

技術(shù)が未熟な時代で、農(nóng)耕や狩猟で生活の糧を得ていた。しかし酒はたくさんあった。父は酒が好きで、中國の人々とのコミュニケーションでは酒はなくてはならないものであった。その習(xí)慣は帰國後でも役だった。友人との酒を酌み交わしての団欒は、疲れを癒やしてくれる一時であった。

父母は中國で醫(yī)療従事者として働き、それなりの収入も得た。しかし帰國にあたって費用がかかり蓄財は殆どなかった。そして昭和28年に私が生まれたが、すぐには帰國できず、生後半年してようやく帰國ができた。だから私の出生地は中國で、中國に滯在したことになる。父母も中國で出會い、私も中國で生まれ、中國が私の家族を生んだ。

父は帰國後に中國に滯在した日本人達(dá)で會をつくり、年に1回集まり再開を喜びあっていた。會報も作り、父もよく寄稿していた。會員でいつか中國を訪れようと計畫もしていた。私は両親よりよく中國の話をきかされた。両親とも中國語は堪能で、父は胡弓をひきながら中國語で歌うのが好きであった。

また中國の自然の壯大さには憧れていた。対岸が見えない大きな川、そびえ立つ巨大な山、どこまでも続く広大な野原等、日本では見られない情景を思い、中國に思いをはせた。生活もそういう自然と融合して健康的である。こういう中國らしさは、もしかすると乳児期に體験した記憶が體に殘っているのかもしれない。

両親から聞いた中國の話は、どこまでも壯大である。言語も多種類あり、同じ中國でも南と北の人々では、方言も違い、食生活も違う。その為、遠(yuǎn)方の方達(dá)が交わる場合、相手の地域の言葉や食生活をあらかじめ調(diào)べておく。また中國の文化やスポーツや音楽は多種多様である。中國獨自の文化としての曲蕓は、先祖代々続くもので、そのバランス感覚を養(yǎng)うために、赤ちゃんの時でも戸外で大人がゆるやかに赤ちゃんを投げて受け取る。もちろん下に安全マットとかはない。落ちれば大変であるが、落ちるという概念がない。そうして赤ちゃんでも空中での感覚を鍛える。

中國はスポーツ大國であるが、中でも卓球はすっと世界の覇者である。広大な國土に多くの人口で、そういう方達(dá)が幼少児から卓球になじみ、國をあげて訓(xùn)練される。母集団が大きい分、當(dāng)然頂點では優(yōu)れた方達(dá)が君臨する。音楽も中國獨自の楽器があり、世界的な演奏者も多く、素晴らしい音色をインターネットで聴ける。それも伝統(tǒng)と中國人の才能のなせる技である。

そういう壯大さが両親のおおらかさを作った。父は豪放磊落な人であった。あれだけ苦労しても、中國生活を語る言葉はいつも笑顔に満ちていた。帰國して開業(yè)したが、全く資金のない所から、借金して設(shè)備を整え診療した?;颊撙丹螭趣谓涣鳏猡瑜⒉荬韦撙胜椁荷瞍庵笇?dǎo)する田舎の名醫(yī)であった。母も実家から遠(yuǎn)ざかる生活で、仕事に明け暮れる中で私を出産し育ててくれた。日本でも開業(yè)醫(yī)の父を支え、仕事をしながら家事と私の育児をせっせとしてくれた。診療室と食事の場はすぐ隣で、診療の合間に食事を作り私に食べさせてくれた。仕事が終わり片付けをして、それから家事をして、朝も早朝から起きて家事をしていた。でもいつも笑顔であった。

父母は慈しみの人であった?;颊撙丹螭潆O人にも怒ったことはなかった。あれだけ苦難の生活をしてきて、日常生活で不満を言わず他人を思いやることができるのは偉い。それも中國の壯大さがなせる技であろう。父母は中國を訪問することはできなかったが、私は生まれ故郷を訪ねてみたい。父母の位牌を持って。

■原題:中國が生んだ家族

■執(zhí)筆者プロフィール:木俁 肇(きまた はじめ)醫(yī)師

1953年中國生まれ。1977年京都大學(xué)醫(yī)學(xué)部卒業(yè)後、1985~1988年米國UCLA留學(xué)。2014年からアレルギー科木俁肇クリニック院長。2015年イグノーベル賞受賞?,F(xiàn)在は、ステロイドホルモンやプロトピックを一切使用しない治療で、アトピーや他のアレルギー疾患を診療。ステロイドを使わない治療を求めて、他府県からも多數(shù)の患者さんが受診している。

※本文は、第6回忘れられない中國滯在エピソード「『香香(シャンシャン)』と中國と私」(段躍中編、日本僑報社、2023年)より転載したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


※記事中の中國をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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