捕虜輸送中に米潛水艦に撃沈、「りすぼん丸の沈沒(méi)」がアカデミー賞候補(bǔ)に―中國(guó)メディア

華流    2024年9月29日(日) 21時(shí)10分

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中國(guó)メディアの澎湃網(wǎng)は28日付で、今年の第97回アカデミー國(guó)際長(zhǎng)編映畫賞の中國(guó)大陸代表作品に、方勵(lì)監(jiān)督による「りすぼん丸の沈沒(méi)」が選ばれたことを紹介する記事を発表した。

中國(guó)メディアの澎湃網(wǎng)は28日付で、今年の第97回アカデミー國(guó)際長(zhǎng)編映畫賞の中國(guó)大陸代表作品に、方勵(lì)監(jiān)督による「りすぼん丸の沈沒(méi)」が選ばれたことを紹介する記事を発表した。りすぼん丸は1920年に完成した日本の貨物船で、香港で投降した英國(guó)人兵士捕虜など1816人を日本本土に輸送するために中國(guó)の沿岸を航行中だった1941年10月1日に、米海軍の潛水艦の魚雷攻撃で沈沒(méi)し、多くの捕虜が死亡した。りすぼん丸が沈沒(méi)した場(chǎng)所は淺海で、當(dāng)時(shí)はマストや煙突の先端が海面の上に出ている狀態(tài)だった。

なお同記事は、りすぼん丸に乗船した捕虜全員に船長(zhǎng)判斷で救命胴衣が支給されていたことや、日本海軍の軍艦多數(shù)が現(xiàn)場(chǎng)に急行して救助作業(yè)に當(dāng)たり900人以上の捕虜を救助したことには觸れていない(中國(guó)人漁民が自発的に懸命な救助活動(dòng)を行ったことは事実)。以下は、同記事の主要部分に若干の情報(bào)を追加して再構(gòu)成したものだ。

日本軍はジュネーブ條約に違反し、捕虜輸送の旗や標(biāo)識(shí)を船上に掲げなかったため、りすぼん丸は出航後4日目に、中國(guó)の舟山諸島の東極島沖合いで米海軍の潛水艦のグルーパーに雷撃された。

日本軍はりすぼん丸が雷撃されてから沈沒(méi)するまでの25時(shí)間、英軍捕虜全員を船倉(cāng)に閉じ込め、木棒と布でハッチを閉鎖した。英軍の捕虜は自らを救うために勇敢に振る舞い、船倉(cāng)から脫出した。浙江省舟山市の漁民は命の危険を冒して木造の小舟を漕いで駆けつけ、捕虜384人を救出して食料と衣類、避難所を提供した。しかし捕虜828人は溺死したり、日本軍に射殺されたり、船に閉じ込められて死亡した。

方勵(lì)監(jiān)督は海洋関連を?qū)熼Tとする地球物理の専門家だったが、転身して映畫の仕事に従事するようになった。2014年に韓寒監(jiān)督による映畫作品の「後會(huì)無(wú)期」の制作に參加した際に、偶然に地元の漁師からりすぼん丸の一件を聞いた。方監(jiān)督によると、好奇心に駆られて調(diào)査チームを編成し、りすぼん丸を捜査した。りすぼん丸を発見できたことで、りすぼん丸に関係した人が、82年前に何を経験したのかを知りたいと思う気持ちがさらに強(qiáng)まった。方監(jiān)督は現(xiàn)狀を「今、それらを多くの人に語(yǔ)れる時(shí)が來(lái)ました」と説明した。SNSでは、「世界がこの82年前の中國(guó)の物語(yǔ)を聞いてほしい」と表明した。

映畫情報(bào)を扱うアプリの燈塔専業(yè)板によると、「りすぼん丸の沈沒(méi)」の中國(guó)大陸部での興行収入は28日正午ごろに3170萬(wàn)元(約6億2000萬(wàn)円)に達(dá)した。(翻訳?編集/如月隼人

※記事中の中國(guó)をはじめとする海外メディアの報(bào)道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現(xiàn)地メディアあるいは投稿者個(gè)人の見解であり、RecordChinaの立場(chǎng)を代表するものではありません。

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