日本を好きになれなかった幼少期の私、それは大好きな祖父の影響だった―中國(guó)人學(xué)生

Record China    2025年2月9日(日) 13時(shí)20分

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大好きだった祖父は、1972年の「日本國(guó)政府と中華人民共和國(guó)政府の共同聲明」で、日本に対して自分の取るべき態(tài)度に戸惑ったと話してくれた。

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日中両國(guó)の関係は、コロナ禍において、また一つ大きなものとして人々の目に映ったことだろう。この3年、醫(yī)療活動(dòng)の中核として、中國(guó)人民の命と健康を守るために機(jī)能し続けた中國(guó)友好病院は、日本政府の無(wú)償援助で建てられた大型総合病院だ。免疫感染に國(guó)境はなく、人には真実がある。

その他の寫真

私の幼い頃の思い出にある日本は、あまり良くないものだった。それが祖父の影響だと分かったのは、中學(xué)校で世界史を?qū)Wんだ後のことだ。

日本と中國(guó)は、古來(lái)より解くことのできない縁がある。聖徳太子は中國(guó)に遣隋使を派遣し、唐が中國(guó)を統(tǒng)一した後も交流は続いた。大陸からもたらされた新しい文化を、日本は大規(guī)模に吸収したことで、大化の改新以降、中國(guó)の特徴的な制度は、日本の風(fēng)土と合わさって日本の礎(chǔ)に深く関わった。こんな親友のような両國(guó)の関係を知り、長(zhǎng)いあいだ不思議だった、従姉の“日本好き”が少し理解できた。簡(jiǎn)単にいえば、私は、今まで日本を何も知らなかったのだ。文字通り、近くて隔たりのある一衣帯水の隣國(guó)だった。

両國(guó)の似ているところを探すことは、まるでジグソーパズルのようで面白い。和服は唐裝から工夫を重ねたもの、平城京と平安京も、風(fēng)土と地の利を生かしながら、中國(guó)長(zhǎng)安の建築スタイルを取り入れたものだ。寫真に見(jiàn)るその風(fēng)景は、どことなく両國(guó)の仲の良さが映っているかのようで、微笑ましい。だが、そんな風(fēng)に思えるようになるまでには、私自身、紆余曲折があった。

幼い頃、大好きだった祖父は、1972年の「日本國(guó)政府と中華人民共和國(guó)政府の共同聲明」で、「日中両國(guó)は、一衣帯水の間にある隣國(guó)であり、長(zhǎng)い伝統(tǒng)的友好の歴史を有する」という文言を聞いたとき、日本に対して自分の取るべき態(tài)度に戸惑ったと話してくれた。祖父の潤(rùn)んだ目を見(jiàn)た私は、當(dāng)時(shí)、やり場(chǎng)のない思いと理解できない狀況の中にいた。日本を好きになれなかった。

何事も、物事が理解され、日常に溶け込むまでには年月がかかる。今の私は、身をもってそれを體験したと思っている。大學(xué)の授業(yè)やネットを通して、日本人と直接交流したことで、日本人が中國(guó)や中國(guó)人にどのようなイメージを抱いているかを知った。幼い頃に祖父から聞いた日本のイメージから、どこか脫卻できなかった私は、「日本人は中國(guó)人が好きではないだろう」とずっと思っていたが、そうではなかった。彼らの、優(yōu)しく好意的な態(tài)度が強(qiáng)く印象に殘った。日本が中國(guó)を「真似た」と思っていた文化も、私の一つの捉え方だった。日本人観光客が大勢(shì)押し寄せる都市ではない場(chǎng)所で育った私にとって、一つ一つのそんな経験は、大きかった。

中國(guó)人に人気の『名探偵コナン』は、ストーリーに違和感がなく、心に自然に入ってくる。日本の漢字から來(lái)ている「経済」や「顔値」などの言葉も、今や普通で、日本の文化は、知らないうちに私たちの生活に深く入り込んでいる。漢字の伝來(lái)後、日本では平仮名と片仮名が生まれ、そして今、それらから生み出された數(shù)多くの作品が、中國(guó)に溢れている。ここにも、年月とともにある両國(guó)の関係を知ることができる。

こんな今日の両國(guó)の関係を、今の私は、「近くて深い縁をもつ、一衣帯水の隣國(guó)」だと感じている。片側(cè)から見(jiàn)たものではない、年月と交流から生まれた私の理解。目下、私の興味は日本への旅行と留學(xué)にある。日本の風(fēng)土や習(xí)慣に觸れたい、心と體で日本を感じたい。それは、先人たちが殘してくれた、両國(guó)の交流と友好史を知ることでもある。そう思うと、ワクワクが止まらない。そして何より、私の経験を祖父にも話したい。

「日中平和友好條約」が結(jié)ばれた時(shí)代、両國(guó)の中には一時(shí)的に戸惑う人もいただろう。だが、今日まで、こんなに深く、長(zhǎng)く、交流が続くことを古代の人々が予想できなかったように、両國(guó)の関係も後世まで人々に愛(ài)され、馴染み、ますます育っていくことだろう。あの時(shí)の潤(rùn)んだ祖父の目は、未來(lái)を見(jiàn)つめた希望の証だと、今の私には分かる。

■原題:年月と交流から生まれた私の理解

■執(zhí)筆者:李昕孺(大連外國(guó)語(yǔ)大學(xué))

※本文は、第19回中國(guó)人の日本語(yǔ)作文コンクール受賞作品集「囲碁の智恵を日中交流に生かそう」(段躍中編、日本僑報(bào)社、2023年)より転載?編集したものです。文中の表現(xiàn)は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報(bào)社の許可を得て掲載しています。

日本語(yǔ)作文

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